茨木神社・天石門別神社
大阪府茨木市元町4 mapfan



茨木城東門の鳥居


交通

阪急茨城駅 北側の商店街を進む。



祭神


茨木神社 建速素盞嗚尊 配 天児屋根命、誉田別命
天石門別神社 天手力男命 配 天宇受売命、豊国神、東照神



茨木神社境内風景と拝殿


由緒

 摂社になっている天石門別神社は摂津国嶋下郡の式内社である。
 社伝には坂上田村麻呂が、平安時代初めの大同二年(807年)に茨木の里をつくった時に鎮座とする。 『摂津名所図会』によれば、住民が当神社の名前が難しいので、言い慣れた八幡宮とか稲荷、春日とよんでいたそうである。 そこへ、織田信長の神社仏閣破壊の嵐の中で、信長の崇敬した天照大神、祇園牛頭天王などの神名は破壊を免れたとしている。

 江戸時代に入ってから、牛頭天王、春日神、八幡神を祀って茨木の氏神とし、由緒ある天石門別神社 を地主神とて、奥宮の扱いを行ったそうである。



茨木神社本殿と天石門別神社

お姿

 社地は元の茨木城の跡地である。 南からの参道は広くて長い。茨木神社拝殿はなかなか立派、また天石門別神社は神明造で厳かな鎮座ぶりである。天石門別神社は茨木神社本殿の真後ろに鎮座している。



天石門別神社


お祭り

  4月18日  祈年祭(春祭)
  7月13日、14日 例祭(宵宮祭、本祭)
 10月10日  秋祭


『平成祭礼データ』茨木神社由緒


略誌

  当神社は、今から千百余年の昔、平城天皇の御代大同二年、坂上田村麿が荊切りの里をつくった時、当神社奥宮天石門別神社が今日の宮元町に鎮座されたと伝えられています。平安時代の延長五年(九二七年)に編纂された延喜式神名帳にも嶋下郡十七座の一つとして天石門別神社の名が記されています。

中条村、茨木村の氏神として多くの人々の崇敬をあつめ、楠木正成公が茨木城築城の際、現在の地へ奉遷し、以後代々の城主は厚い崇敬を捧げてまいりました。特に、豊臣時代には、城主中川清秀、片桐貞隆等が上田を寄進し、徳川時代には、藩主永井家、大阪城代等から祭礼毎に重役を代参させるなど氏子と共に尊崇の誠を捧げてきました。

の元亀、天正の頃、織田信長は天下統一の手段としてキリスト教の布教につとめ近畿一円の神社仏閣を多数焼却するに際して天照大神、春日大神(天児屋根命)、八幡大神(誉田別命)および牛頭天王(信長の産土神)の諸神は恐れ畏んで破壊しませんでした。そこで天石門別神社の社名を隠して牛頭天王社と称して焼却を免れ、後実際に素盞嗚尊を合祀したと摂津名所図会(寛政十年刊)にも記されています。

天皇の元和八年(一六二二年)九月十日に社殿を新築して、天石門別神社を奥宮に遷し、素盞嗚尊を正殿に斎き相殿として天児屋根命、誉田別命を合わせ祀り本社としました。

年、郷社に列せられ、昭和二十一年、神社制度の改革により宗教法人として新たに発足し、現在に及んでいます。

 

参考 『式内社調査報告』『平成祭礼データ』

公式茨木神社
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