福島天満宮
大阪市大阪市福島区福島2-8-1 mapfan


鳥居

交通
JR環状線・東西線・阪神本線 福島駅 南すぐ



祭神
菅原道眞
 配祀 大國主大神、事代主大神
 合祀 少彦名大神  合祀した中之天神の主神
摂社 吉高稲荷神社「宇賀御魂大神」
末社 勇神社「久ゝ能貴命」、住吉神社「住吉四柱大神」、野見宿禰神社「野見宿禰公」、安広神社「祓所大神」、事平神社「大物主命」


拝殿

由緒
 当社・福島天満宮を上之社と言い、中之宮を合祀している。
 菅公この地に着船するや、漁夫三人来て懇に公を其の家に迎えた。家母はその織りつつある布を断ちて、公の肖像を得て長く家に奉ぜんことを請いしかば、道真筆を染めて之を与える。依って、延喜七年(907)祠を建てて道真を祀る。これが当社の起源という。当地はまた道真乗船の旧跡という。

平成祭CD 神社本庁 福島天満宮
由緒


福島に三天神あり。上の天神・中の天神・下の天神と言う。
 上の天神と称された当天満宮上之社は、今次大戦後、社殿の戦災に遭われた天満宮中之社(中の天神)を合祀して、福島天満宮と改称して今日に至り、中の天神跡地(堂島大橋北詰・厚生年金病院正門南側)は、当社の行宮として飛地境内地となっている。
 因に、相殿神の大国主命は、所謂大国さま、事代主命は恵比須さまで、産業の進展・縁結びの神様の他、共に福の神として有名。少彦名命は、医薬その他の神として知られている。
 菅原道真公の家筋は、代々学問を以て仕えたが、道真公に至りその秀でたる才能は、朝廷の厚い信任を得て政界に重用せられ、醍醐天皇の昌泰二年、皇室の外戚として権勢並びなき藤原一門の間に伍して、遂に右大臣にまで任ぜられた。果たせるかな、藤原一門の激しい反目のもとに、左大臣藤原時平の讒言により九州の太宰府の権帥(副長官)に左遷せられた。時に御年五十七才。
 醍醐天皇の延喜元年二月一日、当時の都−京都を出発せられた道真公は、途中、河内道明寺の御姨−覚寿尼のもとに名残つきぬ別れの一夜を惜しまれたあと、淀川より船路西のかたをめざされることになる。
 当時の淀川の本流−今の堂島川のほとりなる福島の地は、大阪湾より海路を目指す舟旅の風待ちの所。九州下向の失意の旅路の道真公一行を丁重に迎えた、土地の徳次郎なる者の心からのもてなしに甚く喜ばれた公は、謝するに術もなしと、折りふし里人の織り成した布に親らの御姿を描き与えられた。現在も此の御自画像が当社の御神体とされている。又、土地の名を問わせられた処、「鹿飢島」又は「葭原島」なる由を答えし処、「鹿飢」は「餓鬼」に、「葭」は「悪し」に音が通じ何れも良からず、又徳次郎の徳の字の縁に因りて「福島」と改むべく、徳次郎には「福元」の姓を名告らしめられたと。(「福元」の一族は後、当社の一老・宮座となり、代々伝えて明治維新に至り、今猶存続すると言う。)
 時に、梅の一木有るを御覧になった公は、
 「行く水の中の小島の梅さかば  さぞ川浪も  香に匂ふらむ」
 と詠まれ、再び都に帰る事も測り難い故に、此の島に憩ひし遺蹟を作ると、梅の枝に松の枝を添えて一緒に刺し植えられた処、不思議にも一木となって根を下し、元禄十余年の風害に跡なくなる迄、永く葉を茂らせたと言う。
 翌朝、別れを惜しむ里人等は、公の舟に従って針間(播磨)国までお供したが、太宰府に赴かれた公が二年後、延喜三年二月二十五日、逝去せられた訃報を風の便りに耳にし、その徳を慕う余り、かの梅松二枝の根を下せし所に、延喜七年十一月十五日、小祠を設けて公を祀った。(即ち、当神社の創始である)
 翌延喜八年一月十三日、相殿神として大国主命・事代主命を合せ祀り、同年九月二十一日に盛大なる神事を行った事が、以後毎年の秋祭の始めとされる。(尚、九月二十一日は後、明治に至り陽暦となって十月二十一日に改まり、年間最重儀の例大祭として戦後の今日も、特に神社本庁・大阪府神社庁より献幣使の参向を得て祭儀が厳粛に執り行はれる。)
 (従って当社の創始は、共に村上天皇の天暦年間の創始とされる京都北野天満宮及び大阪天満天神より、四十余年更に遡る事となる。)
 一条天皇の正暦四年十月十九日、勅使散位為理卿筑紫に赴かれる時、風待ちのいとまに祭神を菅公と聞かれて御酒を神前献じ御拝せられし処、神霊感応して御尊顔自ら紅を顕し給うたと伝えられ、此の故に「神酒天神」とも称し崇められた。
 源平時代の寿永年間、平氏追討の源義経公此の島に暫く陣を張りし時、戦勝の祈願をこめた事が、有名な逆櫓論議の処として付近に残る「逆櫓之松跡」と共に今日に伝えられている。 江戸時代末期の文政十三年十一月十日、不思議の霊夢にまかせ、一老・宮座に年番守護せられ来た公の御自画の御神影は、上古の如く御本殿に鎮納せられて今日に至っている。
 宝暦八年の御改築を経て、嘉永三年の御造営になる旧社殿は、明治四十二年七月三十一日の所謂「北区の大火」(天満焼け)に炎上、御神体のみは漸く浦江八阪神社に遷し奉り得たが、旧記・宝物等の、当時まで伝え得た大部分も、此の時灰燼に帰した。然し乍ら、同年秋の大祭を間直に控える為、直ちに仮殿急造にかかり、同年十月十九日、両神社総代供奉して御神体を遷し還し奉るを得た。本建築の本殿竣成は大正四年、拝殿以下一切は大正十年に竣工した。

 今次大戦に、境内落下の焼夷弾十一発は不思議にも全弾不発。道路を隔てた一帯の民家を始め氏地の被災は被害甚大なものがあったが、神社の一画は事無きを得た。昭和四十二年、幹線道路「なにわ筋」の拡幅に伴い、旧浄正橋筋に面する約百二十坪を失い、境内狭隘となりし為、社殿その他の配置・結構も今日の如くなった。
  以上



本殿

お姿
 社殿は南向き。木々が鬱そうとしている。楠、樫、銀杏など、下町のオサシスである。
 東隅に稲荷社。拝殿の向かいに五社の連なる摂社が立っている。
 その中に、安広神社があり、社務所でいただいた『福島天満宮略記』には、祭神は祓戸大神となっている。所が平成七年の『平成祭CD』では、大氣都姫命となっている。阿波の国魂で穀物の神である。



吉高稲荷神社


お祭り
 7月 24、25日 夏祭(天神祭)   10月 21日 秋祭

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