桑津天神社
大阪市東住吉区桑津3-4-17  mapfan

鳥居と八王子神社

交通

近鉄南大阪線河掘口駅 東へ500m



祭神
少彦名命、天兒屋根命、布刀玉命、天宇受賣命、猿田毘古神、經津主命、健甕槌命、菅原道眞
 合祀 須佐之男命、奇稻田比賣命、野見宿禰
摂社
  八幡宮  應神天皇 配祀 髮長媛
  八王子社 須佐之男命、歳徳神
  稲荷社  宇迦之御魂神

由緒
 『日本書紀』(応神紀)に、日向国の髪長媛は国中の美人だと天皇が聞いて、媛を召されて摂津国桑津邑に置いた。この媛を皇子の大鷦鷯尊が目にしてその美しい容貌に心を引かれ、天皇は大鷦鷯尊に与えたとある。

 応神天皇は難波の大隅宮で亡くなったとの記述があり、その宮を四天王寺付近とする説は桑津に近いことを根拠にしているようだ。

 創建年代は不詳。口碑によれば、当地を桑津と言うわけは髪長媛がここに桑樹を養い、糸をとって織物をなしたので、髪長媛を織媛と言うとにある。じに媛が病気になった時、少彦名神に祈って回復したので、その縁故があり、後世少彦名神を勧請して氏神として奉祀したのが由縁とある。

 また摂社の八幡宮はもと金蓮寺の境内にあったが、明治維新後寺は廃絶、八幡宮は天神社の末社となった。また金蓮寺は応神天皇の髪長媛を居住せしめた桑津館の旧地であり、後世祠を建ててその霊を祀ったのが八幡宮と言う。(『大阪府全志』から)

 「桑津のしんこ」は桑津のかっての名物。髪長媛の病気が回復した時、御祝に当社に供えたのが起源と言う。白米を日光で乾かし、臼でひいた粉で作った餅のこと。また、別に今から八百年ほど前に四天王寺の五重塔に因んで作った餅に始まるとの説がある。



拝殿

お姿
 東面して鎮座。
 鳥居の側に八王子神社が鎮座、そこから公園になっている。道を隔てて社域はある。従って入ればすぐに社殿となる。
 向かって左側(南側)に稲荷神社、右側(北側)に八幡宮が鎮座、八幡宮の前には橘・桜と彫った石が立っている。木を植えればいいと思うのだが、何故石なのかよく判らない。



本殿と稲荷神社


お祭り

  10月 16日 例祭



八幡宮


 


『平成祭礼cデータ』

 天神社(あまつかみのやしろ)参拝のしおり

 大坂陣の時に資料を失い、由緒は詳らかではない。しかし口伝によると、髪長媛が病にかかられた時、少彦名神に祈願され全快された。
 古来毎年九月二日に、新米を以て「しんこ」を作り神前に供えるのは、媛の本復祝いに供えられたことによる。後に「桑津のしんこ」として名物となつた。
 髪長媛がこの桑津の地に召された記事は、「日本書紀」の応神天皇の条に 「十三年春三月、天皇専使を遣わして髪長媛を徴さしめたまふ。秋九月中に、髪長媛日向より至れり。便ち桑津邑に安置らしむ」と記されている。

 即ち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女として、宮中の新甞祭に奉仕するために、日向の国より召され、(現在の宮崎県都城市が髪長媛生誕の地と言われ、同地の早水神社には髪長媛をご祭神として奉祀されている)仁徳天皇妃となられ、桑津にお住みになった。

 後に、髪長媛の住まい跡に金蓮寺が建立された。同寺については、古記録によると「文禄三年浅野弾正の検地以来その境内四百九十三坪は徐地となり、宝暦七年住職洞空の再建す」と記されている。ところが次第に廃頽し、無住のため明治六年、廃寺となった。神仏分離の際、八幡宮(応神天皇・髪長媛)を天神社境内に遷し末社となる。

 尚、当社は明治五年、村社に列し、同四十一年三月二十五日、生野村大字林寺新家の村社、林神社(須佐之男命・奇稲田比売命・野見宿禰)を合祀し、同四十二年六月、神饌幣帛料供進社に指定される。

    以上


『大阪東の天神三社』 by 足代健二郎氏

 四 桑津天神社

 少彦名命を主神とし、相殿に菅神ほか数神を祀る。
 社宝に江戸期の木彫天神像二体があり、境内のくす・もち・むくの三本は市の保存樹林 に指定されている。
 当社は応神天皇の御代、髪長媛を日向より召され、住まわしめられた所である。若き皇子おおさざきの命(仁徳天皇)が媛を見初め父応神帝はそれを察して媛を皇子に賜わったと記・紀にしるされている。
 口碑によれば、媛はこの地に機織を奨励し、蚕を養うため桑を植えられたので、桑津の地名が起ったと言う。媛があるとき病に罷り、土地の人々がこの森に少彦名命を祀って病気平癒を祈願したため全快されたとの故事によつて、後世、この神を勧請して桑津村の氏神としたのが当社の起りとされる。
 なおまた古来毎年九月二日に新米を以て「しんこ」を製して神前に供えるのは、当時、媛の本復祝として献供せられた遺習であって、本地の名物「桑津しんこ」もこれより起つたと伝えられている(『大阪府全志』)。
 もっともこの桑津新餻(しんこ)の由来については、『東成郡誌』に「今より凡八百年前、桑津の里に一老媼あり、この老媼天王寺五重塔の階投に因みて −一説に五重塔再建の際の足場をかたどりて捻じたるなりともいうー粳餅(うるちもち)を作り出したるものが何時かは名物となる」とあり、勿論この方がまだしも真実に近いであろうが、伝説として全志の話もおもしろい。
 当社の境内に八幡宮の小祠があり、応神天皇並びに髪長媛を祀っている。この八幡宮はもとは当社の東南二町、金蓮寺という寺の境内にあり(寺は八幡宮の本地堂と称す)、「髪長媛の旧址」といわれていた。『摂津志』をはじめ『摂津名所図会』『同大成』等の諸書に、
   八幡宮
 桑津村にあり土人云ふ、応神帝十三年、髪長媛をしてここに居らしむ、後人祠を建てて八幡宮と崇む。
などと載せられている。明治維新の神仏分離の際に寺は廃絶し、祠は天神社境内に移されたので、その跡地は公民館となり、現在、桑津郷土史研究会の手で立派な記念碑が建てられている。
 桑津天神社の神紋は「鳳凰」であるが、神社では由来不明といっている。試みに言うなら、天神社ということから天満宮との混同が起り、天神さんは鶏がお嫌いとの伝承から十二支の酉の代りの鳳凰(大阪天満宮表門の天井の十二支磁針盤に見ゆ)が神紋になったという案はどうだろうか。無論自信はない。ただ、道明寺に通じる奈良街道(平野街道)沿いの桑津一丁目(旧・桑津新家)にて道明寺天満宮常灯明という石柱を見たことからの思い付きである。すぐ近くの平野郷には一夜ノ天神という社があつて、菅公左遷の途次、道明寺に立寄り、その節此の地に一夜泊ったので一夜ノ天神と云うとあり(森幸安)、参考までに付記しておく。
 最後に、当社には「謝雨恩氏子中」と刻した石灯篭二対(宝暦十二年(1762)・文久四年(1864)の各一対)があり、当天神社への厚い信仰が偲ばれる。

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