天神社
大阪市北区国分寺1-4-1 mapfan


鳥居

交通

地下鉄天神橋6丁目下車 西へ200m



祭神

天穗日命



拝殿

由緒

 創建は天平十年(738)行基菩薩の勧請とのこと。天神社を得た民衆は幸福を祈念し、爾来産土神として祭祀怠ることなく今日に至っている。
 西側に国分寺があり、この鎮守としたのであろう。
 明治初期に国分寺から分離独立した時に寺側より返納された御神像(木造彩色坐像)を御神体としている。



国分寺
 

国分寺の中の弘法大師像と水掛不動尊
 

お姿

 社前の銀杏の木が目立つが、境内には木々は少ない。都会の神社だからこそ鎮守の森を茂らせてほしい。


お祭り

 7月 17日  例祭   

『平成祭礼データ』から



 当神社は、聖武天皇の御代、天平十年(西暦七三八)、行基菩薩が、此の地方に巡錫(説教に廻ること)に来られた際、此の地方開拓の守護神として天穂日命を勧請し奉り、民衆の幸福を祈念せられて以来、祭祀をたやすこなく今日に至っている。(本年は御鎮座以来一千二百五十年目に当たる。)
 資料は散逸して不詳であるが、西隣の国分寺の鎮守社として創建されたとも言われ、明治初年度、当時の国分寺村村長安東萬次郎氏よりの聞伝えによると、江戸時代中期より、神佛混淆思想の影響で、東隣の正徳寺の同域境内にあって管理されていたが、明治六年、神佛分離令によって分離独立し、当初社名を天神宮と称したが、明治五年、社格を村社に列せられてより、天神社に改める。
 明治三十五年より、通称名を淀川天神社としている。
 明治四十一年、神饌幣帛料供進社に指定される。
 神職は分離独立後、現在で六代目である。 大東亜戦争中、昭和二十年六月七日・十五日の二回に亘り、米軍機の空襲を受けたが本殿・幣殿・拝殿は、戦災を免れ、鳥居・玉垣・社務所・倉庫は、戦後復興したものである。
 御神体は、創建当時は小祠であったので、鏡又は石玉類であったと思われるが、分離独立した時に寺側より返納された御神像(木造彩色坐像)を現在御神体として奉齋申し上げている。(年代不詳)
 現在の神殿(瓦葺流造)は、明治四十三年に中島村(東淀川区)の神社神殿を買受け建替えた物で享保年間の社殿と推される。
 古い建造物では、裏門の鳥居(寛保三年・明治末期迄表門になっていた。)、明和・寛政年間の石燈籠、宝暦五年の木造彩色狛犬、文化八年の石狛犬等がある。    
 以上

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