倭文神社(しとり)
鳥取県東伯郡湯梨浜町 ゼンリン地図

交通

JR山陰線松崎駅 バス藤津入口



祭神

建葉槌命
相殿神 下照姫命、事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高彦根命(平成祭礼データ)


鳥居


由緒

 伯耆の国の一宮・川村郡の延喜式内社。
 昭和に入り、忘れられていた祭神の建葉槌命が復活した。『日本書記』『旧事本紀』には、倭文神は建葉槌命または天羽槌雄神としており、倭文神社の根元社とされる大和葛城の神社は葛木倭文坐天羽雷命神社と言うことからも自明と言える。


神門と上の彫刻


 往古は倭文織の産地だったようだが、当社近辺には倭文織の伝承は皆無、一方、下照姫命にかかわる伝承が多く残っていると言う。『伯耆民談記』(1742)によると、姫は出雲神門郡から海路、近くの海岸に上陸されたと言う。腰掛岩とされる大岩があると言う。同行の者は神社鎮座地の宮内に居を構えたと言い、その子孫を名乗る者が今も居ると言う。

 参道から右手の山に数分登って行くと奈良時代の経塚の出土した跡がある。かっては下照姫の墓と言われていた場所。ここに「元日の朝には金の鶏が鳴く」と言う金鶏伝説のあった場所と言う。


安産石  下照姫の墓所
 


経塚の説明  近くの石像


お姿

 東郷湖を見下ろす御冠山の中腹に鎮座。一帯は古墳密集地で、古代からの祭祀の場所だった。
 鳥居の側に大岩の上に石の祠がチョイと乗ったものがある。安産石なのだろう。
 参道の途中にも舟形を思わせる大石が置かれているが、囲いも注連縄もない。

 本殿は文化十五年(1818)に竣工、流造。


拝殿


本殿


お祭り

  5月 1月  例祭(一宮祭)



『平成祭礼データ』倭文神社
伯耆一ノ宮 倭文神社の栞



鎮座地 鳥取県東伯郡東郷町宮内七五四番地
JR山陰線松崎駅下車 バス藤津入口下社 松崎駅からタクシーあり。約4キロ

御祭神 健葉槌命(主神)・下照姫命・事代主命・建御名方命・少彦名命・天稚彦命 ・味耜高高彦命

由緒 安産の神として崇敬されている当神社は、伯耆国の一ノ宮である。創立年代は不詳であるが、社伝によれば。大国主命の娘下照姫命が出雲から海路御着船従者と共に現社地に住居を定め、当地で死去される迄、安産の指導に努力され、農業開発、医薬の普及に尽くされたという。
創立当時当地方の主産業が倭文(しづおり)の織物であったので、倭文部の祖神健葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、他の五柱の神は大国主命のお子神か関係の深い神々である。
当神社に対する安産信仰は古来からのもので、数々の霊験が伝えられているが、倭文の織物は姿を消したので、安産の信仰が残り、当神社は安産の神として、本県は勿論広く県外にも御神徳が及んでいて、安産祈願の参詣者で社頭は賑わっている。
平安時代延喜式神名帳(西暦九二二)には、当神社の名が見え、神階は、度々昇進し、承和四年(西暦八三七)従五位下、斎衡三年(西暦八五六)従位上、天慶三年(西暦九四〇)には、従三位から正三位に進んでいる。
平安時代当神社にも多数の神宮寺が建立されたが戦国時代武将に社領を没収され、神社のみを残して各寺院は四散した。

当神社には勅額と称する古額が現存し、正一位伯州一ノ宮大明神と刻されている。

往古社殿広大で千石の朱印地を有したと     ・   ・
伝えられるが、戦国時代荒廃。天文二十三年(西暦一五五四)尼子春久社殿を造営神領七十石寄進。後神領中絶したが、元亀元年(西暦一五七〇)羽衣石城主南条宗勝がこれを復旧した。
 徳川時代は池田藩主祈願所となり祭日には藩老和田氏から境内警備のため、鉄砲六人を付されている。      
 明治以降県社であったが昭和十四年に国幣小社となった。

 安 産 岩
 神社境内に至るまでの参道横にある。昔常に難産に苦しむ婦人が願をかけ、満願の日夢に下照姫 命が姿を現され、参詣の帰途安産岩で簡単に出産し爾来安産岩と称するようになったと云う。  

 例祭日は五月一日

国  宝
 伯耆一ノ宮経塚から大正四年に発掘されたもので、東京国立博物館に納められている。

 ◎銅経筒(平安時代) 銘文中康和五年十月三日山陰道伯耆国河村東郷御座一宮大明神の文字がある。
 ◎金銅観音菩薩立像(白鳳時代)
 ◎その他仏像 銅鏡、銅銭。るり玉。桧扇残片。短刀刀子残欠。漆器残片。などがある。
以上

参考 『日本の神々』、『式内社調査報告』、『平成データCD』

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