掲示板由緒書
主祭神 事代主命。 配 祀 須佐之男命、大己貴命、木花咲耶姫命、大山祇命、武内宿祢命。 由 緒 池田神社は静岡市池田藤六坪一二○七番地に在って延喜式神名帳には駿河国 有度郡池田神社と記されている。 有度郡三座の一にして、神階帳には正五位池田天神と記されている。 創立年代は不詳であるが総国風土記に「池田神社所祭事代主神也、大泊瀬若鷦鷯天皇 (二十五代武烈天皇)乙卯六月祈雨祭之」とある。 今より一五○○年前のことである。 往時の神社地は八万平方米を所有せしと云う。 之の境内地に池があって祈雨の祭事を行ったという説があり、その池は清水湧く今日 の釣掘池即ち聖一色の峯田池であろう。 又、神社境内に古井戸あり後桜町天皇の明和年間(一七六四年ー一七六七年)四ケ年に亘り当地方に大旱魃があって池田区内の井戸皆干上がり飲料水欠乏の大苦難に陥っ た時があり、この時村民相集り神社境内に井戸を掘ったところ霊水涼々湧出し村衆の 生活を守ったという記録がある。 この井戸の深さは約三間直経四尺周囲石垣積みにして拝殿北方約二十米のところに位 置する。 昭和四十一年大慈悲院川の掘削工事に当り、砂堆積により現在埋没されている。 明治四十二年神饌幣帛供進指定神社となる。 静岡県神社庁神社等級規定第十級社。 祭 日 七月十五日 祇園祭。十月十七日 例祭。 |
御由緒
当社は式内延喜式神名帳に「駿河国有度郡三座並小云々草薙神社」と記載されている 。御祭神は景行天皇第二子皇子日本武尊を御祀り申し上げて鎮座してあります。国史 社伝によれば、尊は東国の蝦夷が、叛いたので、之を平定する為、吾嬬国に赴く途中 、このあたりで逆賊起こり、原野に火を放って尊を焼き殺そうとしたので尊は出発の 折、伊勢神宮に参拝し、倭姫命より戴いた佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかも と、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱へ、祓ひて剣を振り、あたりの草をことごと く薙ぎ払った処で手打石により日をつけた。その火は逆に逆賊の方へ烟りなびいて、 尊は無事にこの難を切り抜けられました。その後、佩用されていた天叢雲の剣を草薙 の剣と名称を変更になり、尚、尊を焼き殺そうとした処を草薙と言はれる様になりと 、語り伝へられている。その後景行天皇が日本尊命の勲功の地を尋ねようと、五三年 八月に天皇は郡郷に詔して曰く「冀くば、日本尊命の征定された国郡を巡視する。」 そこで天皇は直ちに出発せられ、先ず伊勢に行幸され、次いで東国に向かはれ九月二 十日に当地に御着になり尊の奮斗の後を封じて御親しく一社を建立し、日本武尊を奉 祀し、御霊代として、草薙の剣を奉納されました。景行天皇五三年九月二十日(昭和 に及んでおります。その後草薙の剣は第四十六代天武天皇の朱雀元年に勅命により現 在の熱田神宮に奉祀しされました。 |
静岡浅間神社
参拝のしおり おせんげんさま ご由緒・ご祭神・ご神徳 神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称して静岡浅間神社(通称おせんげん さま)といい、何れもご創立は千古の昔にさかのぼる。 三社とも鎌倉時代以降、歴代幕府の崇敬を受け、この頃から駿府浅間社と称せられた。 明治1年三社夫々に国幣小社に列せられた。 神部神社(駿河国総社) ●祭神 大己貴命(大国主命の別名)
●例祭 4月1日〜5日 廿日会祭 ●神紋 輪宝 ●本殿 比翼三間社流造極彩色 31坪余 〔重文〕
●祭神 木花開耶姫命
●神紋 棕櫚葉 ●本殿 神部神社と同殿。
●祭神 大歳御祖命
●神紋 立葵 ●本殿 三間社流造 10坪 〔重文〕
●玉鉾神社
●八千戈神社〔重文〕
●少彦名神社〔重文〕
●麓山神社〔重文〕
古来、賤機山に鎮座。
「山宮」と称せられた。
●史蹟
●祭儀
<宝物>
当社の宝物類は、その点数も多く、品目も多岐にわたっている。
その一部は境内の”文化財資料館”に収蔵又は展示され、一般に公開されているが、
特に重要な物件は、宝蔵に収蔵されている。
<当社所蔵の宝物類の品目>
THE KANBE−SHRINE,THE ASAMA(or Sengen)−
SHRINE.
AND THE OTOSHMIOYA−SHRINE.
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掲示板由緒書
天平神護元年三月創建。 延喜式神名帳に記載されている中津神社とあるは当神社のことである。 駿河国風土記によれば安倍、藁科川の中州に鎮座されていたとある。 明治八年二月村社に列せられた。 昭和十六年六月神饌幣帛供進神社となった。 昭和二十年六月二十日戦災により社殿焼失したが昭和三十四年に再建された。 昭和二十一年七月三十日宗教法人令による届出をなし、昭和二十七年七月二十三日宗 宗教法人法により宗教法人中津神社設立登記をした。 昭和四十年一月二十六日中津神社を住吉神社と社号変更の承認を神社本庁より受け住 吉神社と改称した。 静岡県神社庁神社等級規定八級社である。 |
参拝のしおり
祭神 建速須佐之男命、奇稲田姫命。 相殿 大己貴命、天照皇大神、金山彦命、猿田彦命。 境内社 稲荷神社 祭神 豊受比売神 (開運の神としての信仰があり、入学達成・選挙当選等の祈願が多い) 宗像神社 祭神 多紀理姫命、市寸島姫命、多岐都姫命。 (俗に出世弁天社と云われている) 由緒 当神社の創建は詳かでない。元の鎮座地は小梳と云い、後東川辺と改められた現在の 県庁の東側の地である。 延喜式神名帳に「駿河国安倍郡小梳神社」とある。 諸郡神階帳に「正五位下安倍郡小楠神社。」と、又惣国風土記に「小梳公穀二百六十 束、仮粟百十二丸、小梳神社所祭素盞嗚)尊、奇稲田姫也、小梳後号東川辺、延喜式 安倍郡小梳神社とあるは此社なり。」と記載されている。 大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来、その守護神として信仰され、貞観の頃 から祇園信仰が全国に拡まるに連れて、当神社は少将井神社とも云われるようになっ た。 この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての信仰も加わった。 特に徳川家康が幼時今川家の人質として当神社の傍に住居し、日夜武運長久を祈願し 、やがて元和元年大阪夏の陣が終り天下を平定してこの駿府城に止まるにあたり、代 々徳川家の守り神伝わる大巳貴命、天照大神二神を小梳神社に合祀し少将井五所大神 宮と称した。元和元年九月三日林道春に命じてこの由を社講に識さしめ奉献したもの が現存している。これよりさき、慶長十四年駿府城の城域拡張により、当神社はその 郭内に入ったので駿河大納言は不敬を冐すをおそれ、且庶民参拝の便をはかって、寛 永八年新谷町に仮宮を造って奉遷し、延宝三年現在の地に社殿を造営して遷宮した。 この造営の事にあたったのは城代松平右近太夫を始め町奉行大久保甚兵衛外、城番、 番頭、一、二、三加番、目付其の他である。 翌延宝四年から隔年に神幸祭が行われた。 この神幸祭はぎおん祭といわれ、町奉行、与力、同心が警護にあたり、加番衆出し馬 あり、駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物なと踟物を出 し、「供奉の行列装束を粧い、引連なる踟物の結構は都山王神社の祭礼に彷彿たり。 」と駿国雑誌に記載されている。 明治八年二月静岡県第四大区五ノ小区の郷社に列した。 明治九年と明治二十五年に静岡繁華街に大火があり、当神社も再度類焼の難に遭った が復興し、明治四十一年一月神饌幣帛供進神社に指定され、同年七月県社に昇格した。 昭和十五年一月静岡市大火により社殿工作物悉く失い、同年建築した仮社殿も昭和二 十年六月二十日戦災により再度炎上した。 以後氏子関係者一同の努力により、本殿、祝詞殿中殿、拝殿、境内社、社務所、倉庫 等の復興建築を完了した。 昭和三十七年三月七日、北白川神宮祭主、坊城神宮大宮司、佐々木神社本庁統理其の 他の正式参拝があった。 駿河国三大地誌と高く評価されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑が当神 社の境内にあり、静岡市文化財に指定されている。 昭和二十一年七月三十一日宗教法人令により届出をなし、昭和二十七年七月二十三日 宗教法人法に依り宗教法人「小梳神社」設立の登記をした。 静岡県神社庁神社等級規定三級社である。 |
御由緒 <br>大国主之命は須佐之男之命(すさのおのみこと)の御子で、豊葦原瑞穂国(とよあし はらみずほのくに)(日本の国)を開きお治めになり、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこ と)が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので 、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊(たか むすびのみこと)の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后(おおきさき)とお 定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽 車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、 皇室のいや栄とを守るため三保の神奈昆(かむなび)(天神の森)に鎮座された。こ れが当御穂神社の起一般民衆より三保大明神として親しまれています。彦神は国土開 発の神様で、姫神は御婦徳高く、二神は災いを払い福をお授けになる神様として知ら れています。御神徳は顕著(いやちこ)に夫婦和合縁結び、安産子育て(きれいで健 康な頭の良い子)、福徳医薬の神、また航海安全、漁業、農業、文学、歌舞、音曲の 神とも仰がれています。 |
御由緒 <br>創建は恒武天皇の御代延歴一〇年四月上旬初未の日、西暦七九一年で今を去ること一 二〇〇年前である。延喜式神名帳(九二七年)で蘆原郡三座豊積大神とあります。駿 河国神名帳に正五位位下豊積大神とあるのは当社のことで古くは豊積之社浅間大明神 とも申し上げたのであります。天正二年、朝比奈双白より黒印、慶長五年金阿弥、慶 安元年徳川家光、五代将軍綱吉、八代吉宗、九代家重、一〇代家治、一一代家斉、一 二代家慶、一三代家定一四代家茂、各将軍より御朱印を賜る。 |
富士山本宮浅間大社の栞
第七代、孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し年久しく国中が 荒れ果てたので第十一代垂仁天皇は其の三年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮め られた。これを当浅間大社の起源とする。ついで第十二代景行天皇の御代日本武尊が 東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災 をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大 神を祭られた。其の後第五十一代平城天皇の大同元年坂上田村麿勅を奉じて現在の大 宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。爾来一千百余年全国一千三百余 に及ぶ浅間神社の総本社として全国的崇敬をあつめる東海の名社となっている。 古来朝廷の御尊崇極めて厚く延喜の制には名神大社に列し、駿河国一宮として勅使の 奉幣神領の御寄進等にあずかり、武家時代に入るや源頼朝は神領を寄進し、北条義時 ・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営し、武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上 し社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進した。慶長九年徳川家康は戦国擾乱の鎮静 と将軍宣下の奉賽のため本殿・拝殿・楼門その他を奉建し更に同十一年には富士山八 合目以上を当社へ寄進した。爾来徳川氏は本社を崇敬すること極めて深く、家光は社 領を献じ家綱・綱吉・家治・家斉・家定・家茂等も夫々祈祷料・修理料を寄進した。 又室町時代に始まった富士登拝は江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め以来今日に至 っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者(どうじ ゃ)の登山口たることは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者も此の道を選び 、又甲斐、信濃より来る道者も少なくなかった。彼等は社人中特定の道者坊に着いた 後本宮に参詣し、更に境内の湧玉池にて斎戒沐浴して登山するのを習いとした。 明治に及んでは其の四年五月十四日国幣中社に、同二十九年七月八日官幣大社に列せ られた。 |
丸子神社要略
<br>丸子神社は沼津市内では由緒ある古い神社であります。当神社は第六十代醍醐天皇の
延喜式神名帳に所載する『式内神社』であり第十代崇神天皇の御代に創建されたとい
われております。
旧社地は駿河国沼津堂敷免(現 沼津市丸子町)に始めて奉斎鎮座されましたが、明 治十年十二月に現在の浅間神社に御遷座いたされ一扉二社となったのであります。 当神社は第六十二代村上天皇の天暦年間には天下太平御祈願所、第九十六代御醍醐天 皇の建武二年には武運長久永代祈祷所を仰付けられ、くだって明治元年十月七日には 明治天皇が当地を御通輦のみぎり官幣使を御差遣になされたご由緒があります。 |