嶋兒神社
京都府京丹後市網野町浅茂川明神山382 its-mo

社殿

交通案内
北丹後鉄道 網野駅 北へ1.7km


祭神
嶋子神


由緒

 丹後の浦島伝説はここ網野町と丹後半島の東側の伊根町とにある。一般に浦島太郎としてお伽話で語られるのは当地では島子と言う。
 島子が釣った魚を放して置いた岩場(釣留と言う)や、島子が乙姫と出会った地と言う福島の伝承地がある。福島には乙姫を祀った西浦島神杜があるそうだ。

 浦嶼子は浦の嶼子と言うことがこの神社の鎮座でわかる。シマコ、漁労民集団の頭(かしら)を言うのであって、個人の名前ではないと言う説もあるが、衝撃的渡航を行った人物として長く記憶された頭であったのだろう。従って日下部首の祖とされたのである。『魏志倭人伝』に出てくる伊都国の官の名前であるが、爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)とある。
 『桃太郎と邪馬台国』前田晴人著によれば浦の「シマコ」である。いいアイデアと思う。
 丹後を伊都国とは言うつもりはないが、官名としてのシマコは2世紀のは使われていたのだ。浦嶼子は実在していた可能性が高い。ひょっとしたら魏の国へ遣わされてその壮麗な宮殿などを見てきたのかも知れない。土産話と隼人の伝える伝承とが結びついたのかも知れない。

 浦島子伝説は、『日本書紀』、『丹後国風土記』、『万葉集』にそれぞれ記載がある。また小学唱歌にもある。

昔々浦島は 助けた亀に連れられて
竜宮城へ来て見れば 絵にもかけない美しさ

乙姫様のごちそうに 鯛やひらめの舞踊
ただ珍しくおもしろく 月日のたつのも夢の中

遊びにあきて気がついて おいとまごいもそこそこに
帰る途中のたのしみは みやげにもらった玉手箱

帰って見ればこはいかに もといた家も村もなく
みちに行きあう人々は 顔も知らない者ばかり

こころぼそさにふた取れば あけて悔しき玉手箱
中からぱっと白けむり たちまち太郎はおじいさん

 万葉集では巻九 一七四〇 詠水江浦嶋子一首

春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦島の子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ

社殿


お姿
 豪雨の最中の参詣、周辺の海岸をゆっくり見物する余裕はなかった。


お祭り
  

参考『桃太郎と邪馬台国』前田晴人著 講談社現代新書

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