天神ノ森天満宮
大阪市西成区岸ノ里東2-3-19 its-mo



鳥居



二の鳥居


交通

地下鉄岸里 南東600m



祭神

菅原道眞

摂社
皇大神宮社 天照大神
稲荷社倉 稻魂命 
猿田彦命社 猿田彦命
地主神社
子安石

由緒(大阪府誌)

  紹鴎森 天王寺村の小字天下茶屋の中央は紀州街道の通ずる処、道は南に馳せ人家の盡頭左方一叢林を見るもの是れ紹鴎森にして、封彊六百二十坪を含有し裡に一社あり、菅原道真を祀り天紹鴎満宮と称せり。街道より折れて将に入らんとする処一石標あり、紹鴎社と称す。(中略)昔は境内広潤にして豊臣秀吉も堺の政所に往復の時き紹鴎棲居事を千利休聞き、其の茶亭に臨みしより殿下茶屋と称せしを終に邑名となすに至れりといふ。社は今村社にして本殿拝殿の外三座の末社あり。

 境内掲示 道真公が筑紫へ左遷されたおり、住吉明神へ参拝の途中この地に休息され、その後祠が建立され、応永年間に京都北野天満宮の御分霊を奉斎した。現在の本殿は元禄十五年(1702)七月に建設されたものである。



拝殿



本殿


お姿

 梅雨の日の雨上がりの午前に参拝した。境内には一段と湿気が満ち、蒸す気候であった。 樹齢七百年の楠木を始め多くの楠木が所狭しと立っている。見事な天神の森である。
 


お祭り
 
 10月 25日  秋季太例祭



右側から猿田彦大神、天照皇大神、倉稲魂大神



地主神社


子安石




平成祭CD  天満宮(紹鴎杜天満宮、子安天神)由緒記

 御祭神の菅原道真公は、天穂日命を祖先とし、承和十二年(八四五)六月二十五日、文章博士堤善郷の子として生まれた。元慶元年(八七七)、文章博士になり、昌泰二年(八九九)、五十五才で右大臣に任命された。この事を快く思わなかった藤原時平等の讒言により、昌泰四年(九〇一)正月二十五日、太宰権師に左遷され、太宰府で延喜三年(九〇三)二月二十五日、五十九才で至誠一貫の生涯を閉じられた。道真公の死後、公の左遷の首謀者であった藤原時平の悲惨な死、都に起こった雷鳴、地震、旱魃、洪水、疫病、火災、などを道真公の怨霊のせいと考え、その霊を慰めるため、太政大臣正一位を贈り、天歴元年(九四七)、京都北野に天満大自在天神として、祀り鎮めた。これは世の人々が道真公の人格をお慕いしたことと、平安時代の怨霊思想の影響によるものである。
 中世には、天神の御霊神としての性格はうすれ、学問の神として各地に天神さまをまつる天満宮・天神社がつくられた。天神の森天満宮は、道真公が筑紫へ左遷されるおり、住吉明神へ参拝の途中この地に休息され、その後村人にとって祠が建立され、応永(一三九四〜一四二八)に京都北野天満宮の御分霊を奉斎したと伝えられている。現在の本殿は元禄十五年(一七〇二)七月、拝殿は昭和十二年に建設されたものである。
 「紹鴎杜天満宮」樹令六百年と推定される楠(十三本が大阪市の保存樹林に指定されている)の森は「天神の森」と呼ばれ、大きなものは高さ十八メートル、幹回り四メートルあまりにもなっている。茶道中興の祖、武野紹鴎がこの森の一隅に茶室をつくり、風月を友として暮らしたので「紹鴎杜」と言われている。紹鴎は若くして、茶道の極意を感得し、茶名を紹鴎と定め、わびの境地をもって茶道の理想とした。晩年の門人に千利休がいる。秀吉公が境政所(江戸時代の境奉行所にあたる)への往来の途中、天満宮西側の茶店で休息、この付近の風景を賞したことからこの地を殿下の茶屋−天下茶屋と称するようになり、当社も「天下茶屋天満宮」と呼ばれるようになった。       以上



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