須佐男神社(久々知)
兵庫県尼崎市久々知1-3-28 mapfan


鳥居

交通

JR塚口駅 南東 700m



祭神

建速須佐男神、建御名方神 配祀 諏訪明神、須佐男命



社殿

由緒

 当社は、妙見、牛頭天王を主神とする神仏習合の社でした。明治初年の神仏分離政策により、妙見祠のみ転出し、須佐男神社と改称しました。同社は平安時代の天徳元年(957)、摂津一帯に勢力を持っていた源氏の頭領、多田満仲の勧請により建立されたと伝えられています。

 妙見とは、北斗妙見菩薩を指し、北辰星(北極星)を中心に北斗七星を神格として祭ったものです。これは大阪府下の能勢妙見宮を川西に本拠する多田満仲がとくに崇敬したため、その配下の武将も同じ妙見信仰を持つようになったと考えられます。当社の境内にある満仲ゆかりの「矢文石」も、強肩の人物であった満仲の鏑矢伝説と結びついたものです。

 江戸時代に刊行された『摂津名所図絵』にも描かれている風景は現在も地元の人々によって大切に保たれているところです。



矢文石

 多田満仲公は摂津国守に赴任すると、住吉大神の御信託によって当須佐男神社のこの石の上から矢を放った所、矢は雲の上遥かに飛び上がり、池田五月山から戊亥(西北)の方向にあたる谷蔭の深いところに光を放って落ちていった。

 満仲はその放った矢を問いながら来られた処、頭が九つもある大蛇に突き刺っており、大蛇から流れた血水跡はまるで紅の河のようになって流れた。早速大蛇の首を切り、九頭の明神とあがめ祀った。大蛇の地水の引いた所が多くの田のようになっていたので、所の名を多田と名付けた。また矢を問いながら来た所から、矢問という地名もつけられた。

 兵庫県川西市東田原2に九頭大明神が鎮座、五月山から北西に当たる。
 この物語はさまざまに分岐していったようで、猪名川を下った所に鎮座する小戸神社の境内の白竜大神の創建譚にもなっている。



近松門左衛門の墓

 廣済寺と近松門左衛門

 廣済寺は、江戸時代の正徳年間(1711〜1716)に、日昌上人が法華道場として再建した。近松門左衛門はその際、建立本願人として貢献した。その後もたびたび廣済寺を訪れ、ここで作品を執筆したと伝えられている。
 境内には近松門左衛門の墓がある。

お姿

 東側に廣済寺の伽藍があり、右側は住居で、狭いと感じる鳥居付近だが、境内は緑も豊富。



廣済寺の妙見祠と元地の碑
 


お祭り
10月10日 例祭
 

『摂津名所図絵』久々知妙見祠

参考 尼崎の神社

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