神奈備別荘 神奈備写真付き参詣掲示板 ログ

神奈備別荘

平成十四年十二月
 投稿者の敬称は略します


題名:七枝刀:投稿日時: 12/31 投稿者: 神奈備

泊瀬女さん、2002年、ありがとうございました。2003年もまた宜しくお願いいたします。
家の玄関に常時注連縄としますと、通常神主家がそのようにしていますね。
小生の住んでいる靱地域の神社は御霊神社と云います。怨霊ではないようですが、ゴリョウと呼びます。神主家は園さん、園神韓神の園です。大晦日は1000人分のうどんを炊き出しまして、大にぎわいですが、小生は寝正月。

 今年は石上神宮の七枝刀と禁足地と云う大成果の年でした。香具さんのおかげです。
この七枝刀は貰ったときは字は彫っていなかった。後から彫ったものとの説を最近聞きました。
焼きを戻せば字を入れることは可能でしょうが、その理由が見あたらないのですが、強いて云えば下手な字のように見えることでしょうか。
実は卑弥呼が持っていたものとか。
眉唾話でした。
よいお年をお迎え下さい。


題名:お正月の準備:投稿日時: 12/28 投稿者: 泊瀬女

 

お正月を迎えるための注連飾りは12月26日から28日に門や玄関に飾ります。
「二重の苦」に通じるといって29日に飾り付けることは避けます。
大晦日に飾り付けるのは、一夜飾りといってやはり避けます。
普通、1月7日とか11日、または15日にお正月の飾りを取り外します。

伊勢志摩地方では、注連飾りは1年中玄関の軒先に飾るのだそうです。
年末に新しい注連飾りに取り替えます。
私の家では3年ほど前から、伊勢の風習をまねて1年中玄関に注連飾りを取りつけたままにしています。注連飾りは伊勢まで行って買ってくることもありますし、行けない時には伊勢の神具屋さんから送ってもらいます。
伊勢の注連飾りには「蘇民将来子孫家之門」「笑門」とかの木札が付いています。

1年中、玄関に注連飾りを飾っていると、我が家を訪れる人はたいてい不思議がりますね。
今年も今日(28日)、新しい注連飾りに付け替えました。
右側は、自分の部屋に飾っているミニ注連飾り。


題名:巨木(ガジュマル):投稿日時: 12/23 投稿者:サングリーン

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題名:巨木(ガジュマル):投稿日時: 12/23 投稿者:サングリーン

カンボジアのアンコールワット遺跡群の寺院の一つタ・プロム寺院での巨木(ガジュマル)が遺跡を覆っている写真です。推定樹齢300年とのことです。
ただただ圧倒されるばかりでした。大自然の威力を感じました。
日本で見られる木の股の神さまとはかなり迫力が違いますね。


題名:相模の御霊神社・3:投稿日時: 12/21 投稿者:泊瀬女

横浜市戸塚区汲沢町の五霊神社です。
相模の御霊神社で最初に紹介した村岡御霊神社から元亀2年(1571年)分霊を勧請したとされます。
ご祭神は村岡良文・村岡公致・村岡致成・鎌倉景成・鎌倉景政(権五郎)。
村岡氏一族、五柱の当主を祀ったので五霊神社。
御霊神社も五霊神社も根幹は同じではないかと思います。ただ、霊の意味が違ってきているようです。

これは推測ですが、相模の御霊神社は最初に御霊である崇道天皇(早良親王)を祀ったものが、桓武平氏の子孫、後に鎌倉党と云われる関東武士団の先祖を祀る神社に変化していったのではないかと考えています。
桓武天皇の曾孫高望王の子村岡良文の子孫は村岡氏・鎌倉氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏さらに三浦氏・秩父氏など鎌倉幕府成立時に活躍することとなります。
ところが、相模の平氏の家系はいろいろな説が錯綜してよく分からない。
スーパーヒーローの鎌倉権五郎の父親の名前すら諸説あるようです。


題名:相模の御霊神社・2 おまけ:投稿日時: 12/21 投稿者:泊瀬女

相模の御霊神社・2でご紹介した鎌倉権五郎神社の丸石です。
向って左の石が権五郎景政がお手玉にしたという「手玉石」28貫(105キロ)、右が袂に入れていたという「袂石」16貫(60キロ)。
こんな石を手玉に取るのは良いとして、袂に入れて歩いたら袂が千切れちゃうじゃないのサ、ネェ〜
正面からの写真を撮りたくて、こっそり柵を動かしてササッと写真に収めました。

倉権五郎神社には以前、何度か来たことがありましたが、あちこちの神社を巡ったあげくに訪れてみると全く印象が違って見えました。 どう違って見えるか言葉では説明できないのですけれど・・・


題名:相模の御霊神社・2:投稿日時: 12/10 投稿者:泊瀬女

鎌倉市坂ノ下の御霊神社です。別名・鎌倉権五郎神社。
相模の御霊神社の中では、割合知られている神社ではないでしょうか。
観光客に人気の江ノ島電鉄が神社の鳥居をかすめるように走っています。
鎌倉権五郎景政(景正)は鎌倉幕府が開かれる以前の相模のスーパーヒーローです。
歌舞伎十八番「暫」の主人公ともなり、剛勇無双の東国武者として語り継がれてきました。
境内には権五郎が手玉にとり、袂に入れたという「手玉石」「袂石」と名付けられた丸石があります。海の石のようでした。
端正な佇まいの神社です。
鎌倉権五郎はむくつけき荒武者ではなく、端正な美男だったのではないか・・・などと空想しています。


題名:相模の御霊神社・2へのコメント投稿 名前:神奈備 日時:12/12

泊瀬女さん こんにちは。美しい神社の写真、ありがとうございます。

群馬県前橋市元総社町鎮座の御霊神社(ごれいじんじゃ)(みたまじんじゃ)の由緒から。

桓武帝第五の皇子葛原親王より八世の後胤を村岡小五郎忠道と云い、相州に住し鎮守府将軍鎌倉権守とす。五男を景政と云い、前九年後三年の奥州の役には忠道副将格にて数々の戦功立てたり。忠道、寛治三年、七十余才にて陣中に病死す。景政、忠道の軍を引率して先頭にたち戦う。其の後、鳥海と矢記ある矢、景政引手の目にささる。景政、其の矢を抜き取り、数日後、其の矢にて鳥海を討取れり。敵味方共に其の勇敢賞せざる者なしと。奥州平定して朝廷は忠道に御霊の神号を賜る。

片目、矢、鳥海、平安時代はまだまだ古代だった雰囲気ですね。

北は山形県南陽市宮内字坂町の熊野神社摂社景政神社
また福島県にも多く鎮座していますね。前九年後三年の舞台ということでしょうか。
南は鹿児島県日置郡市来町大里 御霊神社まで、広い範囲で祀られています。


題名:相模の御霊神社・2へのコメント投稿 名前:玄松子 日時:12/12

片目を射られた景政が目の傷を癒すために霊泉に浴した「片目清水」の伝承が奥羽地方に多いとか。
柳田國男は「目一つ五郎」と。五郎=御霊。
浅草公園に銅像が建っていたが、戦時中に供出されてしまったようです。


題名:土鈴:投稿日時: 12/05 投稿者:神奈備

ある方から下記の質問を受けてしまいました。
各位のお知恵拝借、よろしくお願いいたします。

−−−−−−御質問−−−−−−
私は土鈴を収集している九州の者です。
写真の戦前作の長い(30センチ)土鈴が何であるのか、疑問に思っておりましたところ、手持ちの蜂田神社(堺)の占い鈴(写真2番目)の中の一つと同型だと判明しました。
この占い鈴の名称の説明書(写真3番目)には、「瓊矛」と記載されています。
記紀の国生み神話の瓊矛かと想像しましたが、そのようなものが形になったものがどこかに存在するのでしょうか?
ちなみに違うかもしれませんが、御津宮の戦前の授与鈴(写真4番目)も似たような形です。

また、これは法具の宝珠鐃だと言う方もあり、悩んでいます。
瓊矛と宝珠鐃には、何らかの関係がございますか?
どうかお教え頂きたく、お願い申し上げます。

これについては我が拙きHPの掲示板、「あご御殿」に出ております。
http://www.agokun.com
−−−−−−−−以上−−−−−−−−−


題名:イガミの御霊神社:投稿日時: 12/01 投稿者:神奈備

泊瀬女さん こんばんは。師走、お忙しい中ありがとうございます。
神社巡りの旅に出られないほどお忙しいとか、結構なことと存じます。

相模の御霊神社、ありがとうございます。
大和に井上内親王を祭った同名者が多く鎮座しています。サガミ、イガミ、関係無いね。
偶然、今日御霊神社でもある宮前霹靂神社へ参拝いたしました。ゴルフ場の中になっていました。
大和の御霊神社なら
http://www1.kcn.ne.jp/~suseri/goryo-index.html
を参照下さい。


題名:相模の御霊神社:投稿日時: 12/01 投稿者:泊瀬女

多忙のため神社巡りの旅に出られません。
地元の神社巡りは老後の楽しみにと思っていたのですが・・・相模の神社をぽちぽち廻っています。
相模の国には御霊神社が点在しています。面白そうなので、御霊神社を中心に歩き回ってみるつもりです。

まずは、藤沢市宮前に鎮座する村岡御霊神社。
桓武平氏の祖・高望王の子、村岡五郎良文が京都御霊神社から勧請したのが、相模・御霊神社の始まりと云われています。
ご祭神は崇道天皇。後に鎌倉権五郎景政、葛原親王、高見王、高望王が加えられたとか。
小高い岡に上にある神社の境内は、銀杏の落ち葉が黄色い絨毯を敷きつめたようでした。
風の音、木の葉の落ちる音・・・しばし至福の時を楽しみました。
御霊神社はゴレイともゴリョウとも呼ばれ、五霊神社とも変化していったらしい気配。

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