素盞烏尊神社(浦江八坂神社)
大阪市北区大淀南3-3-25 mapfan


鳥居

交通

JR環状線福島駅 北西500m



祭神


素盞烏尊

摂社
 和迩神社「王仁臣」
 八幡社「應神天皇」
 斎宮社「飯豐受姫神」
 野々宮社「飯豐受皇大神」
 祖霊社  



拝殿

由緒

 創建の年月は不明であるが、足利時代には既に鎮座していた。
 素盞烏尊は当社の場合には賽の神として、疫病退散、旅路の安全、男女の縁を結び、子安神としての信仰として祭られた。平安時代の古地図に田蓑島の中にと浦江村が記載されており、八十島祭りの行われた島であったようだ。淀川の川尻で淡水海水が混ざり合い、禊斎修祓に相応しい地で、「源氏物語」にも「たみのの志まにみそきつかうまつる」と述べられている。又、史書に、伊勢斎宮女御の御禊の地で野宮、斎殿を設置し給うた処としている。
 『摂津志』には、野宮神殿として、「古昔斎宮祓除之地」としている。

 境内に王仁神社が鎮座、この神社の旧地は大仁字東神殿(北区大淀中)で、王仁の墓ではとされていた石棺や一本松稲荷大明神とも、王仁大明神とも云われでいたのを昭和四十五年に合祀した。石棺についてはどうなったのか不明だが、王仁神社の御霊代になっているのではとの見方もある。
 なお、王仁墓は枚方市藤坂にあるのが本当だとされている。また、東高津宮の摂社の王仁神社がにも王仁博士が祭られている。



本殿

お姿

 浦江公園の中に鎮座、今や公園を通り抜けないと参詣できない。西向きに鎮座。木々にも恵まれており、不思議な巨石が置かれていたりするが、如何せん周辺の都市化が進み、神社より高いビルが神社を取り囲んでいるようになっている。
 斎宮社は当社に隣接していたと云う。野々宮社は当社の西にあったようだ。



王仁神社と巨石
 



斎宮社と野々宮社
 


お祭り

 10月 17〜18日  例祭   

『平成祭礼データ』から



 略誌 沿革
 この辺は、太古より形成された難波江の多くの島々の中の一つである田衰島であったろうと考証されています。 鎌倉時代の末まで行われていた八十島祭りはこの島でも行われました。
 新後撰和歌集に津守経國が、後鳥羽院の八十島祭りにはべりけると詞がきして、 
 「あめの下 のとけかるへし難波潟 たみのヽ島に御祓しつれば」
と歌っています。

 淀川の河尻で、塩淡の水が合し、潔斎修祓の儀に応しく源氏物語の澪標の巻にも、
「たみのヽ志まにみそきつかうまつる、日くれがたになりゆく、夕汐みちきて入江の田鶴も声を惜まぬほど蓑なるをりからなればにや人目もつヽまず相みまほしくさへおほさる。つゆけさのむかしに似たる旅衣 田衰の島の名にはかくれず」
と述べられています。
 又何れの時代の御杖代であられたかたは不明ですが、伊勢の斉宮女御の御祓の地でありました。
 内親王が、以豆岐乃美夜(いつきのみや)と定まりましたら「宮城の外、便宜の所を斉院に結構し御祓ありて其の斉院に入らせ給ひ、翌年七月迄御座ありて清浄の他に野宮を定め、河原の御祓ありて伊勢に移り斉宮と称し奉る」という事であり古書に「石造の宮の屋根なるもの見ゆ、これ祓所の地の古蹟なるか」と記されてますし、古地図に示された野宮の位置と、野々宮社の旧地が概ね一致し、摂津誌や大日本史に御祓の地と断定しています。
 中世に於きましては陸上の交通の要地であり、楠正行の軍勢の通過した記録があります。
 近世になり、字西里中小字城の内に三好長慶の城と伝えられる城があり、亨禄四年に細川常植が浦江城に陣して細川晴元と戦い、又元亀元年に織田信長の石山本願寺攻めの際、先陣は海老江堤に陣をしき、将軍足利義昭が浦江城に入城して、野田・福島の城にこもった三好方と戦ったことが記録されています。
 近代になりましては、なにわの街の近郊の農村であり村人達だけでなく、町の商家の人達が、月詣でや寒行に、又花の季節にと折りにふれて参拝されました。
 少女子がすその浦江のかきつばた いろのふかくも見えにけるかな  好述
 燕子花(かきつばた)語るも旅のひとつ哉 芭蕉
 又、阪神電車が始めて開通した時に沿線の名所として「浦江のなたね野田の藤新淀川の秋の月」と歌われましたように、菜の花の名所でもありました。
 菜の花の中へきこへむゆききかな 梅居
 以上

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