平成祭礼データから
社傳で云う抑々当神社御鎮座は天平年間(約千二百年前)聖武天皇勅願により僧行基猪名野笹原を開耕し北は鴻池五通の辻、東は伊丹坂、西は武庫川、南は富松笠の池に至る拡大な地域を開き七堂伽藍二十三ケ坊の堂塔を造営し各所に集落を作り庶民の福祉に意をつくし農耕を指導し民生安定につくされた。当神社の聖地も当時二十三坊の一つにして祓所として、素盞嗚尊、薬師仏を祀り(本地垂迹説)厄災除祈願所として、亦御願成就、祈祷祭祀の中心地として重きをなして居ったのであります。
平安期に荘園制度が確立してより集落は藤原摂関家荘園富松庄として春日皇大神を祀りその鎮守でありました。その後戦国の乱等数度の兵火に罹り社殿、堂塔等悉く烏有に帰し往昔の面影は止めませんが聖地の現況と樹木等により昔時が偲ばれます。先年境内整備の際、堂塔基壇石、中国渡来の宗戔等が発掘せられましたが、それ等より考察しますと概ね確実の様に思われます。
下って徳川時代に至り尼崎藩主松平遠江守御大守公厄災除祈願所として殺生禁断の地で特別の庇護を受け盛況を誇ったのであります。明治の廃藩により、当神社並に境域は内務省主管地として国に移管せられ立花村、川辺郡、兵庫県より年々祭祀料の奉幣があり当地東富松区に於ては氏神社として年々維持経費の奉幣があり亦社有田地もあって神社の基礎は確立して居ったのでありますが戦後世情の変化により神社の基盤はこわれましたが昭和四十一年境内整備と社殿造営の第一期工事を完了し目下第二期工事を目論見中であります。現在伊勢神宮を本宗とする神社本庁に所属、宗教法人富松神社として現在に至って居ります。
以上 |