田村神社
香川県高松市一宮町286 ゼンリン

琴電線路際のおたび所から見た参道




交通案内
琴電一宮東300mから北へ参道500m


祭神
倭迹迹日百襲姫命 五十狹芹彦命 (配祀)猿田彦大神 天隱山命 天五田根命
注 天隱山命(あめのかぐやま) 天五田根命(あめのいたね)

鳥居


由緒
 『延喜式』では、讃岐国唯一の官社。名神大社。
 倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼にも比定される古代の巫女王。讃岐では、大川郡の水主神社、仏生山町の船山神社の祭神として名が見える。当社は水神を祭るとされる。百襲姫は水銀産地の預言を行った巫女王であったので、丹生津姫と同様に水神と見なされたのかも知れない。

 当社を定水大明神と呼ぶのは、この地域は湧き水が多いのが由来。
 讃岐と言えば溜池であるが、平安時代以後、殆どは江戸時代のもので、その昔は堰や湧き水に頼っていたとされる。これは当社や二宮の大水上神社、水主神社などの古社は川沿いに鎮座していることからの推測。『日本の神々2』(津森明氏)。

社殿


かろうじて屋根だけ見える本殿 姫宮前から



お姿
 参道は長く500m程度と思われる。石燈籠の新しいものを設置していた。境内は雑然としているように思える。至る所に石像などが置かれている。
 楠などは多いようだ。桜が満開であった。

宇都伎社「大地主神 倉稻魂神」

宇都伎社の前の龍



素婆倶羅社「少名毘古那神 (配祀)大年神 塞神 大水上神 菅原神」




お祭り
祭日 10月 8日 例大祭 など


平成祭CD

田村神社略記

祭神 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと),猿田彦大神(さるたひこの おほかみ),天隠山命(あめのかぐやまのみこと)五十狭芹彦命(いさせりひこの みこと)(吉備津彦命(きびつひこのみこと)),天五田根命(あめのいたねのみこ と)
以上五柱の神を田村大神と申す


倭迹迹日百襲姫命は人皇第七代孝靈天皇の御皇女にましまし祟神天皇の御代国内疫病 に苦しめるを救治し給ひ又武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を予知して建言し給 ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功あり仍て百襲(襲は勲功の約)の名を負ひ給ふ 後 吉備津彦命(きびつひこのみこと)と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫 の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた 御陵(はか)は大和国城上郡大市村 にありこの御陵を作るのに昼は人が作り夜は神が是を作られたと云はれ広大な御陵で 箸(はし)の陵(みささぎ)と言はれてゐる
五十狭芹彦命は姫命の御弟に当らせられ又の名を吉備津彦命とも申す 四道将軍の御 一方にして西海を鎮定し給ひ吉備国の祖神となられた
猿田彦大神は皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)御降臨の時天(あめ)の八衢(やちま た)に出迎へて御嚮導をなし道途の安全を守護し給ひし神にして此の神の向ふ所は如 何なる禍神も恐れて避け奉ったと云はれ方除の神として神威まことに偉大である
天隠山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉っ て偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命(あめのむらくものみこと) )と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基 を定められた
皇室武門武将の崇敬
当神社の起源は極めて古く社記によれば元明天皇の和銅二年社殿を創建すとあり往古 より田村大社定水(さだみづ)大明神又は一宮大明神とも称し夙に朝野の崇敬浅から ず 仁明天皇の嘉祥二年二月従五位下に叙せられ清和天皇の貞観三年二月官社に預り 延喜の制名神大社に列し讃岐国の一宮たり以後屡々神階を授けられ建仁元年二月正一 位の極位に敍せらる降って明治四年五月十四日に国幣中社に列せられたり 爾来皇室 国家事ある毎に勅使を御差遣あらせらる 古くは弘安七年七月後宇多天皇弘安の役の 奉賽として「正一位田村大明神」の勅額を寄せられ明治四年十一月、大正四年十一月 、昭和三年十一月の大嘗祭には何れも勅使御差遣あり大正十一年十一月摂政宮殿下大 演習御統監の為行啓には亀井侍従を御使として御差遣あり大正十四年十二月十日には 北白河宮大妃殿下御参拝昭和九年四月五日閑院宮戴仁親王殿下御参拝同年五月二十二 日梨本宮守正王殿下御参拝昭和二十五年三月四国行幸、同二十八年十月第八回国民体 育大会行幸には夫々幣帛料御下賜等皇室の御崇敬洵に厚い 武門の尊崇も亦厚く貞和 二年三月管領細川頼之領主たりし時には社域を拡築して一切経を奉納し長禄四年十二 月細川勝元社頭に壁書を掲げしめて神事を厳重に掟てなし降って天正年間仙石生駒二 氏相次いで此の地を領するに及び夫々社領を寄進したりついで明暦元年三月松平頼重 公国守に任ぜらるゝや社殿を修造して更に社領を寄進なし延宝七年に両部習合を廃し 五十石の社領中五石五斗を割いて社僧大宝院に寄せ神仏を分離し江戸時代の初期に於 て早くも唯一神道の道を開かれた爾来松平家の祈願所として累代社領を寄進し或は家 宝を献ずる等その尊崇明治維新に至るまで変ることなかりき
当神社奥殿の床下に深淵あり厚板を以て之を蔽ひ此の殿内には盛夏といへども凄冷の 気が満ちてゐて古くより神秘を伝へ今に窺ひ見る者なしこれ定水大明神の称ある所以 にして領内に水旱あれは領主奉行は必ず先ず以て当社に祈願したりと云う
  

神奈備にようこそ
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