『平成祭礼データ』茨木神社由緒
略誌
当神社は、今から千百余年の昔、平城天皇の御代大同二年、坂上田村麿が荊切りの里をつくった時、当神社奥宮天石門別神社が今日の宮元町に鎮座されたと伝えられています。平安時代の延長五年(九二七年)に編纂された延喜式神名帳にも嶋下郡十七座の一つとして天石門別神社の名が記されています。
中条村、茨木村の氏神として多くの人々の崇敬をあつめ、楠木正成公が茨木城築城の際、現在の地へ奉遷し、以後代々の城主は厚い崇敬を捧げてまいりました。特に、豊臣時代には、城主中川清秀、片桐貞隆等が上田を寄進し、徳川時代には、藩主永井家、大阪城代等から祭礼毎に重役を代参させるなど氏子と共に尊崇の誠を捧げてきました。
の元亀、天正の頃、織田信長は天下統一の手段としてキリスト教の布教につとめ近畿一円の神社仏閣を多数焼却するに際して天照大神、春日大神(天児屋根命)、八幡大神(誉田別命)および牛頭天王(信長の産土神)の諸神は恐れ畏んで破壊しませんでした。そこで天石門別神社の社名を隠して牛頭天王社と称して焼却を免れ、後実際に素盞嗚尊を合祀したと摂津名所図会(寛政十年刊)にも記されています。
天皇の元和八年(一六二二年)九月十日に社殿を新築して、天石門別神社を奥宮に遷し、素盞嗚尊を正殿に斎き相殿として天児屋根命、誉田別命を合わせ祀り本社としました。
年、郷社に列せられ、昭和二十一年、神社制度の改革により宗教法人として新たに発足し、現在に及んでいます。
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