諏訪大社上社前宮
茅野市宮川小屋町2030 mapfan

鳥居
 

交通

JR上諏訪駅 南5km



祭神

建御名方神、八坂刀賣神

『諏訪大社復興記』(玄松子さんご提供資料)摂社
摂社  内御玉殿「一云本社の幸魂奇魂也」
末社 若御子社「建御名方の御子神」

『平成祭礼データ』摂社

内御玉殿「本社の幸魂奇魂」
若御子社「建御名方彦神別命、伊豆早雄命、妻科比賣命、守達神、池生神、須波若彦神、片倉邊命、蓼科神、八杵命、内縣神、外縣神、大縣神、惠奈武耳命、高杜神、意岐萩命、妻岐萩命、都麻耶美豆比賣命、奧津石建神、多都若比賣神、垂比賣神、竟富角神、大橡神」
柏手社「祭神不詳」
溝上社「高志沼河姫命」
御室社「八坂彦命」
鶏冠社「大國魂神」
政所社「素盞嗚尊、大己貴命」
子安社「高志沼河姫命」
荒玉社「諏訪大神荒御魂」

左下 二之御柱 左上 三之御柱  拝 殿  右上 四之御柱 右下 一之御柱

由緒

 ここは諏訪大社大祝の始祖と伝えられる有賀がはじめで大祝の職位について以来、同社大祝代々の居館であった。ところで、神殿(こうどの)は神体と同視された大祝常住の殿舎の尊称である。
 この神殿のあった場所を神原(こうばら)と言い、代々の大祝職位式および旧三月酉日の大御立座神事(酉の祭)をはじめ、上社の重要な神事のほとんどが、この神原で行われた。
 文明十五年(1483)正月、大祝家と諏訪惣領家の内訌による争いで一時聖地が穢れたことはあったが、清地にかえし大祝の居館として後世まで続いた。跡、この居館は他に移ったが祭儀は引き続いて神原において行われてきた。
 諏訪大社の祭政一致時代の古体の跡を示している最も由緒ある史跡である。
 長野県教育委員会、茅野市教育委員会

荒玉社
「新御魂舎」とも書く。原始農耕の神事として田の神を降ろし稲の御魂をまつる社で上社の重要な摂社である。
古書によれば正月元日にはまず大祝以下の神官氏人が参詣し旧暦二月晦日の春祭の最初にあたり神使(こうのと)が出仕して「野出の神事」が行われたとあり現在も続いているが簡単な神事だけになっている。

十間廊
古くは神原廊と呼ばれ中世まで諏訪祭政の行われた政庁のの場 ですべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供された。毎年四月十五日の「酉の祭には鹿の頭七十五がそなえられたがこれらの鹿の中には必ず耳の裂けた鹿がいることから諏訪の七不思議にかぞえられた。
 上段に大祝の座、次ぎに家老・奉行・五官の座があり、下座に御頭・郷役人の座なども定められ、左手の「高神子屋」で演じられる舞いを見ながら宴をはった。

内御玉殿
諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた御殿である。
 諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」といわれたように諸神事にあたってこの内御玉殿の扉をひらかせ弥栄の鈴をもち、真澄の鏡をかけて、馬具をたづさえて現れる大祝はまさに神格をそなえた現身の諏訪明神そのものであった。
 現在の社殿は昭和七年改築、以前の社殿は天正十三年(1585)造営で上社最古の建物であった。

御室社
中世まで諏訪郡内の諸郷の奉仕によって半地下式の土室が造られ、現人神の大祝や神長官以下の神官が参籠し、蛇形の御体と称する大小のミシャグジ神とともに、「穴巣始」といって、冬ごもりをした遺跡地である。
 旧十二月二十二日に「御室入り」をして、翌年三月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行されたという。
 諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが、中世以降は惜しくも廃絶した。


お姿

 当社は上下社四宮ともに一般神社のような本殿がなく、本殿に相当するものは秘所ときれ、御神体は宝殿に祭られる。上社前宮も本宮と同じくその姿は特殊で、宝殿に当る内御玉殿と十間廊などがあるにすぎず拝殿がない。西隣の神殿跡は、歴代大祝たちの居館や斎場があったところという。
 右手に溝上社の跡地を見ながら平べったい階段を少し登ると、荒玉社や十間廊がある。そこを通り過ぎて登っていく。途中には民家もあり、一度境内から出るようだ。
 こんどはこんもりとした杜に入る。実に青々とした一画である。 この前宮社は守屋山を背景にしているようだ。

上社前宮本殿
 諏訪神は遠く上古の『古事記』、『日本書紀』の中にみえるが、ここ前宮は古来より諏訪明神の住まう所として生き神となる諏訪大祝の居館を存し神秘にして原始的なミシャグチ神を卸して諏訪明神の重要な祭祀・神事を執り行った聖地である。


お祭り

 上社の年中祭祀は冬十二月下旬に前宮の大祝の館の敷地に造られる土室の中に、茅で作った三体の蛇体を納めるまつる「御室」の神事をはじめ、元日に本宮前の御手洗川の氷を割って、二匹の蛙を取り、これを弓矢で射る「蛙狩りの神事」とか、同じ一月元日に、前日御室の中で行う神使を卜定する「御占神事」、また四月十五日(旧三月酉の日)に、前宮十軒廊で行われた七十五頭の猪や鹿の肉の饗宴、神使の頭郷巡視の出発などを含む「御頭祭」ないし、「大御立座神事」などのような、すこぶる呪術的な儀礼に満ちている。

 毎月27日  月例祭 

由緒 平成祭礼データから

 諏訪大社由緒略誌

 御鎮座地

 当大社は諏訪湖の南北に二社ずつ、四ヵ所に鎮座する独特の形の神社で関係の摂末社は六十有余社を数え群内全域に分散しています。
 諏訪大社、上社、本宮、長野県諏訪市中洲宮山鎮座。前宮、長野県茅野市宮川鎮座。下社春宮、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。秋宮、長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。

 御祭神
 建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)
 建御名方神は大国主神と高志沼河比売神の御子神で、八坂刀売神は妃神です。下社には御二柱に併せて御兄神八重事代主神を祀りますが、一般には古くから上社に男神、下社に女神の信仰が広く伝わっております。

 御鎮座、並、旧社格
 御鎮座の年代は千五六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つと数えられます。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃国一之宮として信仰されていたことがわかります。明治四年に国幣中社に列格、同二十九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社と改称致しました。

 諏訪信仰
 全国に分布する御分社は一万有余社を数えお諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬われつゝ巾広い信仰を有し、御神徳の数々、枚挙にいとまありませんが、古くからある信仰には雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。 神功皇后の三韓征伐や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。
 精進潔斎を形だけする者より、肉を食べても真心込めて祈る者を救おうという諏訪大明神御神託や、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四孝が世上に広まるにつれ、日本の屋根信州諏訪の地へとの参拝者も日と共に繁く、諏訪大明神の御神徳の厚きことが伺われます。

 上社前宮
 本宮の東約2キロ、中央線茅野駅からバスで約五分の所に鎮座します。境内の大半を占める広場を神原(ごうばら)と言い、大祝の居館である神殿(ごうどの)と附属する沢山の建物が軒を連ね、上社の祭祀の中心地でしたが、室町時代の中葉に神殿が移転され、多くの建物が消滅し、現在では祭典に必要な建物だけになりました。 神原の中心をなし諏訪大神の幸御魂、奇御魂を祀る内御玉殿(うちみたまでん)は一部に天正十三年の旧殿の材を使い、昭和七年の造築です。隣の十間廊はその奥行から付いた名称で神原廊とも言い、上社最大の神事御頭祭はこの上段に神輿を安置して執行します。 前宮御本殿は内御玉殿から二百米上段で、古くは神殿に附属したお社でした。高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。現在の社殿は昭和七年伊勢神宮の御用材を以て建てられたものです。 内御玉殿の百米程西に諏訪大神の神裔諏方氏が大祝の職に就く時、極めて重要かつ神秘な儀式が行なわれた鶏冠社という社があります。

 主要神事
 大社の恒例神事は例大祭を含む七回の大祭式に依る祭典以下関係する摂末社の神事迄年間二百余度の祭典が執行されております。              
 御頭祭、上社例大祭、四月十五日、本宮で例大祭の神事執行後神輿行列を仕立て前宮に赴き十間廊で古式に依る祭典が行なわれます。古くは三月酉の日に行なわれたため酉の祭とも言われ、農作物の豊穣を祈って御祭神のお使いが信濃国中を巡回するに際して行なわれたお祭りで大御立座神事とも言います。特殊神饌として鹿の頭を始め鳥類魚類等が供えられるため、一部では狩猟に関係したお祭りの如く言われています。唯今は剥製の鹿頭をお供えしますが、昔は七十五頭献じられたこともあり、中に必ず耳の裂けた鹿があって高野の耳裂け鹿と言い七不思議の一つに挙げられています。

 蛙狩神事並御占神事
 上社、一月一日、本宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前で小弓を以て射通し矢串のまゝお供えしますが、どんな寒いときでも蛙が捕れ、七不思議の一つです。続いて宮司が神秘な占いを行ない、当年の諸祭儀に奉仕する地区、御頭郷を選定する御占神事が行なわれます。

 式年御造営御柱大祭
 寅申相当年、四月山出祭 五月里曳祭、下社遷座祭、六月上社遷座祭 諏訪大社の諸祭儀の中でも特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ大木を曳建てることに大別されます。起源は遠く古代に遡りますが、平安朝時代初期桓武天皇の御代からは信濃国の総力をあげて奉仕され費用の調達の為に元服の式や婚礼、家屋の新築や増改築が禁じられたこともあります。唯今では造営も一部の建物に留まり、奉仕も諏訪地方一円二十万氏子へと縮小され、老若男女の区別なく御奉仕頂いております。
 おんばしらの用材は樅の木が使われ、三年前から木の選定等準備が始まり、上社関係は約25キロ隔たる八ケ岳の中腹から、下社関係は八島高原の近くから約10キロの里程を曳き出します。大きな柱は周囲三米、長さ十六米余、重さ十二、三トンにも及び、独特の木遣り歌と共に二、三千人の人々に依って曳行されます。
 車もコロも使わず人の力だけで曳き摺る為に原始的ではありますが、急坂を曳き落としたり、川を引き渡したりして怪我人が出ない方が不思議と言われる程に荒く勇壮な行事として知られ、奇祭の一つに挙げられています。

 諏訪の七不思議 氷湖の神幸(おみわたり)、元朝の蛙狩、五穀の筒粥、高野の耳裂鹿、御作田の早稲、葛井の清池、宝殿の点滴

 御神紋 梶の葉、葉が三葉あるので三本梶とも言い、足の数四本が上社、五本が下社の社紋です。

 信濃国一之宮諏訪大社由緒略誌、その2
 御鎮座地
 お諏訪様、諏訪大明神と親しまれ、崇敬されている諏訪大社は、諏訪湖をはさんで南に上社、北に下社があり、更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれて鎮座しております。この四社を合わせて信濃国一之宮諏訪大社と称し、氏子区域は旧諏訪郡24ケ町村にわたっております。又、付属の摂社末社の数は郡内に六十余社をかぞえ、特殊な祭祀の形態と信仰とを今日に伝えております。

 上社、本宮(ほんみや)長野県諏訪市中洲。前宮(まえみや)長野県茅野市宮川。下社、春宮(はるみや)長野県諏訪郡下諏訪町。秋宮(あきみや)長野県諏訪郡下諏訪町。

 御祭神
 建御名方神(たけみなかたのかみ、男神)。八坂刀売神(やさかとめのかみ、妃神)。八重事代主神(やえことしろぬしのかみ、兄神)。建御名方神は神代の昔、父神大国主神、兄神八重事代主神を助けられて、国造りの大業を成しとげられ、その後、八坂刀売神並びにその御子神と共に、信濃国の開拓に御神意をそそがれ、やがて、この諏訪湖畔の聖地を永久の神居と定め、お鎮まりになられました。

 御神徳
 当大社は古来より朝廷の崇敬がきわめて厚く、持統天皇5年(691)には勅使を遣わされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願されたのをはじめ、歴代の朝廷が神位や神階を進められ、或は神田、幣帛、御宸筆等を御奉納なされ、又、皇族の方々が数多く御参拝なされております。又、諏訪大神は武勇の神、武門武将の守護神として仰がれ、古くは神功皇后の三韓出兵の折りに御神威を顕わされ、平安時代には関より東で、第一の軍さ神として広く世に知れ渡りました。鎌倉時代以降は源頼朝をはじめ北条氏一門、足利尊氏、武田信玄、徳川家康以下歴代の将軍、その他、高島藩主をはじめ諸国の大名たちがいづれも社領を寄進し、或は神宝を奉納して武運の長久と国家の安泰を祈願されております。人々は雨、風の守り神、水の守護神と仰いで五穀の豊穣を祈り、或は又、生命の根源、生活の源を司られる神として、家内安全、健康長寿、交通安全、商工業の繁栄、開運招福を祈るなど、諏訪大神の広大無辺なる御神徳は、広く深くゆきわたっております。

 社格
 延喜式神名帳に名神大社として信濃国の第一にあげられ、朝廷の奉幣をうけ、広く全国の崇敬を集めておりました。上社と下社は明治維新の際に一社となり、明治四年に国幣中社に列格、大正五年に官幣大社に昇格し、昭和二十三年に諏訪大社と改められました。全国の御分社との交流、諏訪大神の御神威が全国各地に広がるにつれ、御分霊を祀る神社が増し、北は北海道から南は九州鹿児島まで各地に祀られて、現在、御分社の数は一万有余社にのぼります。毎年秋にはこれらの御分社が集う、全国諏訪神社連合大会が本社において開催され、共々に諏訪大神の高く尊い御神威を仰ぎ、交際を深めております。

 御社殿
 上社本宮、幣殿、拝殿、左右片拝殿、脇片拝殿、以上天保九年(1838)、四脚門、慶長十三年(1608)。下社春宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永九年(1780)。下社秋宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永十年(1781)、神楽殿、天保六年(1835)。

 祭事の大要
 恒例の大祭/遷座祭下社二月一日、祈年祭上社三月十七日、同下社三月十八日、例祭並御頭祭(酉の祭)上社四月十五日、例祭並遷座祭下社八月一日、新嘗祭上社十一月二十三日、同下社十一月二十四日

 特殊神事
 薙鎌の奉斎/薙鎌は諏訪大神を象徴する神器で、例祭の神幸行列に奉じ、御分霊の勧請及び、御柱大祭の際に授与する。蛙狩神事と御頭御占の神事(元旦上社本宮)/本宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前において弓矢で射抜き、矢串のままお供えして五穀豊穣と国家の安泰を祈る、年頭第一の神事である。続いて宮司の神秘な占いにより、一年間、大社の重要な祭事に奉仕する地区、御頭郷を選定する御占神事が行なわれる。田遊の神事(一月十五日上社本宮)新年祈請祭(一月十五日上社、下社)/筒粥の神事(一月十五日下社春宮)/小正月の年占の行事で、春宮の筒粥殿において大釜に白米、小豆、葦の筒を入れて一晩中粥を炊き、十五日の早旦にとり出して筒を割り、中の粥の状態で四十三種の農作物と世の中の吉凶を占う。御頭祭(酉の祭)(四月十五日、上社前宮)/上社第一の祭儀で、古くは三月酉の日に行なわれたので、酉の祭とも呼ばれる。本宮での例大祭の後、御頭郷地区の氏子役員が供奉し、行列を整えて神輿を前宮十間廊に安置し、御杖柱の幣帛を献り鹿の頭、鳥獣魚類等の特殊な神饌をお供えして大祭が行われる。御田植祭(六月第一日曜日上社)御田植神事(六月三十日下社)/御舟祭(八月一日下社)/二月一日に春宮にお遷しした御霊代を、神幸行列を以て再び秋宮に御遷しする遷座祭に引続き、例大祭が行われる。この遷座の行列に次いで、青柴で造った大きな御舟に翁と媼の人形を乗せた柴舟を、御頭郷の氏子達が春宮から秋宮に曳き付ける。神楽殿を三周した後、神事相撲があり、翁媼の人形は焚き上げられる。明治初年迄は柴舟を裸姿の若者が担いだので、諏訪の裸祭とも言われた。遷座祭には楊柳(ようりゅう、川柳)の幣が献じられる。御射山祭(八月二十六日・二十七日・二十八日上社下社)/上社下社両社それぞれの御射山社で行なわれる。青萱の穂で葺いた仮屋(穂屋)に神職他が篭って祭を行なうので穂屋祭とも呼ばれている。鎌倉幕府は全国の武将を集めて祭に参加させ、武芸を競わせた。参加した武将は諏訪大神の御分霊をいただいて任地に赴き、御分社を奉斎した。全国各地の御分社で、この日を諏訪祭として例祭日にあてている御社が多い。現在では農作物の豊穣と二才児の厄除健康の祈願が行われる。式年造営御柱大祭(寅、申相当の年、四月山出祭、五月里曳祭、下社遷座祭、六月上社遷座祭)諏訪大社の特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ巨木を曳建てることに分けられる。起原は遠く古代に遡るが、平安時代、桓武天皇の御代からは、信濃国の総力をあげて奉仕され、費用や材料の調達のために元服や婚礼、家屋の新築が禁じられたこともある。現在では造営も一部の建物に留まり、諏訪郡内二十万人の氏子の奉仕によって盛大に行われる。上社は八ケ岳の御小屋岳の神林から、下社は霧ケ峰の中腹からそれぞれ直径一メートル余、重さ十二、三トンの樅の大木を各八本伐り出し、独特の木遣り歌にあわせ、一本二、三千人の人々によって曳行される。途中、急坂の木落としや宮川の川越等があり、その豪壮雄大な様は他に比類なく、天下の奇祭とされる。

 御神紋
 梶の葉(かじのは)足の数は上社が四本、下社五本の区別がある。
以上


『歴史読本聖なる神社謎の神々』1989.3号 松前健論文、日本の神々3(白水社)


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