道明寺天満宮
藤井寺市道明寺1-16-40


鳥居と拝殿


祭神と摂社
道明寺天満宮 菅原道眞 配 天穗日命、覺壽尼公
摂社 元宮土師社 天夷鳥命 配 大國主命、野見宿禰
稲荷神社 和琴大明神
生田大明神 大田大明神、孫千代大明神
西宮神社 天照大神、八幡大神、春日大明神
筆塚 蒙恬大人命
大成殿 大成至聖文宣王命
白太夫社 白太夫
霊符社 天御中主命
白光社 白光大神
土師八嶋社 土師八嶋命

式外社、すなわち、延喜式神名帳には記載されていないが、明らかにその頃に存在していた古社である。
 出雲の人野見宿彌が、従来の殉死を廃し、埴輪の使用を献策した。その功により土師の姓を賜り、当地一帯を所領としたと伝えられている。土師氏の氏神として祖神を祀ったのが創始であろう。六世紀末には壮大な氏寺の土師寺も創建されている。 

元宮土師社 写真提供はのりちゃん

 当地は四世紀末から九世紀初期まで河内の土師氏の本拠地であった。古市古墳群の築造した技術には土師氏のものも入っているのだろう。
 土師氏は蘇我氏と近く、大化改新の際政界から離れた。壬申の乱では大海人皇子方として活躍、政界に復帰した。いわゆる保守派である。
  桓武天皇の御代、本拠を大和の菅原に移し、菅原への改姓も認可された。河内には土師寺と土師神社(天夷鳥神社)を残し、大半は移住した。
 陽成天皇の御代、子孫の菅原道真が太宰府に流される際、この地を訪れ、叔母の覚寿尼と別れを惜しみ、自分を木造に刻んだと伝えられている。
 903年59歳で道真は死去、その後道真公の怨霊を鎮めるべく、道真を主祭神とする社殿を当地に建てた。 以前からの天夷鳥神社は摂社となり、祭神は野見宿彌、天夷鳥命、大国主命となった。神社殿には遠祖の天穂日命と覚寿尼が死後合祀された。
 南北朝から戦国期に兵火にかかり、再建を繰り返した。江戸初期道明寺が南側に建てられたが、明治初年の神仏分離令により、寺は西となりに移転し、道明尼寺となった。神社境内に古代の運輸船「修羅」の復元されたものが展示されている。

本殿と梅林



修羅 上は石塊


祭礼 1月25日 初天神
    2月25日 例祭
    9月 1日 菜種御供大祭、八大朔祭

交通 道明寺駅西へ200mで神社

由緒 平成祭礼データから

 垂仁天皇三十二年(西紀三)、相撲の祖といわれる野見宿祢が、「はにわ」を造って 殉死に代えた功績で、「土師」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わって以来、遠 祖の天穂日命をお祀りしたのが土師神社のはじまりである。その後、用明天皇の時に 仏教の伝来とともに土師寺が建てられた。

道真公は、幼少の頃から和魂漢才の人といわれ、四十歳の四月より七月まで当地に御 滞在され、夏水井(げすいのいど)の水を汲み青白磁円硯(国宝)により、五部の大 乗経を写された。その経塚(現西の宮)から、胚芽が経巻の形をした木樓樹(もくげ んじ、府天然記念物)が生え、謡曲「道明寺」にも有名になった。また、宇多上皇大 和河内御巡幸(八九八)の際にも、当地にお供され、「雨中錦を着て故郷に帰る」と 、漢詩に詠まれたことからも、公はこの地を第二の故郷として慕われていた。やがて 五十七歳にして、従二位右大臣に進まれたが、無実の罪で九州太宰府権帥として淀川 を下られる船の中でも「世につれて浪速入江もにごるなり道明らけき寺ぞこひしき」 と詠まれるとともに、覚寿尼公との別れを惜しまれ、八葉鏡(現勅封)に御姿を映さ れて、犀角柄刀子(国宝)で自像を荒木に刻まれ(現御神像)「鳴けばこそ別れも憂 けれ鶏の音のなからん里の暁もがな」との御歌を残して西海に赴かれたのである。 任地に到着された翌年一月七日、悪魔祓の神事をされている時に、寒中だというのに 無数の蜂が襲来して参拝者を悩ませたが、一群の「鷽鳥」(うそどり)が飛来して、 蜂を喰い尽くした人々を救ったことから、当宮では毎年一月二十五日の初天神には、 身替災難除け、学業成就として「うそ替え祭り」を行ない、神職手彫りの「うそ鳥」 を授与している。

公は、無実の罪であってもひたすら謹慎のまことを尽くされ、醍醐天皇延喜三年(九 〇三)二月二十五日に五十九歳で亡くなられたが、毎年この日を公の御命日として「 例大祭(梅花祭)」を行ない、また新暦に合せて三月二十五日には、「菜種御供(な たねごくう)大祭」を斎行、河内の「春ごと」として今に受け継がれている。 公が亡くなられて四十五年、村上天皇天暦元年(九四七)、残し置かれた木像を北丘 におまつりし、土師寺を道明寺と改称、花園天皇延慶三年(一三一〇)、西淋寺の僧
鑁阿(ばんあ)に神託があり、八曜鏡に勅宝を賜った。 正親町天皇元亀三年(一五七二)、当国高屋城の兵乱に社殿等すべて焼失したが、幸 い御神像と宝物等は難を免れ、天正三年(一五七五)には織田信長より、天正十一年 と文禄三年には豊臣秀吉より、さらに徳川幕府よりも代々の寄進があり、享保年中、 霊元天皇、中御門天皇より女房奉書を賜ってから、明治初年まで毎年初穂料が下賜さ れてきた。

寛永十年(一六三三)、石川の氾濫により坊舎等は境内神社に移ったが、明治五年、 神仏分界により五坊の中・二之室が神職家になった。
明治十年二月、明治天皇大和行幸の行在所に、同十四年十一月、英国ジョージ五世皇 孫当時の府下巡遊の宿舎にもあてられた。同三十五年、菅公一千年祭に宝物館(国宝 六点、重文二点)、孔子廟を新築、昭和二十七年、宗教法人「道明寺天満宮」となり 、同四十三年、明治維新百年にあたり、総合結婚式場「天寿殿」を新築、文字通り人 生儀礼の殿堂として整備されるとともに、御神霊を御慰めするため、本殿裏丘をはじ め全境内地に九十種九百本の紅白梅を植樹(大阪府みどり百選に選ばれている)。学 問の神様としての御神徳を仰ぐ参詣者で、春夏秋冬の別なく賑っている。
以上


寺頭の道明寺略延喜から

   当寺は菅原道真公が信心こめて手ずから刻まれた国宝十一面観音菩薩像を御本尊とする古義真言宗の尼寺です。  この地に尼僧の寺院を建立されるに当り、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進し、東西三百二十米、南北六百四十米の広大な境内に五重の塔、金堂等をはじめとする七堂伽藍の完成を見ました。
 これが当寺の前身土師寺で、その後菅原道真公に依って道明寺と呼び改められる処となり、数多くの仏像、教典美術工芸品、薬品等を宝蔵しておりました。土師氏の後裔菅原道真公が大宰府に下向されたるとき、叔母の覚寿尼を訪れて当寺に立寄られ一首を残されています。
 啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の鳴からむ里の暁もかな

公式道明寺天満宮
次へ 国府八幡神社

地図と散歩コース
藤井寺市へようこそ
inserted by FC2 system