諏訪大社下社秋宮
長野県諏訪郡下諏訪町5828 mapfan

鳥居

交通

JR下諏訪駅 東1km



祭神

八坂刀賣神、建御名方神

『平成祭礼データ』摂社
若宮社「建御名方彦神別命、伊豆早雄命、妻科比賣命、池生神、須波若彦神、片倉邊命、蓼科神、八杵命、内縣神、外縣神、大縣神、意岐萩命、妻岐萩命」
皇大神宮「天照大神」
稲荷社「倉稻魂神、大宮賣命、佐田彦命」
八坂社「素盞嗚尊、奇稻田姫命、八柱御子神」
賀茂上下社「別雷神、賀茂建角見命、玉依姫命」
子安社「高志沼河姫命」
鹿島社「武甕槌神」
青塚社「祭神不詳」
御射山社「建御名方神」
内御玉戸社「諏訪大神幸御魂神、國常立尊」
外御玉戸社「諏訪大神奇御魂神」
御作田社「穗見大神」
千尋社「祭神不詳」
八幡社「譽田別尊、息長足姫命、玉依姫命、菅原道眞、高オカ神、祭神不詳」
専女社「豐受大神」
浮島社「祓戸大神」
木落社「大山祇神」
斧立社「屋船久久能知神」
大元尊社
八千矛社「八千矛神」
児宮社「少彦名神」
旧御射山社「建御名方神」
恵比寿社「事代主神」
銭神社「祭神不詳」

根入りの杉
この杉の木は樹齢凡六〜七百年、丑三つ時になると枝先
を下げて寝入り、いびきが聞こえ、子供に木の小枝を煎
じて飲ませると夜泣きが止まるといわれております。

由緒

  諏訪神社には上社と下社とがある。下社は諏訪湖の北、下諏訪の町外れにある。両社はさらに二宮に分れ、下社は春秋の二宮で、春宮は町の北、秋宮は町の東にあり、両宮は約一kmを隔てている。
 上社の祭神は建御名方富命、この神は大国主神の子で一般に建御名方神(命)といい、出雲の国譲り神話に高天原からの使者建御雷之男神にに抵抗し、敗れて料野国の洲羽海まで逃げ、ついに降伏したと伝える(古事記)。
 下社は妃神の八坂刀売命を祭る。建御名方は武水潟で諏訪湖畔の水の神、八坂刀売は下社背後の和田峠守護の神と考えられる。
 上下の両社には神職の上長者としてともに大祝があった。上社の大祝は建御名方神の神裔と称する神家(のちに諏訪氏を名乗る)、下社の大祝は信濃国造の一族である金刺氏(金利舎人)であった。

左上 三之御柱 左下 二之御柱 拝 殿  右上 四之御柱 右下 一之御柱

 諏訪神社のことが文献に見える初めは『日本書紀』で、持続天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき、使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある。龍田は大和の龍田神社、須波は諏訪神社、水内は善光寺付近の水内神社のことである。これによれば須波神は風神としても信仰されていたとしてよい。 その後、大同元年(806)神封七戸が寄せられ、貞観七年(865)諏訪郡の水田三段が社田として寄せられた。延喜式の神名帳(927)には「信濃国諏方郡 南方刀実神社二座」とあって、ともに名神大社とさ れている。二座はいうまでもなく上下二社のことである。
 次に神階を見ると、承和九年(842)五月、南方刀美神に従五位下、同年十月、健御名万富命前八坂 刀売神に従五位下が授けられてより、以後次第に累進して、天慶三年(940)建御名万富命(南方刀美神)が、永保元年(1081)八坂刀売命が、ともに正一位に達した。また平安時代末以来諏訪神社は信濃国の一宮とされた。

幣拝殿(国重文)
この建物は安永六年(1777)に起工同十年に落成し
た。工匠は諏訪出身の初代立川和四郎富棟で、彼は当時
盛んになった立川流建築を学び、彫刻は中沢五兵衛につ
き、いくつかの名建築を残した。軒まわりその他に彫刻
が多く華麗なのは当時の流行であり、それがすべて素木
の生地を生かして清楚である。彫刻には独特のおおらか
さがあり拝殿内部の竹に鶴などは代表作である。

 前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝およぴ社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し、族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していた。頼朝のとき、上社大祝諏訪盛重、下社大祝金刺盛澄らが旗下に参じて御家人となって以来、鎌倉時代を通じてよく幕府に密着して社運の興隆が計られた。その著しい例が当社の卸射山神事である。これは上社が八が岳山麓の原山に、下社が霧が峰の八島に、広大な屋外円形桟敷(一種のコロセウム)を設けて武技を競った特殊な祭典であるが、幕府がその頭番役を信濃の御家人に課し、国衙がこれを管掌するという大がかりなものであった。近年下社の御射山遺跡が発掘され、改めて当時の盛大であった神事のありきまをしのばせている(金井典美『御射山』)。
 こうして諏訪神社は広く武士の尊崇を受け、やがて日本第一の軍神と仰がれるに至った。また武士社会の諏訪信仰は、ついで庶民の間にも弘まるに至ったのである。

 戦国時代に大祝金利氏が滅び、社殿も相次いで焼亡して、一時全く荒廃した。なお金刺氏のあとには同族の今井氏が入って武居祝と称することになり、下社に大祝は置かれなかったが、近せに入って武居祝の童男をもって大祝とするようになった。これは名目的なものにすぎず、上社が優位に立ったのである。

お姿

 当社は上下社四宮ともに一般神社のような本殿がなく、本殿に相当するものは秘所ときれ、御神体は宝殿に祭られる。これに対して下社の二宮はほぼ同じ様な社殿配置で、神楽殿の奥に拝殿、その奥に左右に並んで東宝殿・西宝殿があってともに三間社神明造、両宝殿の中央奥に秘所神体木がある。

宝 殿


お祭り

 
  8月 1日  例大祭
上下四宮の二つの宝殿は正殿・権殿で、七年目毎の寅年・申年にそのどちらかへ遷座され、併せて式年御柱大祭は、当年の五月寅・申の日に行われ、遷座に際して社殿の四方にある御柱が立て替えられる。これは神の依代とされ、上社は八が岳から、下社は霧が峰から、十六m余の樅の巨木を氏子が総力を上げて伐り出し運搬を する。なお宝殿は十三年目毎に交互造替される。

 下社の例祭は八月一日で御船祭ともいい、御霊代が春宮から秋宮へ遷座し、翌二月一日春宮へ遷座する。その他上下社共通して一月十五日の田遊神事、二月一八日の野出神事、八月二十六〜二十八日の御射山社祭などがある。神事ではないが、毎年厳冬、諏訪湖面の氷が伸縮によって長い氷の堤をつくる現象を生じ、これを御神渡りと称している。

由緒 平成祭礼データから

 諏訪大社由緒略誌

 御鎮座地

 当大社は諏訪湖の南北に二社ずつ、四ヵ所に鎮座する独特の形の神社で関係の摂末社は六十有余社を数え群内全域に分散しています。
 諏訪大社、上社、本宮、長野県諏訪市中洲宮山鎮座。前宮、長野県茅野市宮川鎮座。下社春宮、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。秋宮、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。

 御祭神
 建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)
 建御名方神は大国主神と高志沼河比売神の御子神で、八坂刀売神は妃神です。下社には御二柱に併せて御兄神八重事代主神を祀りますが、一般には古くから上社に男神、下社に女神の信仰が広く伝わっております。

 御鎮座、並、旧社格
 御鎮座の年代は千五六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つと数えられます。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃国一之宮として信仰されていたことがわかります。明治四年に国幣中社に列格、同二十九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社と改称致しました。

 諏訪信仰
 全国に分布する御分社は一万有余社を数えお諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬われつゝ巾広い信仰を有し、御神徳の数々、枚挙にいとまありませんが、古くからある信仰には雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。 神功皇后の三韓征伐や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。
 精進潔斎を形だけする者より、肉を食べても真心込めて祈る者を救おうという諏訪大明神御神託や、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四孝が世上に広まるにつれ、日本の屋根信州諏訪の地へとの参拝者も日と共に繁く、諏訪大明神の御神徳の厚きことが伺われます。

 下社春宮
 中央線下諏訪駅から北西へ1キロ、秋宮から西へ1キロの位置で旧中仙道添に鎮座します。上社へは諏訪湖を隔て約10キロです。
 社頭から真直ぐ八百米程伸びる道路はかっては春宮の専用道路で、下社の大祝金刺一族を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場でした。途中の御手洗川に懸かる下馬橋は室町時代の建立ですが、建築様式は鎌倉時代のもので1730年代の元文年間に修築されましたが、下社では最も古い建物で遷座祭の折りに神輿はこの橋を渡ります。
 入口の御影石の大鳥居は万治二年(1659)建立と推定され、境外にある万治の石仏と同じ作者と言われます。
 神楽殿と拝殿、左右片拝殿及び御宝殿と続く建物の配置は秋宮と同じです。神楽殿は修改築が幾度となくなされています。春宮と秋宮の社殿の建替が諏訪藩に依って計画された時に同じ絵図面が与えられたと見え、大きさこそ違いますがその構造は全く同じで、春秋両社の建築は彫刻において技が競われております。春宮の社殿は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、秋宮より後から着工して一年早く安永九年(1780)に竣工しました。
 御宝殿は上下社共に三間四方で、方三間の神明造りと言います。下社では寅年と申年の左右の御遷座祭の他に半年毎に春宮と秋宮の遷座祭が執行されます。御宝殿奥の御神木は杉の木で、秋宮は一位の木が祀られています。
 神楽殿の西の建物が筒粥殿、その西の清流は砥川です。川の中の島は浮き島と言い、どんな大水にも流されず下社七不思議の一つです。お社は浮き島社と言い、清め祓いの神を祀り六月三十日の大祓式、夏越しの祓いはこゝで行ないます。鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えられます。

 主要神事
 大社の恒例神事は例大祭を含む七回の大祭式に依る祭典以下関係する摂末社の神事迄年間二百余度の祭典が執行されております。              
御船祭 下社例大祭、八月一日、二月一日に春宮に御遷した御霊代(みたましろ)を神幸行列を以て再び秋宮へ御遷座する遷座祭に引続いて、下社例大祭は秋宮で執行されます。この遷座の行列に次いで青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が、当番地区(御頭郷)の氏子数百人に依って春宮から秋宮へ曳行されます。秋宮へ曳付けて神楽殿を三巡し、神事相撲三番が行なわれて式が終り、翁媼人形は焼却されます。明治初年迄は柴舟を裸の若者が舁いで練ったので裸祭りの名も伝わっております。尚遷座祭には当社独特の風習として楊柳(川柳)の幣が献じられます。

 筒粥神事
 下社、一月十五日、春宮で米と小豆と葦の筒を大釜に入れて一晩中粥を炊き、十五日未明に筒を割り中の粥の状態で豊凶を占います。現在は四十四本の筒で農作物四十三種と世の中全般を見ますが時代に依り本数は違います。占いの正確なこと神占正に誤りなしと七不思議の一つです。

御田植神事 下社、六月三十日、下社の末社御作田社の神前で雅楽を奏し、三坪程の神事田で田植えをします。一ヵ月後の八月一日には神前に供えることが出来たと言われ、御作田の早稲と言い七不思議の一つになっています。室町時代の記録では上社の藤島社でも同日田植神事が行なわれていますが現在の上社のそれは一般の田植と同じ頃行なわれます。御射山社祭、上社、下社、八月二十六、二十七、二十八日、上社の御射山社は八ケ岳の山麓にあり、下社は江戸時代初期に八島高原から秋宮東北5キロ程の山中に移されました。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参篭の上祭典を行なうので穂屋祭りの名称があります。鎌倉幕府は全国の武将をこの神事に参列せしめ、八島高原や霧ヶ峯一帯で武芸を競わせたりして祭事を賑わしめ、参加した武将は諏訪大神の御分霊を拝戴して任地に赴き御分社を奉齋しました。その為多くの御分社はその例祭日を秋の二十七日前後にしております。尚唯今では農作物の豊穣祈願と二才児の厄除健勝祈願が行なわれます。

 式年御造営御柱大祭
 寅申相当年、四月山出祭 五月里曳祭、下社遷座祭、六月上社遷座祭 諏訪大社の諸祭儀の中でも特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ大木を曳建てることに大別されます。起源は遠く古代に遡りますが、平安朝時代初期桓武天皇の御代からは信濃国の総力をあげて奉仕され費用の調達の為に元服の式や婚礼、家屋の新築や増改築が禁じられたこともあります。唯今では造営も一部の建物に留まり、奉仕も諏訪地方一円二十万氏子へと縮小され、老若男女の区別なく御奉仕頂いております。
 おんばしらの用材は樅の木が使われ、三年前から木の選定等準備が始まり、上社関係は約25キロ隔たる八ケ岳の中腹から、下社関係は八島高原の近くから約10キロの里程を曳き出します。大きな柱は周囲三米、長さ十六米余、重さ十二、三トンにも及び、独特の木遣り歌と共に二、三千人の人々に依って曳行されます。
 車もコロも使わず人の力だけで曳き摺る為に原始的ではありますが、急坂を曳き落としたり、川を引き渡したりして怪我人が出ない方が不思議と言われる程に荒く勇壮な行事として知られ、奇祭の一つに挙げられています。

 諏訪の七不思議 氷湖の神幸(おみわたり)、元朝の蛙狩、五穀の筒粥、高野の耳裂鹿、御作田の早稲、葛井の清池、宝殿の点滴

 御神紋 梶の葉、葉が三葉あるので三本梶とも言い、足の数四本が上社、五本が下社の社紋です。

 信濃国一之宮諏訪大社由緒略誌、その2
 御鎮座地
 お諏訪様、諏訪大明神と親しまれ、崇敬されている諏訪大社は、諏訪湖をはさんで南に上社、北に下社があり、更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれて鎮座しております。この四社を合わせて信濃国一之宮諏訪大社と称し、氏子区域は旧諏訪郡24ケ町村にわたっております。又、付属の摂社末社の数は郡内に六十余社をかぞえ、特殊な祭祀の形態と信仰とを今日に伝えております。

 上社、本宮(ほんみや)長野県諏訪市中洲。前宮(まえみや)長野県茅野市宮川。下社、春宮(はるみや)長野県諏訪郡下諏訪町。秋宮(あきみや)長野県諏訪郡下諏訪町。

 御祭神
 建御名方神(たけみなかたのかみ、男神)。八坂刀売神(やさかとめのかみ、妃神)。八重事代主神(やえことしろぬしのかみ、兄神)。建御名方神は神代の昔、父神大国主神、兄神八重事代主神を助けられて、国造りの大業を成しとげられ、その後、八坂刀売神並びにその御子神と共に、信濃国の開拓に御神意をそそがれ、やがて、この諏訪湖畔の聖地を永久の神居と定め、お鎮まりになられました。

 御神徳
 当大社は古来より朝廷の崇敬がきわめて厚く、持統天皇5年(691)には勅使を遣わされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願されたのをはじめ、歴代の朝廷が神位や神階を進められ、或は神田、幣帛、御宸筆等を御奉納なされ、又、皇族の方々が数多く御参拝なされております。又、諏訪大神は武勇の神、武門武将の守護神として仰がれ、古くは神功皇后の三韓出兵の折りに御神威を顕わされ、平安時代には関より東で、第一の軍さ神として広く世に知れ渡りました。鎌倉時代以降は源頼朝をはじめ北条氏一門、足利尊氏、武田信玄、徳川家康以下歴代の将軍、その他、高島藩主をはじめ諸国の大名たちがいづれも社領を寄進し、或は神宝を奉納して武運の長久と国家の安泰を祈願されております。人々は雨、風の守り神、水の守護神と仰いで五穀の豊穣を祈り、或は又、生命の根源、生活の源を司られる神として、家内安全、健康長寿、交通安全、商工業の繁栄、開運招福を祈るなど、諏訪大神の広大無辺なる御神徳は、広く深くゆきわたっております。

 社格
 延喜式神名帳に名神大社として信濃国の第一にあげられ、朝廷の奉幣をうけ、広く全国の崇敬を集めておりました。上社と下社は明治維新の際に一社となり、明治四年に国幣中社に列格、大正五年に官幣大社に昇格し、昭和二十三年に諏訪大社と改められました。全国の御分社との交流、諏訪大神の御神威が全国各地に広がるにつれ、御分霊を祀る神社が増し、北は北海道から南は九州鹿児島まで各地に祀られて、現在、御分社の数は一万有余社にのぼります。毎年秋にはこれらの御分社が集う、全国諏訪神社連合大会が本社において開催され、共々に諏訪大神の高く尊い御神威を仰ぎ、交際を深めております。

 御社殿
 上社本宮、幣殿、拝殿、左右片拝殿、脇片拝殿、以上天保九年(1838)、四脚門、慶長十三年(1608)。下社春宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永九年(1780)。下社秋宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永十年(1781)、神楽殿、天保六年(1835)。

 祭事の大要
 恒例の大祭/遷座祭下社二月一日、祈年祭上社三月十七日、同下社三月十八日、例祭並御頭祭(酉の祭)上社四月十五日、例祭並遷座祭下社八月一日、新嘗祭上社十一月二十三日、同下社十一月二十四日

 特殊神事
 薙鎌の奉斎/薙鎌は諏訪大神を象徴する神器で、例祭の神幸行列に奉じ、御分霊の勧請及び、御柱大祭の際に授与する。蛙狩神事と御頭御占の神事(元旦上社本宮)/本宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前において弓矢で射抜き、矢串のままお供えして五穀豊穣と国家の安泰を祈る、年頭第一の神事である。続いて宮司の神秘な占いにより、一年間、大社の重要な祭事に奉仕する地区、御頭郷を選定する御占神事が行なわれる。田遊の神事(一月十五日上社本宮)新年祈請祭(一月十五日上社、下社)/筒粥の神事(一月十五日下社春宮)/小正月の年占の行事で、春宮の筒粥殿において大釜に白米、小豆、葦の筒を入れて一晩中粥を炊き、十五日の早旦にとり出して筒を割り、中の粥の状態で四十三種の農作物と世の中の吉凶を占う。御頭祭(酉の祭)(四月十五日、上社前宮)/上社第一の祭儀で、古くは三月酉の日に行なわれたので、酉の祭とも呼ばれる。本宮での例大祭の後、御頭郷地区の氏子役員が供奉し、行列を整えて神輿を前宮十間廊に安置し、御杖柱の幣帛を献り鹿の頭、鳥獣魚類等の特殊な神饌をお供えして大祭が行われる。御田植祭(六月第一日曜日上社)御田植神事(六月三十日下社)/御舟祭(八月一日下社)/二月一日に春宮にお遷しした御霊代を、神幸行列を以て再び秋宮に御遷しする遷座祭に引続き、例大祭が行われる。この遷座の行列に次いで、青柴で造った大きな御舟に翁と媼の人形を乗せた柴舟を、御頭郷の氏子達が春宮から秋宮に曳き付ける。神楽殿を三周した後、神事相撲があり、翁媼の人形は焚き上げられる。明治初年迄は柴舟を裸姿の若者が担いだので、諏訪の裸祭とも言われた。遷座祭には楊柳(ようりゅう、川柳)の幣が献じられる。御射山祭(八月二十六日・二十七日・二十八日上社下社)/上社下社両社それぞれの御射山社で行なわれる。青萱の穂で葺いた仮屋(穂屋)に神職他が篭って祭を行なうので穂屋祭とも呼ばれている。鎌倉幕府は全国の武将を集めて祭に参加させ、武芸を競わせた。参加した武将は諏訪大神の御分霊をいただいて任地に赴き、御分社を奉斎した。全国各地の御分社で、この日を諏訪祭として例祭日にあてている御社が多い。現在では農作物の豊穣と二才児の厄除健康の祈願が行われる。式年造営御柱大祭(寅、申相当の年、四月山出祭、五月里曳祭、下社遷座祭、六月上社遷座祭)諏訪大社の特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ巨木を曳建てることに分けられる。起原は遠く古代に遡るが、平安時代、桓武天皇の御代からは、信濃国の総力をあげて奉仕され、費用や材料の調達のために元服や婚礼、家屋の新築が禁じられたこともある。現在では造営も一部の建物に留まり、諏訪郡内二十万人の氏子の奉仕によって盛大に行われる。上社は八ケ岳の御小屋岳の神林から、下社は霧ケ峰の中腹からそれぞれ直径一メートル余、重さ十二、三トンの樅の大木を各八本伐り出し、独特の木遣り歌にあわせ、一本二、三千人の人々によって曳行される。途中、急坂の木落としや宮川の川越等があり、その豪壮雄大な様は他に比類なく、天下の奇祭とされる。

 御神紋
 梶の葉(かじのは)足の数は上社が四本、下社五本の区別がある。
以上


『日本歴史小百科:神社』岡田米夫、『歴史読本聖なる神社謎の神々』1989.3号 松前健論文、日本の神々3(白水社)


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