三宮神社
神戸市中央区三宮町2-4-4 mapfan



鳥居

交通

三宮駅 南西300m〜400m



祭神
湍津姫命
摂社 稲荷神社、河原霊社

由緒

 一宮神社から八宮神社までを生田神の裔神を祭るとする。五男三女神が揃っているかと云えば、七宮神社の祭神は大己貴神となっており、活津彦根神が見当たらないのだ。
 創建の時期は不明。今日の様に周辺が繁華街となり、当社の「三宮」が地名、駅名となって、生田神社も真っ青と云った所。かっては、境内に井戸があり、清水がこんこんと湧いていたようだ。豊かな井泉は港には不可欠であり、さらに井泉周辺を聖地とする神社ができてくるのは自然なことだが、ここはあまりにも周辺が発展し、かつ海岸線も遠くなり、清水提供の機能も必要ではなくなったのだろう。



拝殿


本殿


 河原霊社については、境内に掲示があった。概要を記す。
 源平の史蹟 河原霊社のいわれ
 祭神 河原太郎高直(兄)、河原次郎盛直(弟)
 祭日 二月七日
 寿永三年(1184)に起こった源平一ノ谷合戦、生田の森で一番乗りの功名手柄立て その後、討ち死にをした源氏の勇士河原兄弟の塚とその馬塚がこの付近にあったが神戸開港以後 土地の発展につれてその塚は惜しくも跡を失ってしまった。
 大正年代、三宮町三丁目の有志がこの有名な源平の遺跡を世に顕彰すると共に 兄弟の霊を祀って霊社を建立した。
 旧遺跡は都市計画のため昭和三十三年四月少し北の方に当たる地に移したが、またまた 環境の変化によって昭和四十六年に三宮神社境内に遷した。
 平成七年の阪神大震災に因り壊滅したので、この地に復興したものである。



河原霊社


 三宮神社前が発端の神戸事件概要


 神戸開港早々の明治元年正月十一日尼ヶ崎へ出向を命じられた岡山備前藩 の隊士の行列が三宮神社前を通過するとき、神戸沖に停泊中の外国軍艦の乗組員数名が 行列を横切った。
 隊士の滝善三郎正信は日本の風習から無礼を怒って相手を傷つけた。これがもとで外国兵 と備前藩士の一行との間で砲火を交える騒ぎとなった。その結果神戸の街は外国兵 によって一時占領されてしまった。
 同月十五日東久世通禧は勅命で神戸へ来て 明治維新で天皇新政となったことを初めて外国側に知らせ  同時にこの事件について交渉をした。 結局滝善三郎は責任を一身に負い、外国人代表らが立ち会いの面前で 切腹して問題を解決した。

お姿

 境内は広くはなく詰まっている感じだが、 社殿は立派な建物。東側に稲荷神社、さらに東に河原霊社が鎮座している。



稲荷神社
 


お祭り

 春祭 5月12日、13日   秋祭 10月12日、13日  

『平成祭礼データ』

  御由緒

 三宮神社は、国際港都神戸市の最も中心をなす繁華街に、港を前にひかえて鎮座ましまし、祭神として天照大御神の御子である女神湍津姫命を祀り、交通の安全と商工業の繁栄を守り給う神として、又、智恵授けの神として古来より一般の崇敬篤い神社である。
 創祀の年代は古くして極め難く古記録も欠けているが、神社には享保十七年(一七三二年)の銘ある石鳥居と手水鉢や、寛延元年(一七四八年)の銘ある石灯篭が存在している。この地は以前尼崎藩領であったため藩公が篤く信仰せられ、右の寛延の石灯篭は尼崎藩主の奉納になったものと伝えている。
 明治維新ごろまでは、神社の附近は山手まで一面田園に過ぎず、宮はその中に西国街道に添うて丘を負い、うっそうと繁った森をなし、遠方からもよく望めて目標となっていた。そのころ神社の前にはアヤメを植え、花時には旅人の憩いの場所となり、西には須磨の前田邸のカキツバタが有名で、道中の雲助歌にも「咲いてしおれてまた咲く花は、須磨の前田のかきつばた」とうたわれていたのに対して、東の三宮神社のアヤメも近在だけでなく遠来の旅人にも親しまれていた。
 神社の境内には、古くから清水のこんこんと湧き出る井戸があって、神戸の港へ出入りの船は、必ず神社へ参拝してこの水を汲み取って航海中の飲料水として用いるので大切がられていた。どこでも古くからの船着場には良水があることが条件となっていたが、ここもその一つであった。当社の神官は代々世襲であるが、現在の宮司の姓が清水氏であるのも、先祖がこの井戸の清水から命名されたのである。
 慶応三年十二月七日(一八六八年一月一日)、神社前の神戸の浦が海港され、居留地が設定されることになって、その工事用に神社附近の丘を削って、土を運ぶなどして昔の景観を失い、明治十八年までは、まだ数株の老松が残っていたが、次第に周辺はひらけ、おいおい人家や商家が建ち並び、ついには今日見るように異常な発展を遂げることになり、三宮の名は駅名や官公署や会社、銀行、商店名につけられて全国に知られるようになった。
 神社は今次の大東亜戦争による戦禍をうけ、また、それに関連する都市計画によって、神域はせばめられるの余儀なきに至ったが、三方に大道路が通じる位置になったのを機会に、境内の整備と本殿、拝殿、社務所の復興造営を意へ面目を一新崇高なる唯一の信仰地なる。境内に祀る末社の三宮稲荷と、安高稲荷大明神は古くから霊験あらたかとして信仰され、各地からの信者の参詣を始め、京都、大阪方面から子孫二代、三代にわたり今なお月参りをされる熱心な信者もあって、戦後いち早く篤志家の寄進によって復興されて、いよいよ神徳が崇められている。

   以上

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