澪標住吉神社
大阪市此花区伝法3-1-6

鳥居

交通

阪神本線伝法駅 東400m mapfan



祭神
住吉大神 配祀 天照大神、八幡大神、神日本磐余彦命
摂社
事平神社「事平大神」
榎稲荷神社「榎大神、稻荷大神」
十三社「大國神、大直日神、宇賀御魂、菅原道眞、長濱大明神、大守大神、春日大神、大海神、蛭子神、大御盾命、少彦名大神、船玉神、猿田彦神」

十三社の額

釼大連守屋とは物部守屋のことと思われる。

由緒
 詳ならず。
 澪標は澪の串のいう意味で、航行しうる船に、通りやすい深い水脈を知らせるため、千年以上の昔に初めて難波に建てられました。
 明治二十七年大坂市議会では、商業都市」の根本は港で、船に基づくとの理由から、市章を澪標と決定いたしました。
 伝法は、江戸時代、樽回船の起こった土地で、古くから水上交通が盛んでした。当神社の南の浜辺にも、大きい澪標が立っていました。
 澪標住吉神社という社名は、人生という航路で心のよりどころにする神社、との思いを込めて名付けられたのでしょう。
 古歌で、「身を尽くし」にかけて歌われて来ました。
 難波がた 何にもあらず 身をつくし 深きこころの しるしばかりぞ
    『後撰集』 950年頃

お姿
 港町から集合住宅の町へ変貌してしまっている。 旧の町の中に鎮座、神域だけに緑が豊富でほっとする。

本殿


お祭り
 
 11月 3日 例祭

由緒 平成祭礼データから

澪標住吉神社略記

 上古、当地は浪華八十嶋(なにわやそしま)の一つの美しい島で、少数の住民が集落をつくっていました。
 たまたま、延暦二十三年(八〇四年)、遣唐使の一行が、この島の美しい景勝に感じて一泊しました。その際、明日からの長い航海を前にして、前途の安泰を祈るため、住民の合力によって島の一角に祭壇を設け、住吉大神をおまつりしました。
 これが機縁となって、島民が相談をして祭壇跡にほこらを建てました。それとともに、出発の際の約束によって、一行の帰路を迎えるのに便利なように「みおつくし」を建てました。これが社名の由来です。 その後、諸国を廻る船や防人(さきもり)の用船が寄泊することもあり住民も次第に増加し、氏神(産土神)として神社の形を整えてきました。
 豊臣秀吉が大阪城を築いてから、当地は「伝法口」として賑わい、また良質の水に恵まれていたために各種酒造の本場となり、江戸時代には樽廻船が遠く江戸・東北・北海道にまで販路を伸ばすようになりました。
 それと共に当神社は、土地の守護神として、また航海、交通の神として崇敬され奉幣あいつぎ社殿・境内も大いに改まりました。このことは現存する社殿・石燈籠・こま犬等によってもうかがいしれます。 明治の中頃まで、当社の南にあった浜辺に、大きい「澪標」があり、二基の燈籠が水面に映え、樹木を背景にに朱塗りの大鳥居が建ち、誠に厳かだったといいます。航海から帰った人々は、無事帰還した喜びを噛みしめたことでしょう。この大鳥居は、航海を終えた船主が奉謝のため献納した帆柱を材料として、次々と建立したものです。後、昭和九年の室戸台風によって倒れ、現在はコンクリートの大鳥居に改まりました。
 明治四十二年十二月、旧伝法五丁目の住吉神社が合祀され、境内も益々整備されました。
 昭和になって、度々の風水害によって樹木の殆どがなくなりましたが、戦後氏子各位の協力により、社殿の大修理と共に植樹も行われ、現在では立派な鎮守の森になっています。特に春の桜は、多くの人に安らぎをもたらしています。
 以上

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