疣水磯良神社
大阪府茨木市三島丘1-4-29mapfan



鳥居

交通

阪急総持寺駅北西1km



祭神
磯良大神

由緒

 新屋坐天照御魂神社(西河原)の境内社であったが、今や独立して、繁盛している。これはひとえに「玉の井」(疣水)の効用である。「疣、黒痣を洗えば、忽ちにして抜け落ちる」とされている。井保桜も有名であった。

 磯良大神は安曇氏の祖神として知られ、その顔に蠣などが取りついている海の中に住む精霊である。播磨国揖保郡(龍野)の粒坐天照神社と新屋坐天照御魂神社とは繋がりが見られ、新屋社の摂社となっている疣水神社とは無関係ではないと思われるが、今の所解明できていない。

 磯良大神とは古代の海人族である安曇氏の祖神であり、対馬の和多都美神社(豊玉町仁位)の原初の御神体が「磯良エビス」と呼ばれる霊石である。博多湾で金印の出土した志賀島が拠点であったようだ。ここには式内社の志加海神社が鎮座。

 磯良を磯武良とも記す。対馬の多久頭魂神社の摂社松崎神社の祭神は「安曇磯武良」と表現されている。磯武良をイソノタケルと読むことができる。磯は渚でありナギサタケルとなり、日高日子波限建鵜葺草葺不合尊のナギサタケが出てくる。

 一方、五十猛命はまさに「イタケル」「イソタケ」と呼ばれ、これまた似た名前である。これらの三神は海に大いに関係がある事と、不合尊の鵜茅を半島の上伽耶と解する見方もあり、また五十猛命を韓国伊太テ命とも称し、二神は共に半島の名を持つ神である事も偶然ではないと思われる。

摂津名所図会 磯良神社

 よるへの水は社頭の神水なり、世人は此水を疣水といふ、ここに来て疣黒痣を濯ふ時は、忽に抜落るとぞ、天照御魂社の神水なれば、面貌の疣にも限らず、邪念の穢れを清め洗ふ時は、などか美とならざらんや
 むかしは此清水潤沢にして田畝数千頃を養ふ、後世社を北に遷し、ことごとく樹木を伐て墾開して田となす、これより清水漸涸て水少となる、所謂君子不伐[塚のつくり]といふ事、故あることにや。摂津志んきは玉の井と書す。

 井保桜は疣水の北にあり、此花希代の大樹にして、野邊に只一本ありて遠境より見えわたるなり、根本より一間許上より幹二十餘に別れて四方繁茂し、小枝数千あり、一本の周り五十間許なり、花は山桜の少し少輪伊勢桜ともいひつべきもの歟、花の盛りは立春より七十日目許なり、其の年の寒温による、浪華及び近隣より群来りて艶花を賞、



社殿
 

お姿

 西河原の天照御墾神社の南東に鎮座、共に社叢をなしている。 境内の南側に本殿の元地や玉の井の祠がある。また比較的低い鳥居が二基つらなっている。 玉の井では紙コップ(5円)が置かれており、神水をいれて社殿で拝んでから飲むとよいとある。 町中の井戸水であれば、大丈夫かなと思う。多分水道水を濾過してくれているのかも知れない。



玉の井と旧社地
 


お祭り

4月15日 例祭  

平成祭礼データ

 磯良神社由緒略記
通称(疣水神社)

磯良神社は「疣水神社」の通称で知られ、地元三島地方はもちろん、広く京阪神一円より篤い崇敬をうけております。
当神社の御祭神・磯良大神は九州安曇氏の祖神として知られ、また住吉三神とともに神功皇后三韓への御征途に際し、水先案内をされて航海の安全に功があったと伝えられます。
当神社がどのような経過をたどってこの地に奉祀されたかについては、詳しい資料は残っておりませんが、言い伝えによると、当神社はもともと式内社・新屋坐天照御魂神社(天照御魂神社)の境内社でありましたが、寛文九年(一六六九)、天照御魂神社が現在の地に御遷座されてより相離れて今日に至っているとのことです。 なお、現在の御社殿は昭和五十四年の造営になるものです。
以上



参考  磯良神を祀る神社一覧 (神社庁平成祭りデータ cdより)

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