白山神社
大阪市城東区中浜2-3-15 mapfan


鳥居と銀杏

交通

地下鉄中央線緑橋駅 北西600m



祭神

菊理媛神

摂社
 権殿「天照大神、八意思兼大神 配祀 春日大神、八幡大神、熊野大神、八劔大神、竜田大神、大己貴大神、少彦名大神、菅原大神」
 稲荷神社「宇迦之御魂大神」  



拝殿と銀杏

由緒
 創建の年月は不明。元白山妙理権現と称した。慶長十九年(1614)大坂冬の陣に際し社前の馬場は本多出雲守の陣所となった。

 摂社の稲荷神社は木村長門守の母の大蔵局の邸内鎮守であったが、当社境内の遷し、小祠を建てて今に至ると云う。

 『東成郡神社関係史料』(大阪市史史料 平成19年)に、当社の所蔵文書が紹介されています。
 これによりますと、森宮用明天皇神社の神主から、中浜村(白山権現)と鴫野村(八劔明神)両村を相手取った訴訟が宝暦五年(1755)に起こされています。要は両村とも森宮を氏神として来たのに、それぞれ勝手に祠を建てて氏神と称し、森宮との氏神・氏子関係の離脱をもくろんでいる。不法である。との訴え。
 これに対して森村・鴫野村・中浜村の三ヵ村共、本来は白山権現の氏子であったとのカウンターパンチが出たようです。中浜村の人たちの「したたか」な逆襲に感心しますと足代健二郎氏は言います。同感。
 江戸まで行ったが江戸の町の火災などで裁判も順調には進まなかったようだが、この訴えは森之宮側の敗訴となったようです。
 当サイト作成については足代健二郎氏の解説を参考にいたしました。



本殿

お姿

 南向きに鎮座。古来平野川堤防上の境内に榎・松などと共に茂った社叢をしていたが、今はこの銀杏の木のみが市内の名木として残っている。


お祭り

 10月 16,17日  例祭   

『平成祭礼データ』から



 当社は、大阪市城東区中浜に鎮座しており、菊理媛神をお祀りしている。 当社に斎祀する菊理媛神と申し上げる神は、神代の昔、伊弉諾・伊弉册の二柱の神の御中にお立ちになって御心を和やかにせられた神であって、常に親子・兄弟・姉妹・夫婦・朋友にいたるまで相互間を守り幸え睦まじくせられる神であるから、氏子は申すに及ばず世の人たちはすべて一日片時もこの神の御恩恵をこうむらないものはない。 当社の創立年歴は遼遠であるためくわしくわからないが、昔郡家の境域内にあった字安久土杜という小丘に崇祀した御社で、応永のころまでは中浜・鴫野・森の諸村の氏神であった。殿字は宏壮、社頭は広漠、巨樹は欝蒼としてこれを蔽いおのずから崇敬の念を起こさせるものがあったが、天正四年、本願寺の主僧顕如が石山に立てこもり織田信長と交戦の際に、社殿その他は烏有に帰した。文禄三年、速水甲斐守の検地帳には、氏神白山権現宮地一反二十四歩除地と記載してある。また慶長八年、豊臣秀頼が社殿その他を再建せられ、慶長十四年、片桐市正の検地の際も除地となっている。古来端午の日に流鏑馬式を行なっていたので、慶長十九年十一月、徳川家康の大阪の役のときに、宮地は射馬に縁故があるとして本多出雲守は陣屋と定められたが、社殿その他は兵燹にかかった。元和三年に大阪城在番城代の内藤紀伊守が再建せられ、延宝五年、青山大膳の新検地帳にも以前のとおり除地と記載してある。次いで享保六年八月、本殿並びに拝殿を改築し、寛保三年三月、屋根葺き替え修履をほどこし、宝歴五年九月・安永六年九月・寛政十年十月及び嘉永元年九月の四回にわたり修繕を加えた。
 明治五年、村社に列せられ、続いて権現号を廃し、社号を白山神社と改称せられ、また境内三二四坪は官有地第一種となったが、明治十八年の洪水のため荒蕪地となったので、明治十九年秋から翌二十年夏に至るまで地所を検分せられ、元のとおり社地を定められ、のち、明治二十一年九月及び同三十五年三月、屋根葺き替え修繕を行なった。明治四十二年五月、内務省令第十二号及び同年八月、勅令第九十六号をもって指定せられた。大正四年十月、本殿及び瑞籬を改築し、昭和二年八月、境内模様替え、本殿屋根葺き替え並びに幣殿・本殿及び神饌所を改築して現在にいたっている。  
 以上

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