公智神社
西宮市山口町下山口201 itu-mo

鳥居

交通案内
神戸電鉄三田線田尾寺 東1000m 南へ少し


祭神
久久能智神 配祀 健速須佐之男命、奇稻田姫命


摂社
塩津神社 鹽土翁

拝殿


由緒


 『播磨国風土記』に、「久牟知川。右は山に因り手名と為す。山の元の名は功地山(くうちやま)なり。昔、難波の長楽の豊前の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世、温泉に車駕幸(いでま)さむと為(おもほ)して、行宮(かりみや)を温泉につくりたまひき。時に材木(くれき)を久牟知に採るに、其の材木美麗しかりき。ここに勅りたまひしく、「この山は功ある山なり。」とのりたまひき。因りて功知山と号(なづ)けき。俗人彌誤て久牟知山と曰ふ。」とあるが、当地方は古くから天輿の好地であって、古代氏族早くからこの地に居を定め、林間を開拓し農耕に従事するもの多く、文化の淵源を作り、郡内においても最も早く民族の群居せし所と伝へられ、第八代孝元天皇の皇子大彦命の後裔久々智氏が部曲の長として統御せられたのに始まり、山野に生活の安易と交通の便ある所、戸口蕃殖するに至り、その民族が祖神久々能知命を奉祀して産土神として崇敬したものと伝える。(『式内社調査報告 5』(加藤隆久筆)

 『日本書紀』に、「巻二五大化三年(六四七)十二月晦◆十二月晦。天皇還自温湯。而停武庫行宮〈武庫。地名也。〉」とある。

社殿


お姿
 東向きに、西側に森が繁茂する境内である。社叢には、シイ、ウラジオガシ、アラカシ、ヤブツバキが多いのは瀬戸内海内陸部の特徴と云う。
 神木であるシイの古木が境内にある。

シイの古木


お祭り
 10月 10日 秋季例大祭

塩津神社

神輿殿

『平成祭礼データ』公智神社 御由緒


当神社は延喜式内社にして祭神は木の祖神「久久能智神」なり、創立年月日詳ならず人皇第八代孝元天皇の皇子大彦命の後裔久々智民族が山口荘内の最も適当なる丘上字向山(功地山又ハ天上山ト云フ)を選み奉祀し崇敬せしものなりと後ち孝徳天皇大化三年冬十月左右大臣郡郷大夫百官を従はせられ有馬温湯へ行幸し給ひし際行宮御造営の御用材を当神社地より伐採し給ひ其の用材の御良好なりしをみそなわさせ給ふや勅して「功地山」と山名を下し賜われたり時に天皇三ヵ月の久しき間此の附近に車駕を駐め給ひ厚く神社を御崇敬せられ給はれし事は延喜式神名帳、神名帳孝証(度会延経者)、神名帳孝証(伴信友著)、古事類苑、大日本史、日本地理資料、神祇志料、式社孝証(桑原弘雄著)、摂陽群談、神社確録、摂津志、摂津名所図会、明治神社誌料、特選神名帳等の国史に明らかにして其行宮址は現神社馬場先なる字奉奠堂(ホウテンドウ)の地と称伝せり又貞観年中に「健速須佐之男命」「奇稲田姫命」の二神を配祀せし事は社記社伝に明らかなりと雖も其年月不詳爾来祇園牛頭天王又は天王宮と称するに至れり然るに後当神社は現今の社地に移遷し奉れり移遷せし年代は記録の確証なければ正確に証すること能はずと雖も蓋し彼の掘河院の御宇承徳元年の大洪水にて有馬温泉の潰泉せし頃なるべく社記社傳に徴するに霊夢ありて現今の地へ移遷すとあり其後応仁、文亀の両度の兵乱の際社殿其他の建築物諸記録宝物等悉く烏有に帰せり後大永年間漸く社殿を再建せりと中世以降摂津源氏が河辺郡多田に本拠を占め有馬郡の各荘は多く其配下に属し山口荘も其一族山口五郎左衛門の支配となり荘内東方丸山に要害の城を構へ三千余石の地を領し当神社に常に崇敬祈願せし所なりしが山口氏滅亡後徳川末世に至る迄田安公又は天領に分属したり領主遠隔の為め寄進物等の著しきもの伝はらず只山口氏及其子孫より寄付する神楽殿一棟随神一対手水鉢一個現存す 上記の通り当神社は延喜式内の神社たるのみならず特に孝徳天皇深く御崇敬あらせ給ひし由緒ある神社たれば氏子の崇敬心はもとより崇敬者日々増加し現今千数百戸を数へり明治六年八月村社に加列せられ同十二年六月郷社に加列せられ同四十五年三月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定せられ神社所有の田畑山林時価九万余円其他基本財産として八千七百余円額面債券を有し昭和四年四月二日付県社に加列せらる 昭和四十九年十月拝殿・本殿・社務所等修改築される
 以上
以上




神奈備神社一覧兵庫県

神奈備にようこそ
inserted by FC2 system