大阪春秋49号(1986年)から

大阪東の天神三社
                  
足代健二郎

 一 はしめに
         
 天満・綱敷・露の三鼎(みつがなえ)の宮、福島上・中・下の三社の天神になぞらえて、
 田島神社     生野区田島三丁目
 御幸森天神宮   生野区桃谷三丁目
 桑津天神社    東住吉区桑津三丁目
の三社を表題のごとく一つのグループとみなして、それぞれの由来の概略を読者に紹介することが小稿の一応の目的である。
 この三社は前記六社と共に、上方郷土研究会が作った「新撰天神二十五社」の番付にも載せられているので、『上方』第十五号をも参照して頂ければなお結構かと思う。
 ところで私はかねがね疑問に思っていることがある。それは大阪市近辺の天神社には、菅原道真公(以下、菅神・菅公などと記す)ではなくて、少彦名命(すくなひこなのみこと)を主神としているものが異常に多いことである。そしてこれらの社には、菅神が配祀されていることが多く、いうなれば少彦名命と菅神との「二重構造」ともいうべき様相を呈しているのである。(菅神が配祀されていない場合でも信仰上、天満宮と同一視されているものをも同等と考える。なお、網敷天神社の場合のみ、少彦名命ではなく嵯峨天皇を主神とし、菅神を相殿(配祀神)としており、これもほぽ同じ範疇に入ろう。)
 このような二重構造を示すものは新撰天神二十五社のうちの十社にものぽっており(露・福島中・同下・安居・御幸森・田島・桑津・生根・生根(玉出)・綱敷の各天神社。その外では豊中市の服部天神社が挙げられる)、当天神三社も各々がその一例である。
 そこで小稿ではどうしてもその事柄が中心的テーマとなろう。

 二 田島神社

 田島は 「たしま」 と清音で読む。
 当社の祭神は少彦名命、相殿に菅原大神・事代主命・八幡大神の三神を祀る。
 もと天神社と称し、旧摂津国東成郡田島村の氏神である。神紋は梅鉢、ただし当社以下
三社(御幸森天神社、桑津天神社)とも祭日は二十五日(菅公の命日)ではない。
 明治初年、専任神職が置かれたが、旧来、四十余戸の宮座が当社に奉仕した。
         
 神宝の一つに 「烏(からす)のの餅杵」なる三本の細い黒木の杵がある。秋祭の前々日、宮座中から集めた糯米(もちごめ)を年番の年行司宅にてこの杵でつき、これを鳥の餅と称して神前に供するのを古例としたが、大正十三年宮座の廃絶とともに行われなくなったという。
 創祀の年代はもとより不明であるが、それ以降の沿革を知る手がかりとして次のような事柄が挙げられる。
 ○ 社務所の庭の石灯篭の刻銘
    戒 三郎
    天神大菩薩一門眷属
    八幡大菩薩
     貞享元甲子年
  奉寄進願主 木地屋茄衛門
     五月大吉日  (注=一六八四年)
 ○ 神号の掛軸
  1、後陽成天皇宸筆
     「南無天満大自在天神」
          元禄十四(一七一〇)、大坂住
        平野屋与右衛門寄進
  2、「天満宮」裏書なし
 ○ 神額「天満大自在天神」
  裏面に<摂州東成郡田島村改懸神額記、明和七年庚寅夏模写、天光祖命禅師真筆)云々              (注=一七七〇年)
 ○ 相殿三神の神体は古き木像にして、主神・少彦名命のみは御幣にてやや新しく、主神の御神体を覆い奉れる御樋代には「寛政四<small>壬子</small>年吉祥日 別當大阪大学院」の文字ありという。 (注=一七九二年)
 そこで『大阪府全志(大正十一年刊)』その他の諸書には、「これによりて見れば、社の創建は貞享以前にありて、初めは菅原大神を主神に、事代主命・八幡大神を相殿に祀りしも、のち事情ありしため、寛政四年に至り新たに少彦名命を勧請し、同神を主神として従来の三神を相殿に祀りしものならんか」などと述べている。
 右の状況から見れば、この論は確かに一応筋の通った解釈と思えるが、創建が貞享以前であるのは自明のことながら、少彦名命の後世合祀説については、なお慎重に検討する余地があろう。
 なぜかと言うと、『生国玉大明神御神名記』という古書(天正十二年とあり) に、
     素戔雄命
田鳥神社 大巳貴命   同郡 田嶌村坐
     少彦名命

とあるのが少し気になるのである。現田島神社の境内末社に八阪神社があり、これはもと「牛頭天王宮」といって、本社の鳥居前に二畝余歩の境内をもつ独立した神社であった(合併以前は無格社。祭神素蓋鴫尊)。私は右の「田鳥神社」とはこの 「牛頭天王宮」 のことと考えていたが、貞享以前のある時期に素戔嗚尊のみが分けられて八阪神社となり、残る二神が当社のもとになった可能性もないとはいえまい。(八阪社神体の木鏡面に「承応二年(一六五三)奉再興牛頭天王宮」云々の文字ありという。詳しい論証はここでは略す。)

 ところで、菅公の怨霊は当時「瞋恚(しんに)の焔天に満ち」一門眷属十六万八千を率いて災をなしたというのに、ここに天神大菩薩となっているのは、時代が下って天神さんも一門眷属も共に大人しくなられたせいであろうか。
 なお、後陽成天皇の宸筆については、天満・露の両社においても、それぞれ故事来歴が伝えられている。

       
 三 御幸森天神宮

 当社は、仁徳天皇御鷹狩の旧蹟である。天皇はしばしばこの森に行幸ご駐輦あらせられたので、天皇崩後そのご神霊を祀り御幸祠(ごこうのやしろ)と称したという。
 現在境内の椋樹五本は大阪市の保存樹林に指定されている。
 旧猪飼野(いかいの)村の氏神で、仁徳天皇・少彦名命・忍坂彦命の三神を祀るが、明治十二年の『神社明細帳』では少彦名命・仁徳天皇となっている。          
 『摂津名所図会』『同大成』に「御幸宮」と誌され、また一名「天皇天神社」とも称した。
 天皇は仁徳天皇のことに違いないが、天神については、忍坂彦命を祀る天神社を合祀したため、と『東成郡誌(大正十二年刊)』に誌されているので、牧村史陽氏は色んなものにその通り書かれている。しかしこれは間違いであろう。
 なぜなら、社記によれば、医薬の祖神・少彦名命を京都の五条天神社より勧請したと述べている。この神を勧請したのは大蔵院行網(ぎょうこう)という僧で、その御神体の外箱に「大蔵院別富」の文字が見られるという。
 その年紀、文徳天皇の仁寿三年(853)というのは、果して真実かどうか分らないとしても、五条天神社の分霊を勧請したとの伝えは別段疑う理由が見当らない。さすれば天神の称が五条天神社の名に基づくことは明白であろうし、また既記の如く同神を祀る天神社が大阪市近辺に多いことからもこのように断定して間違いあるまいと思われる。
 忍坂彦命については、もと清水谷の地に祀られていたが、大阪夏の陣で社殿兵火にかかつて烏有に帰した。そののち松平忠明の幼女の夢にこの神のお告げがあったため、元和二年(1616)当社に奉遷されたという。
 当社境内に現存する灯明台は、その時松平忠明によって祭田一町歩とともに奉納されたものと伝えられている。
 宮司談によると、この灯明台の屋根瓦は二十年ほど前に葺き替えたが、以前のものには梅鉢の紋が入っていたとのことであり、また当社の氏地・猪飼野小路地区の地車の金具等にも梅鉢の紋が見られる。(現在の当社の神紋は仁徳帝の故事に因み、鷹に桐)
 なお、特筆すべき事柄として、当社では十七年間に亘って毎月一回の「御幸森万葉講座」が続けられている。

 四 桑津天神社

 少彦名命を主神とし、相殿に菅神ほか数神を祀る。
 社宝に江戸期の木彫天神像二体があり、境内のくす・もち・むくの三本は市の保存樹林 に指定されている。
 当社は応神天皇の御代、髪長媛を日向より召され、住まわしめられた所である。若き皇子おおさざきの命(仁徳天皇)が媛を見初め父応神帝はそれを察して媛を皇子に賜わったと記・紀にしるされている。
 口碑によれば、媛はこの地に機織を奨励し、蚕を養うため桑を植えられたので、桑津の地名が起ったと言う。媛があるとき病に罷り、土地の人々がこの森に少彦名命を祀って病気平癒を祈願したため全快されたとの故事によつて、後世、この神を勧請して桑津村の氏神としたのが当社の起りとされる。
 なおまた古来毎年九月二日に新米を以て「しんこ」を製して神前に供えるのは、当時、媛の本復祝として献供せられた遺習であって、本地の名物「桑津しんこ」もこれより起つたと伝えられている(『大阪府全志』)。
 もっともこの桑津新餻(しんこ)の由来については、『東成郡誌』に「今より凡八百年前、桑津の里に一老媼あり、この老媼天王寺五重塔の階投に因みて −一説に五重塔再建の際の足場をかたどりて捻じたるなりともいうー粳餅(うるちもち)を作り出したるものが何時かは名物となる」とあり、勿論この方がまだしも真実に近いであろうが、伝説として全志の話もおもしろい。
 当社の境内に八幡宮の小祠があり、応神天皇並びに髪長媛を祀っている。この八幡宮はもとは当社の東南二町、金蓮寺という寺の境内にあり(寺は八幡宮の本地堂と称す)、「髪長媛の旧址」といわれていた。『摂津志』をはじめ『摂津名所図会』『同大成』等の諸書に、
   八幡宮
 桑津村にあり土人云ふ、応神帝十三年、髪長媛をしてここに居らしむ、後人祠を建てて八幡宮と崇む。
などと載せられている。明治維新の神仏分離の際に寺は廃絶し、祠は天神社境内に移されたので、その跡地は公民館となり、現在、桑津郷土史研究会の手で立派な記念碑が建てられている。
 桑津天神社の神紋は「鳳凰」であるが、神社では由来不明といっている。試みに言うなら、天神社ということから天満宮との混同が起り、天神さんは鶏がお嫌いとの伝承から十二支の酉の代りの鳳凰(大阪天満宮表門の天井の十二支磁針盤に見ゆ)が神紋になったという案はどうだろうか。無論自信はない。ただ、道明寺に通じる奈良街道(平野街道)沿いの桑津一丁目(旧・桑津新家)にて道明寺天満宮常灯明という石柱を見たことからの思い付きである。すぐ近くの平野郷には一夜ノ天神という社があつて、菅公左遷の途次、道明寺に立寄り、その節此の地に一夜泊ったので一夜ノ天神と云うとあり(森幸安)、参考までに付記しておく。
 最後に、当社には「謝雨恩氏子中」と刻した石灯篭二対(宝暦十二年(1762)・文久四年(1864)の各一対)があり、当天神社への厚い信仰が偲ばれる。

 五 少彦名命と天神との関係

 よく知られているように、「天神」なる名称は本来は無論菅公の尊称ではなく、国ッ神に対する天ッ神(主として皇室や中臣・物部など中央貴族の祖神)の謂であるけれども、太宰府・北野二社の創建以来、「天満大自在天神」の信仰が極めて盛んとなったために、本来の天神は菅公にすっかり御株を奪われてしまったのである。
 当時、菅公の霊を畏れ敬うさまは、その名を書し又は話す事さえ畏れ多いこととされ、その名の所をあけておくか、又は菅神と書くか「諱」と書いたというほどであったという。
 そのために、本来天ッ神を祀る古社であったのが天満宮と混同されたり、あるいは模様替えをしたために今日まで栄えているものが全国に数多いといわれている。
 しかしまた逆に、もともと天満宮として創建された比較的新しい神社であるにかかわらず、江戸中期以後、古社尊重の風が起るに及んで、当社は本来天満宮ではなく、天ッ神を祀った天神社であったとか、あるいは延喜式内の何々神社である、などという主張がなされた場合もあろう。
 これらが筆者のいう天神社の二重構造の生じた要因と思われるが、それぞれの神社について前者か後者かということの考薮が必要なことは言う迄もない。
 しかしそれはさておき、天ッ神は何も少彦名命に限ったわけではないのに、大阪市近辺の天神社には何故この神が圧倒的に多いのであろうか。
 その理由の一つとして「手間(てまノ)天神社(少彦名命)」の存在も思い浮かぶが、説明が長くなるので省略しておく。(『きょうどしいくの』第6号「生野の神々と御神名記」・『神道大辞典』∧テマノテンジン)・『てんま』(天神信仰)の項を参照)
 それともう一つは御幸森天神宮の項で述ベたように「五条天神社」の影響(道修町の神農さんはその分霊として有名)も考えられよう。しかしこれとて他のすべての天神社にあてはまるとも思えない。
 結局、平凡な結論だが、目下のところ次のように考えている。それは最も古い時代から庶民の間で広く信仰された神は、農耕神でもあり且つ種々の病いから人々を救ってくれる神としての〔大巳貴命・少彦名命〕二神であつたのではなかろうか。後世、八幡・春日・天王・天満・熊野・稲荷等々の分社の多数発生によって、この二神を祀る神社は余り見立たなくなっているけれども、より古い時期にすでに全国的に分布していたのではないかと
想像するのである。
 そこで江戸期になって天神社の古い祭神を考定する時に、大己貴命(大国主神)は天ッ神とはいえないのでこれを除外し、少彦名命のみをこれに該当させたのであろう。さらに大阪近辺の場合には特に海辺に縁があるので、海上から舟で寄ってくる神というイメージのつよいこの神が選ばれたのではなかろうかと思う。   (生野区古道を歩く会代表)

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