大織冠神社
大阪府茨木市東福井2丁目

交通

茨木から阪急バス余野・上福井行き 福井下車東北へ10分  mapfan

鳥居と石段



祭神
藤原鎌足、淡海、不比等

由緒
 将軍塚と呼ばれている古墳の移築した所である。 平安中期の頃は藤原鎌足公の墓処は摂津の阿威にあったが、後に大和多武峯に改葬されたとの説があり、江戸時代になってこの塚を当てるようになった。その為に鳥居を建て石段を造り、石室内に祠をつくって崇拝し、毎年京都の九条家から使者が来て、反物二千匹を持参し、お祭りをされていた。
 『摂津名所図絵』によると、孝徳帝の妃あり。妊身して六月、鎌足に妃を賜ふ。男子なら臣の子、女子なら帝の子とする約束。 男子だったので鎌足は長男を出家させたと云う。男子が不比等である。

 茨木市に下記のような民話が残っている。
 鎌足は阿為の西北の丘に葬られた。唐に留学していた長子定慧が帰朝、父・鎌足の阿為に葬られているのを大和の多武峰に移すべく阿為に使者を遣わした。使者は阿為の代表と会い遺骸を渡すように要請したが、阿為の村人は、縁の深い鎌足の遺骸を渡すのを断った。遣いは大和に帰れないので、その後も村に滞留し、幾度も交渉を行った、なかなか阿為の人々は承諾しなかった。やもうえず遣いは遺骸の引取りを諦め、せめて遺骸の頭の部分だけを渡してほしいと要請した。阿為の人々も遣いの熱心な要請にいささかうんざりしていたこともあり、しぶしぶ承諾することにした。 これ以来、鎌足古廟と呼ばれるようになった。

 

古墳


お姿
 考古学上は、山頂を利用して造った円墳で、南向きの横穴式石室を有するものである。石室は、羨道が玄室の片方によったいわゆる片袖式のもので、丸みのある花崗岩を積み上げている。玄室の長さは四.五メートル、幅一.七一メートル、高さ二.四メートルで、五枚の天井石(てんじょういし)がのせられている。
 時代は、古墳時代後期(六世紀)のものであるが、早く開口されたので、副葬品については何もわかっていない。

 元々前方後円墳であったが、宅地開発で姿を消し、後円部の石室を移築したものである。


古墳



大織冠の発見
茨木市安威から高槻市奈佐原に阿武山古墳がある。昭和九年、京都帝国大学阿武山地震観測所の施設拡張工事によって発見 、同大学の梅原末治氏らによって発掘調査が行われた。古墳時代終末期の古墳で棺内には60歳前後の男性人骨が横たわり、頭部には、ガラス玉を銀線で連ねて錦で包んだ玉枕が置かれていた。 しかし調査はいきなり中断。皇族の可能性もあるため、科学的調査は非礼にあたるとの内務省の見解で、4ヶ月後には棺と遣体は元通りに埋めもどされてしまったのである。 しかし、その時にチャッカリと被葬者のレントン写真をとっていたのでる。 これが昭和五十七年に見つかった。埋葬者は背骨と肋骨の骨折が原因で死亡しており、金糸は冠帽の刺繍に用いたとも推定されるという報道がなされた。 大織冠であり、鎌足公の墓との見方が強くなった。 それでは、鎌足古廟はどうなったかと云うと、今でも鎌足さんとして崇められているのである。 それでいいのだ。


お祭り

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