弓弦羽神社
神戸市東灘区御影町御影字弓弦羽ノ森  its-mo

鳥居

交通

阪急神戸線御影駅 南東300m



祭神

伊邪奈美尊(那智)、速玉男命(速玉)、事解男命(本宮) 根本熊野三所権現
 配祀 天照皇大御神、素佐男尊

由緒
   往古、神功皇后が三韓より帰還時、長門国豊浦より摂津国難波浦に向かう途中、忍熊王が兵を挙げたことを知り、皇后の弓矢・甲冑を納めて熊野大神を斎奉し、不断に祈念された。 戦いに完勝、御子皇子は後に応神天皇となった。この故事により、神社背後の秀麗な峰を弓弦羽嶽と呼び、また六甲山とも云う。武庫の地名、またロッコウの地名が残る。
 神功皇后がこの里の泉に御姿を写されたことで、当地を御影と云うようになった。

 桓武天皇の時代、この弓弦羽の森を神領域とし、嘉祥二年(849)神祠を造営し遷座した。

 『古事記』
 建振熊命が忍熊王に対して「息長帯日売命は既に崩りましぬ。かれ、更に戦ふべきことなし」と云はしめて、即ち弓絃を絶ちて、偽って帰服。ここにその将軍既に詐を信けて、弓を弭し、兵を蔵めき。ここに頂髪 の中より設弦を採り出して、更に張りて追ひ撃ちき。
 ここに弓絃が出てくる。



本殿 流造

お姿

 阪急の北側は高級住宅地、南側も緑豊かな住宅地。 一際こんもりとした緑の弓弦羽の森に行き着く。震災で上部が破壊され、修復されている石造りの鳥居、真っ直ぐにのびた石畳の参道の両側に、市民の森の緑が覆いかぶさる。ムクノキ・クスノキ・アラカシ。拝殿の緑青色の銅板葺の屋根が見える。拝殿に連なる流造り銅板葺の本殿は見事で、重厚なたたずまいである。本殿の真裏に、周りをへいげいするかのような一本の巨木。樹齢三百年という大楠である。


お祭り
10月15日 例祭
 

参考 『平成祭礼CD』 『参拝の栞』

『平成祭礼データ』から

 弓弦羽神社

 往古、神功皇后三韓より御凱陣され長門國豊浦より摂津國難波浦に向われる途中、これに頒し忍熊王が兵をあげ給うを知り皇后自ら弓矢甲冑を神社背後の峯に納め給うにより此峯を弓弦羽ケ嶽と名付地主熊野大神を斎奉され戦勝並びに皇子の成長を祈念されたところ戦は大勝し皇子も第十五代応神天皇として無事ご即位されました。この故事により、桓武帝の御宇、延暦年間(八世紀末)現在の社地弓弦羽ノ森を神領地と定め、嘉祥二年(八四九年)正月十四日神祠を造営して遷座なされました。この時、熊野別当慶覚が「摂津國灘浦遊鶴羽ノ峯権現の古事當宮文庫に記録あり伝々・・・」と祝文を贈ったと伝えられております。
 当社の御祭神は、伊弉册尊(那智大社)速玉之男命(速玉大社)事解之男命(熊野本宮)の三柱で、合わせて根本熊野三所権現とも申し上げます。熊野大神は、後白河上皇の三十四度にも及ぶ御幸を始め古くより朝廷・民衆を問わず数多くの人々に崇敬され熊野参拝の列が絶えぬ様を指して「蟻の熊野詣で」と云われました。 当社も、古くから権現宮と親しまれ、又、その創立の故事により「厄除開運・諸願成就・子供育成守護の神」としての崇敬も篤く、文化九年(一八一二年)には知恩院宮より「御撫物」を賜り御安全御長久の御祈願所となりました。
 社殿は、文禄・明治・大正と再三の火災にあいましたが、其度に氏子・崇敬者の篤志により造営がなされ、現在の本殿は明治三年に造営されたものです。
 以上

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