習焼神社
諏訪市大字湖南字野明沢4493  map

鳥居

交通

バス 真志野



祭神

洲羽若彦命 配祀 素戔嗚尊、草薙劔


由緒
 祭神の洲羽若彦命は諏訪大神の御子神の一。この地での御子神とは征服された神々のように見える。地主神とされる御社宮司神社の祭神に御子神が多いのがこれを物語っている。
 当社は野明明神、野炎明神とも云う。『諏訪大明神神画詞』によれば、「大宮の前をへて北の鳥居の外、妙山の前の鼻より野火を放て野焼の社に至る。御子村小笠縣あり 行謄(むかはき)の上に征矢を付、射礼畢りて馬上にして酒盃を右に取って左に落とす。鹿の折骨もて肴とす」とある。
 社前の前の野原は諏訪湖の湖床であったので、葦などが生えたりした湿地であり、年に一回の野焼きが行われたのであろう。その方が葦にもいいようだ。

 社前の説明板には、「祭神の洲羽若彦命は真志野の妃神のもとに来られた。後に一門一族を引き連れて遠州地方へ鬼退治(開拓)に出かけられた。磐田市見付の淡海國玉神社に合祀されている須波若神が夫神。妃神は祭政の中心であったので同行できず、遠地に赴かれた夫神を恋う日々であった。笹原御社宮司社(城山の山脚)にあった親神に祭政の援助を受けながら、夫神の武運隆盛を祈り、真志野之郷の繁栄隆盛の伸長に努められた。
 武田信玄による永禄八年(1565)の神事再興のころ、真志野之郷の氏子の総意で中国の伝説で月の中で結ばれるといわれるカツラ(桂)の雄木雌木を植え夫婦愛の象徴とした。」以下略とあった。


幣拝殿
唐破風造り幣殿


本殿
宝暦四年(1754)流れ造り

 

お姿 

 諏訪大社上社の中十三所の第五番に列する。 それぞれの建物は歴史があるようで、風格がにじみ出ている。社前には舞殿もあり、庭ではゲートボールを楽しむ老人達。


舞屋
着工は天保六年(1835)社殿に対面して
建ち、床の高さ三尺化粧横木の框(かまち)は欅を用
いている。諏訪地方の神社の舞屋は老朽により姿を消
す傾向にあり、周り舞台構造の数少ない存在である。


お祭り

  4月 22日 例祭  大社御頭祭の七日下がりの日


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