諏訪大社上社本宮
諏訪市大字中洲字宮山1 mapfan

鳥居

交通

JR上諏訪駅 南5km



祭神

建御名方神、八坂刀賣神

『諏訪大社復興記』(玄松子さんご提供資料)摂社
大国主命社
出早社

同じく末社
一番 八剱明神
二番 小坂鎮守
三番 鷺宮明神
四番 萩宮明神
五番 達屋明神
六番 酒室大明神
七番 下馬明神
八番 御室明神
九番 御賀摩明神
十番 磯並山神
十一番 武居會美酒
十二番 神殿中部屋
十三番 長廊大明神

『平成祭礼データ』摂社
若宮社「建御名方彦神別命、伊豆早雄命、妻科比賣命、池生神、須波若彦神、片倉邊命、蓼科神、八杵命、内縣神、外縣神、大縣神、意岐萩命、妻岐萩命」
荒玉社「本社の荒魂、諏訪大神荒御魂」
磯並社「玉依姫神、池生神」
磯並山社「大山祇神」
下馬社「祭神不詳」
瀬神社「祭神不詳」
穂股社「御井神」
玉尾社「興玉命 」
大年社「大歳神」
犬射原社「大己貴命、建御名方命、事代主命」
大国主命社「大國主命」
御頭御社宮司社「建御名方神、建御名方彦神別命、伊豆早雄命、妻科比賣命、守達神、池生神、須波若彦神、片倉邊命、蓼科神、八杵命、r内縣神、外縣神、大縣神、惠奈武耳命、高杜神、意岐萩命、妻岐萩命、都麻耶美豆比賣命、奧津石建神、多都若比賣神、垂比賣神、竟富角神、大橡神、御射宮司神」三社
御頭御社宮司社「建御名方神、八坂刀賣神、御子神、御社宮司神」
御射山社「建御名方神、大己貴命、高志沼河姫命」
國常立命社「國常立命」
大四御盧社「大物主命、事代主命、下照姫命、建御名方神」
浅間社「木花開耶姫命」
磯並社「玉依姫命、池生神」
子安社「高志沼河姫命」
西宮社「事代主命」
神功皇后社「息長足姫命」
三輪社「大物主命」
高島神社「諏訪頼忠、諏訪頼水」
御頭御社宮司社「建御名方神、八坂刀賣神、御子神、御射宮司神」
出早社「出早雄命」
荻宮社「大歳神、御歳神」
千野川社「祭神不詳」
事代主命社「事代主命」
藤島社「木花開耶比賣命」
御小屋明神社「建御名方神」

左下 一之御柱 左上 二之御柱  拝 殿  右上 三之御柱 右下 四之御柱


由緒

  諏訪大社上社の最高の司祭は祭神建御名方神の神裔と称せられる神別の諏訪・神氏(じんし)から出た大祝である。室町時代の『諏訪大明神画詞』には、「祝は神明の垂迹の初、御衣を八才の童男にぬぎきせ給ひて、大祝と称し、我において体なし、祝を以て体とすると神勅ありけり。是則御衣祝有員(みそぎほうりありかず)、神氏の始祖なり。家督相次で今に其職をかたじけなくす」と記され、諏訪明神の化身として祭政一致の国土統治を行っていた。則ち諏訪国の祭祀王であり、「生きながらの神」であった。上社前宮の社地は「神殿」すなわち大祝の居館のあった所で、本宮の拝殿の背後の直線上にある。本宮の拝殿から大祝を拝する形である。

 上社大祝は、就任を即位(職位)と呼び、前宮の「神殿」の聖木の下の石の上で装束を着し、真澄鏡や八栄の鈴などの神宝をもって、即位した。古い祭祀王の即位にお形である。 

 上社の神は、特に狩りの噛みとして知られ、八月下旬(旧七月二十六〜三十日)の御射山祭をはじめとして、年中四度の御狩神事が名高い。要するに山の荒神。

 諏訪明神は、一面竜蛇神としての色彩が濃い。中世の諏訪縁起の甲賀三郎譚はその典型的なもの。明神は蒙古軍や蝦夷の前に大竜と化してこれらを撃退している。御輿に立てる薙鎌は奇怪な竜や竜の落とし子の形をしているのはナーガなる蛇体の水霊の古語と関係がある。「御神渡」は上社の神が下社の女神のもとに通う道であるとか、明神の正体の竜蛇が渡った跡とも伝える。

神楽殿

文政十年(1828)の建立で祈願者の神楽奉納の御殿である。
四方吹通し入母屋造りで諏訪市の指定文化財の建造物。
大太鼓は神楽殿建立と同時に奉納され、胴は樽と同様に合わせ木作で龍神が描かれている。
皮は一枚皮は使われ一枚皮では(牛)日本一と云われる。元日の朝のみ打たれる。

 『日本書紀』には見えず、『古事記』にのみ語られる建御名方と建御雷との力比べで負けた建御名方は出雲から科野の国の州羽の海に逃げた。ここで建御名方が「この地を除いて他には行かない。」と誓って、降伏し、国譲りが成ったのであるが、出雲には建御名方や建御雷の痕跡は神社や文献に現れないし、信濃でも建御雷は現れない。この物語の裏には、建御名方が諏訪の土地の古い神々を押さえて鎮座した縁起を逆さまに使った物語を『古事記』に載せたのであろう。下社の大祝の多氏系統の金刺氏が一矢を報いたと言うこと。

 中世の文書には、先住の土地神と、建御名方との闘いが語られている。諏訪大社上社の神体山守屋山に居たと言う強力な国津神の洩矢神が建御名方の来臨を妨げようとして、鉄輪を武器に待ち受けたががか明神は藤の蔓を取って闘い、ついに洩矢神は降伏したとある。これに関しては真弓常忠氏(平成十七年秋:住吉大社宮司)は砂鉄を採取するのに筵を使うのであるが、藁よりは藤蔓で編んだザルが一番よい。褐鉄鉱のスズを採取する原始的な製鉄よりも、砂鉄から磁鉄鉱を取る方が遥かに強力な鉄材を入手できると言う技術面の競争が背景にあったのではないかと述べておられる。(お諏訪さま 祭りと信仰 勉誠出版)
 では、この砂鉄の技術を持ち込んだ氏族とは、諏訪大祝神氏と言うことになる。かってはミワ氏と呼ばれていたようで、諏訪には美和郷があり、三輪神社も鎮座している。

出早社
祭神は諏訪大神の御子神であり地元の人々は諏訪様の門番神として崇めている。
また古くからイボ神として敬われ小石を捧げてイボの全快を祈る風習が残されている。


東の前宮からの参道の鳥居と布橋
 
 前宮から続く参道がまっすぐに接続する。この入り口の右側に二之御柱が立つ。左側には出早社。

お姿

 現在は諏訪湖から5kmほど離れてしまっているが、往古は諏訪湖畔が迫っていたとされる。
 赤石山脈守屋山の麓に鎮座している。
当社は上下社四宮ともに一般神社のような本殿がなく、本殿に相当するものは秘所ときれ、御神体は宝殿に祭られる。先ず上社本宮は東宝殿・西宝殿を中心に拝殿その他があるが、その配置は棲めて異様である。
 北側の鳥居から入ると一之御柱があり、左に回り込む。神楽殿や土俵がある。二之御柱を回って布橋を通る。寶殿を過ぎて拝殿の横を通り抜けて、塀重門をくぐり、宝物殿の前に出る。宝物殿の左側から山の方を目をこらして眺めると四之御柱。拝所から拝殿を眺める。
 三之御柱は東側の鳥居を出て御手洗皮沿いに坂を登る。お寺があり境内から見える。

境内案内図



お祭り

 上社の年中祭祀は冬十二月下旬に前宮の大祝の館の敷地に造られる土室の中に、茅で作った三体の蛇体を納めるまつる「御室」の神事をはじめ、元日に本宮前の御手洗川の氷を割って、二匹の蛙を取り、これを弓矢で射る「蛙狩りの神事」とか、同じ一月元日に、前日御室の中で行う神使を卜定する「御占神事」、また四月十五日(旧三月酉の日)に、前宮十軒廊で行われた七十五頭の猪や鹿の肉の饗宴、神使の頭郷巡視の出発などを含む「御頭祭」ないし、「大御立座神事」などのような、すこぶる呪術的な儀礼に満ちている。

 4月15日  例祭 

由緒 平成祭礼データから

 諏訪大社由緒略誌

 御鎮座地

 当大社は諏訪湖の南北に二社ずつ、四ヵ所に鎮座する独特の形の神社で関係の摂末社は六十有余社を数え群内全域に分散しています。
 諏訪大社、上社、本宮、長野県諏訪市中洲宮山鎮座。前宮、長野県茅野市宮川鎮座。下社春宮、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。秋宮、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。

 御祭神
 建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)
 建御名方神は大国主神と高志沼河比売神の御子神で、八坂刀売神は妃神です。下社には御二柱に併せて御兄神八重事代主神を祀りますが、一般には古くから上社に男神、下社に女神の信仰が広く伝わっております。

 御鎮座、並、旧社格
 御鎮座の年代は千五六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つと数えられます。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃国一之宮として信仰されていたことがわかります。明治四年に国幣中社に列格、同二十九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社と改称致しました。

 諏訪信仰
 全国に分布する御分社は一万有余社を数えお諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬われつゝ巾広い信仰を有し、御神徳の数々、枚挙にいとまありませんが、古くからある信仰には雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。 神功皇后の三韓征伐や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。
 精進潔斎を形だけする者より、肉を食べても真心込めて祈る者を救おうという諏訪大明神御神託や、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四孝が世上に広まるにつれ、日本の屋根信州諏訪の地へとの参拝者も日と共に繁く、諏訪大明神の御神徳の厚きことが伺われます。

 上社本宮
 中央線上諏訪駅から東南へ6キロ、守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林に抱かれる如くに鎮座しております。諏訪大社は社殿の四隅におんばしらと呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えていますが、中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も四社の中で一番多く残っています。また神体山をお祀りするという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも注目されております。
 境内のほゞ真ん中に東御宝殿、西御宝殿と言う二棟の茅葺の建物があります。本宮で最も大切な御殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行なわれます。軒からはどんなに干天の日でも最低三粒は水滴が落ちるといわれ、七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される所以にもなっております。
 本宮の昔の建物は極彩色が施され、御社殿以下建物が沢山並んでいましたが、天正十年(1582)に織田信長の兵火のために、山中に逃れた神輿の他はすべて焼失しました。この時まず仮殿が作られ順次再建された社殿は元和三年(1617)に完成しました。その後約二百年を経て諏訪藩主に依り社殿の改築が計画され、立川和四郎二代目富昌が地元の宮大工と共に事に当たり、天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要し現在の社殿が落成し、立川流の代表的建築物とも目されております。尚旧殿の拝殿は嘉永二年(1849)に群内富士見町乙事の諏訪神社へ移築され、桃山時代の代表的建造物として重要文化財に指定されております。
 本宮最古の建物は四脚門で、慶長十三年(1608)徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います。 神楽殿は文政十年(1827)の建立で、色々な神楽が連日行なわれていたようですが、残念なことにその神楽は現在絶えております。中にある大太鼓は江戸時代のもので、唯今では元旦の朝のみ打つことにしております。

 主要神事
 大社の恒例神事は例大祭を含む七回の大祭式に依る祭典以下関係する摂末社の神事迄年間二百余度の祭典が執行されております。              
 御頭祭、上社例大祭、四月十五日、本宮で例大祭の神事執行後神輿行列を仕立て前宮に赴き十間廊で古式に依る祭典が行なわれます。古くは三月酉の日に行なわれたため酉の祭とも言われ、農作物の豊穣を祈って御祭神のお使いが信濃国中を巡回するに際して行なわれたお祭りで大御立座神事とも言います。特殊神饌として鹿の頭を始め鳥類魚類等が供えられるため、一部では狩猟に関係したお祭りの如く言われています。唯今は剥製の鹿頭をお供えしますが、昔は七十五頭献じられたこともあり、中に必ず耳の裂けた鹿があって高野の耳裂け鹿と言い七不思議の一つに挙げられています。

 蛙狩神事並御占神事
 上社、一月一日、本宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前で小弓を以て射通し矢串のまゝお供えしますが、どんな寒いときでも蛙が捕れ、七不思議の一つです。続いて宮司が神秘な占いを行ない、当年の諸祭儀に奉仕する地区、御頭郷を選定する御占神事が行なわれます。

 式年御造営御柱大祭
 寅申相当年、四月山出祭 五月里曳祭、下社遷座祭、六月上社遷座祭 諏訪大社の諸祭儀の中でも特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ大木を曳建てることに大別されます。起源は遠く古代に遡りますが、平安朝時代初期桓武天皇の御代からは信濃国の総力をあげて奉仕され費用の調達の為に元服の式や婚礼、家屋の新築や増改築が禁じられたこともあります。唯今では造営も一部の建物に留まり、奉仕も諏訪地方一円二十万氏子へと縮小され、老若男女の区別なく御奉仕頂いております。
 おんばしらの用材は樅の木が使われ、三年前から木の選定等準備が始まり、上社関係は約25キロ隔たる八ケ岳の中腹から、下社関係は八島高原の近くから約10キロの里程を曳き出します。大きな柱は周囲三米、長さ十六米余、重さ十二、三トンにも及び、独特の木遣り歌と共に二、三千人の人々に依って曳行されます。
 車もコロも使わず人の力だけで曳き摺る為に原始的ではありますが、急坂を曳き落としたり、川を引き渡したりして怪我人が出ない方が不思議と言われる程に荒く勇壮な行事として知られ、奇祭の一つに挙げられています。

 諏訪の七不思議 氷湖の神幸(おみわたり)、元朝の蛙狩、五穀の筒粥、高野の耳裂鹿、御作田の早稲、葛井の清池、宝殿の点滴

 御神紋 梶の葉、葉が三葉あるので三本梶とも言い、足の数四本が上社、五本が下社の社紋です。

 信濃国一之宮諏訪大社由緒略誌、その2
 御鎮座地
 お諏訪様、諏訪大明神と親しまれ、崇敬されている諏訪大社は、諏訪湖をはさんで南に上社、北に下社があり、更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれて鎮座しております。この四社を合わせて信濃国一之宮諏訪大社と称し、氏子区域は旧諏訪郡24ケ町村にわたっております。又、付属の摂社末社の数は郡内に六十余社をかぞえ、特殊な祭祀の形態と信仰とを今日に伝えております。

 上社、本宮(ほんみや)長野県諏訪市中洲。前宮(まえみや)長野県茅野市宮川。下社、春宮(はるみや)長野県諏訪郡下諏訪町。秋宮(あきみや)長野県諏訪郡下諏訪町。

 御祭神
 建御名方神(たけみなかたのかみ、男神)。八坂刀売神(やさかとめのかみ、妃神)。八重事代主神(やえことしろぬしのかみ、兄神)。建御名方神は神代の昔、父神大国主神、兄神八重事代主神を助けられて、国造りの大業を成しとげられ、その後、八坂刀売神並びにその御子神と共に、信濃国の開拓に御神意をそそがれ、やがて、この諏訪湖畔の聖地を永久の神居と定め、お鎮まりになられました。

 御神徳
 当大社は古来より朝廷の崇敬がきわめて厚く、持統天皇5年(691)には勅使を遣わされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願されたのをはじめ、歴代の朝廷が神位や神階を進められ、或は神田、幣帛、御宸筆等を御奉納なされ、又、皇族の方々が数多く御参拝なされております。又、諏訪大神は武勇の神、武門武将の守護神として仰がれ、古くは神功皇后の三韓出兵の折りに御神威を顕わされ、平安時代には関より東で、第一の軍さ神として広く世に知れ渡りました。鎌倉時代以降は源頼朝をはじめ北条氏一門、足利尊氏、武田信玄、徳川家康以下歴代の将軍、その他、高島藩主をはじめ諸国の大名たちがいづれも社領を寄進し、或は神宝を奉納して武運の長久と国家の安泰を祈願されております。人々は雨、風の守り神、水の守護神と仰いで五穀の豊穣を祈り、或は又、生命の根源、生活の源を司られる神として、家内安全、健康長寿、交通安全、商工業の繁栄、開運招福を祈るなど、諏訪大神の広大無辺なる御神徳は、広く深くゆきわたっております。

 社格
 延喜式神名帳に名神大社として信濃国の第一にあげられ、朝廷の奉幣をうけ、広く全国の崇敬を集めておりました。上社と下社は明治維新の際に一社となり、明治四年に国幣中社に列格、大正五年に官幣大社に昇格し、昭和二十三年に諏訪大社と改められました。全国の御分社との交流、諏訪大神の御神威が全国各地に広がるにつれ、御分霊を祀る神社が増し、北は北海道から南は九州鹿児島まで各地に祀られて、現在、御分社の数は一万有余社にのぼります。毎年秋にはこれらの御分社が集う、全国諏訪神社連合大会が本社において開催され、共々に諏訪大神の高く尊い御神威を仰ぎ、交際を深めております。

 御社殿
 上社本宮、幣殿、拝殿、左右片拝殿、脇片拝殿、以上天保九年(1838)、四脚門、慶長十三年(1608)。下社春宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永九年(1780)。下社秋宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永十年(1781)、神楽殿、天保六年(1835)。

 祭事の大要
 恒例の大祭/遷座祭下社二月一日、祈年祭上社三月十七日、同下社三月十八日、例祭並御頭祭(酉の祭)上社四月十五日、例祭並遷座祭下社八月一日、新嘗祭上社十一月二十三日、同下社十一月二十四日

 特殊神事
 薙鎌の奉斎/薙鎌は諏訪大神を象徴する神器で、例祭の神幸行列に奉じ、御分霊の勧請及び、御柱大祭の際に授与する。蛙狩神事と御頭御占の神事(元旦上社本宮)/本宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前において弓矢で射抜き、矢串のままお供えして五穀豊穣と国家の安泰を祈る、年頭第一の神事である。続いて宮司の神秘な占いにより、一年間、大社の重要な祭事に奉仕する地区、御頭郷を選定する御占神事が行なわれる。田遊の神事(一月十五日上社本宮)新年祈請祭(一月十五日上社、下社)/筒粥の神事(一月十五日下社春宮)/小正月の年占の行事で、春宮の筒粥殿において大釜に白米、小豆、葦の筒を入れて一晩中粥を炊き、十五日の早旦にとり出して筒を割り、中の粥の状態で四十三種の農作物と世の中の吉凶を占う。御頭祭(酉の祭)(四月十五日、上社前宮)/上社第一の祭儀で、古くは三月酉の日に行なわれたので、酉の祭とも呼ばれる。本宮での例大祭の後、御頭郷地区の氏子役員が供奉し、行列を整えて神輿を前宮十間廊に安置し、御杖柱の幣帛を献り鹿の頭、鳥獣魚類等の特殊な神饌をお供えして大祭が行われる。御田植祭(六月第一日曜日上社)御田植神事(六月三十日下社)/御舟祭(八月一日下社)/二月一日に春宮にお遷しした御霊代を、神幸行列を以て再び秋宮に御遷しする遷座祭に引続き、例大祭が行われる。この遷座の行列に次いで、青柴で造った大きな御舟に翁と媼の人形を乗せた柴舟を、御頭郷の氏子達が春宮から秋宮に曳き付ける。神楽殿を三周した後、神事相撲があり、翁媼の人形は焚き上げられる。明治初年迄は柴舟を裸姿の若者が担いだので、諏訪の裸祭とも言われた。遷座祭には楊柳(ようりゅう、川柳)の幣が献じられる。御射山祭(八月二十六日・二十七日・二十八日上社下社)/上社下社両社それぞれの御射山社で行なわれる。青萱の穂で葺いた仮屋(穂屋)に神職他が篭って祭を行なうので穂屋祭とも呼ばれている。鎌倉幕府は全国の武将を集めて祭に参加させ、武芸を競わせた。参加した武将は諏訪大神の御分霊をいただいて任地に赴き、御分社を奉斎した。全国各地の御分社で、この日を諏訪祭として例祭日にあてている御社が多い。現在では農作物の豊穣と二才児の厄除健康の祈願が行われる。式年造営御柱大祭(寅、申相当の年、四月山出祭、五月里曳祭、下社遷座祭、六月上社遷座祭)諏訪大社の特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ巨木を曳建てることに分けられる。起原は遠く古代に遡るが、平安時代、桓武天皇の御代からは、信濃国の総力をあげて奉仕され、費用や材料の調達のために元服や婚礼、家屋の新築が禁じられたこともある。現在では造営も一部の建物に留まり、諏訪郡内二十万人の氏子の奉仕によって盛大に行われる。上社は八ケ岳の御小屋岳の神林から、下社は霧ケ峰の中腹からそれぞれ直径一メートル余、重さ十二、三トンの樅の大木を各八本伐り出し、独特の木遣り歌にあわせ、一本二、三千人の人々によって曳行される。途中、急坂の木落としや宮川の川越等があり、その豪壮雄大な様は他に比類なく、天下の奇祭とされる。

 御神紋
 梶の葉(かじのは)足の数は上社が四本、下社五本の区別がある。
以上


『歴史読本聖なる神社謎の神々』1989.3号 松前健論文、日本の神々3(白水社)


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