鵲森宮(森之宮神社)
大阪市中央区森之宮中央1-14-4

鳥居   拝殿
 

交通

JR環状線森之宮駅、地下鉄中央線森之宮 南すぐ its-mo



祭神
奧社 天照大神、月読命、素盞嗚命
本社 用明天皇、穴穗部間人皇后、聖徳太子
摂社 五幸稲荷社に、庚申社、大己貴命、烏丸明神、熊鷹大明神、天神、八幡大明神、忌部社「手置帆負命、彦狭知命」、真目宮「布留魂命」を合祀。

本殿 屋根がかろうじて見えている

由緒
  玉造森村に鎮座。 鵲(かささぎ)森宮と言う。
 『日本書紀』に「推古天皇六年夏四月、鵲二喉を難波の杜に養はしむるは則此の地なり。」とある。その難波の杜の候補地の一。他には生魂神社など。
 崇峻天皇二年七月、聖徳太子此の地にはじめて四天王寺を興立す。廿五ヶ年を経て今の荒陵山へ移し給う。
 亀井水が本社東下にあったが、これも荒陵に移ったと言う。

 祭神の用明天皇は聖徳太子の父帝で、此の地に四天王寺を建立する時、御父の神霊を伽藍の鎮守として祭ったのが由緒と言う。
 往古、兵難囘禄によって旧記を焼失、由緒は未詳。

 かっては末社に真目宮があり、布留魂命が祀られていた。『摂津志』には、物部大連の難波の第址を森村とし、このように江戸時代には四天王寺は当初此の地に建立されたと見ているようだ。

お姿
 境内は狭い。拝殿・本殿の真後ろに背の高いビルがあり、神霊の降臨の邪魔になりそうだ。

五幸稲荷神社

亀井の跡

摂津名所図会


お祭り
 
   7月 15日 夏季大祭   10月 15日 秋季大祭

由緒 平成祭礼データから

 上町台地の東の一帯は古くから栄たところで、森ノ宮遺跡(市立労働会館{現:アピオ大阪}下に保存)の貝塚にもわかるように、縄文時代から沢山の人が住んでいたところである。
 上古よりこのあたりは玉作の岸と称する良港であり、外国からの使節の殷賑が多かったようである。近くに国分町と称する町あり、おそらくは国分寺や迎賓館があったのであろう。
 上古、このあたりにあった森を「難波の杜」と呼んでいたようである。そこに崇峻天皇二年七月、聖徳太子が物部守屋との戦いの時、必勝を期して父母である用明天皇と穴穂部間人皇后を祀り、自ら四天王の像を刻み、大伽藍を当社近接の玉作の岸に創立なさった。これを元四天王寺という。
 しかしこの土地は低地のため、風波や満水によりて伽藍を損することあるによりて、聖徳太子後代を憂いなさり、推古天皇元年九月、四天王の像及び伽藍を残らず今の荒陵にお移しになった。しかし諸堂の御鍵はその侭当社に残し置きなさったという。その伽藍の跡は今の森之宮公園のあたりという。
 推古天皇の御代には吉士磐金という人が、新羅の国より帰国して鵲をこの森に飼わせたという。(『日本書記』・推古三年夏四月の条)それ故「鵲之森」と唱え、終に宮の名となり、略して森之宮、森明神という。江戸の各地図にも、又『摂津名所図絵』にも紹介された。文久の『浪花百景』にもカラーで書き止められている。

 又二次大戦のおり、北の近くに造幣工厰(現・大阪公園)があり焼夷弾が雨と降ったに関わらず本殿は焼けなかった。霊験あらたかな神社である。
 ところが市街地のため、省線(現・JR)、市電(現・なし)や道路拡張のため境内地が削られ、平成八年には本殿の下を地下鉄七号線が通ることになり、それゆえに平成の遷宮を今考えさせられている。
 以上

鵲森宮(森之宮神社)奥宮 投稿者:ple
写真掲示への投稿から


久しぶりに投稿させていただきます。
鵲森宮には奥宮の御祭神が掲載されているのに、奥宮が見当たらず不思議に思っていました。
公式HPにも奥宮の説明は一切ありません。
ところが環状線の窓から、とあるビルの屋上にチラリと見えた千木。
気になって行ってみると、そこは神社所有と思われるビルでした。
社務所にお願いして参拝させていただきました。
テナントビルなので、入居者への配慮やセキュリティーの問題から公にしていないのかも知れません。
一応、ビルの入り口はオートロックです。

本社 奥宮 奥宮


pleさん、ありがとうございます。

公式 森ノ宮神社

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