水無瀬神宮
大阪府三島郡島本町広瀬3 mapfan

鳥居

交通

阪急水無瀬駅 北東1km



祭神


後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇
摂社 柿本神社「柿ノ本人麻呂」ほか



柿本神社


由緒

 大阪府下唯一の「神宮」。

 御祭神は第八十二代、三代、四代の天皇であり、承久の変に敗れて、隠岐、佐渡、土佐に流されてその地で崩御した天皇である。
 惟喬親王の離宮舊跡、ここから交野、渚院に遊んだと云う。後に後鳥羽上皇の離宮の地で、崩御後にこの地に御堂を建てて菩提を弔ってきた。明治六年に神社となり、水無瀬宮と称し、同時に土御門、順徳両天皇の御霊を共に祀ることになった。

 後鳥羽上皇は多芸多能・文武両道に優れた才能を発揮、新古今集時代の中心であった。ために、文学、学問、スポーツの神として崇められてきた。

 また菊花を好み御霊に捧げられた供花の流れから華道洗心流が興された。

 近くには淀川の船着き場もあったようで、また水無瀬川と上流には水無瀬の滝などもあり、離宮の水は名水百選に入っている。

 名所であり多くの歌が詠まれた。また伊勢物語、増鏡、中務内侍日記などなどな多くの物語に語られている。
 ふる郷の おどろがもとを 踏み分けて 道ある世ぞと 人に知らせん
 人を惜し 人もうらめし あぢき無く 世を思ふゆゑに 物おもふ身は



拝殿(西向き)台桧造土間式

お姿

 山崎の天王山の近くで交通の要所。現在も新幹線、JR、阪急、名神、171号などが賑やか。 昔は西国街道がメインであり、現在も歩きよい街道である。

 往古の水無瀬付近の風景は百人一首を並べ替えると顕れるそうだ。 このHP参照



本殿


お祭り

  12月 7日  例祭


『平成祭礼データ』水無瀬神宮略記


ここはもと後鳥羽上皇御造営の水無瀬離宮のあった所で、淀川の右岸にあり、上皇は京の都から船で下られ、たびたびお越しになったことは「増鏡」などの書物にくわしく記されています。この離宮では管絃の催し、歌の会、狩りや刀剣の鍛作なども行われ、
「奥山のおどろが下もふみわけて道のある世ぞと人に知らせむ」 との御歌にみられるように、早くから上皇は鎌倉幕府執権北条氏の専横を憤り、遂に承久三年(一二二一)五月、討幕の兵を挙げられましたが、関東の大軍に敗れ、その結果、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遷御になり、遂に都に御帰遷ならず、いづれも遠隔の地で崩御になりました。後鳥羽上皇は崩御の十四日前に御手掌を押した御置文を、水無瀬離宮を管していた水無瀬信成、親成父子に下し賜い、後生を弔うよう仰せ下されましたので、上皇崩御の後、隠岐へ御出発直前に藤原信実を召して描かしめられた上皇の御影を拝領して、離宮の地に御堂を建ててその御菩提を弔ったのが水無瀬御影堂であり、その後六百年、朝廷や武将の尊崇を受けつつ御慰霊の行事が続けられて来ましたが、明治六年、神社に御制定、官幣中社に列せられ水無瀬宮と称し、同時に土御門、順徳両天皇の御霊も共に祀られることになりました。昭和十四年、後鳥羽天皇七百年式年に当たり官幣大社に昇格、神宮号を賜りました。戦後は社格が廃されましたが、大阪府においては唯一の神宮であります。
後鳥羽上皇は御生前、多芸多能であらせられ、文武両道にすぐれた御才能を発揮されましたが、特に和歌では歌聖と仰がれ、新古今集時代の中心であられました。ために、文学、学問、スポーツの神として、また後世御神威によって安産、盗難除の神として崇められています。
また、菊花を好まれ、御調度品のほか刀剣にも菊花を刻まれたほどで、その御霊に捧げられた供花の流れを汲んで、華道洗心流が興され、現在、神宮はその華元として各地に社中があり、毎年献花展が催されます。
近くに水無瀬川、水無瀬の滝などがあり、地下水に恵まれ、境内の「離宮の水」は名水百選の一つに指定されています。
以上

参考 『平成祭礼データ』

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