神奈備別荘 神奈備写真付き参詣掲示板 ログ

神奈備別荘

平成十八年 十月
 投稿者の敬称は略します

--------------------------------------------------------------------------------
Re:[西ノ辻遺跡の導水施設] 投稿者:いこまかんなび 投稿日:10月31日(火)08時12分53秒   引用
姫さん、はじめまして。
導水施設遺構など、いろいろと補足説明有り難うございました。そのようですね。
>西ノ辻遺跡の導水施設の復元の写真を紹介させていただきます。 復元模型の写真ですが、覆屋(祭祀建物)の屋根部分をはずした写真の方で解り易いもののプールで行われた洗いものの干場みたいですね。私としては、心合寺山古墳の導水施設形埴輪のような、神殿形の建物にしてほしいと思ったりしています。
[参考写真]鬼塚遺跡の石組祭祀遺構--東大阪市南荘町
西ノ辻の南方にある鬼塚遺跡で、私が昭和63年に行った11次調査で出土した遺構の写真です。これは導水施設でなく、谷筋の水〜山の神を対象にした祭祀遺構と思われ、内部に馬骨・桃の核・土師器・須恵器が出土し、5世紀末ごろのものです。(穴は工場の基礎があった部分です)

--------------------------------------------------------------------------------
Re: どうだい。 投稿者:MADOKA 投稿日:10月31日(火)02時16分21秒   引用
> 南国の磐座はこんなもんだ。参ったか、

へっへーーーー 恐れ入りました!
m(==)m

これは立派な マスラオ ですなあ!!!!!

--------------------------------------------------------------------------------
どうだい。 投稿者:nick 投稿日:10月30日(月)20時40分53秒   引用
今日は父と霧島の権現信仰の旅でした。
タクシーで巡ってさっき帰宅、疲れ旅〜。。
南国の磐座はこんなもんだ。参ったか、

--------------------------------------------------------------------------------
西ノ辻遺跡の導水施設 投稿者:姫 投稿日:10月30日(月)15時24分11秒   引用
いこまかんなびさま、

西ノ辻遺跡の導水施設の詳しいご説明を興味深く拝読しました。
水に関わる祀りについては、いろいろと想像を掻き立てられて面白いですね。

> 西ノ辻遺跡は、古くから生駒山西ろく(東大阪市西石切町・東山町)にある弥生時代中頃の遺跡としてよく知られていました。
> 私としては、この導水施設遺構というのは、聖水精製による水のカミ・治水に関わる祭祀というより、天皇の大嘗祭のように、地域の首長・王が、当時の大王の承認と保証を得て、地域の王となるための聖なる儀式の場ではなかったのだろうかと思ったりしています。
古墳に現れる導水施設の埴輪は大抵がくびれ部分か、造り出しの外側に置かれていて、古墳の葺き石とは異なる石が、敷かれているようですね。
実際の導水施設の場でも丁寧に石が敷き詰められていたようですから、導水施設が残っていなくても、美しい石敷き遺構がありその場所に滑石製模造品が集中している場合などは、そこが導水施設であった可能性が高いということでした。

三重県宝塚古墳からは、導水施設の埴輪と同時に、湧水を現す形象埴輪が出土しているそうです。 
 と、いうことは導水と湧水には別々の祭祀方法があったということですね。 
 群馬県の三つツ寺遺跡では、大型建物を挟んで導水施設の石敷き遺構と、井戸が見つかったそうです。 
 池上曽根遺跡では、復元されている大型建物の正面にも、かなり大型の井戸がありました。
もしかしたら、建物の反対側には導水施設があって、井戸と導水施設それぞれで、別の祭祀がなされていたのではないかと、想像したりしています。
世田谷区野毛大塚古墳の組合せ式箱形石棺の中から、滑石製の木樋形がみつかったそうです。 
 この古墳は、古墳時代中期の後半のものと見られていまして、古墳時代初期にはヤマトと野毛は緊密な関係であったことが知られています。
古墳時代の後期にはつながりは薄れて行くそうですけれども、中期後半の段階で、今まで古墳の外周あたりに置かれていた導水施設の埴輪が棺の内部に置かれるようになったと言うことが、面白いことですね。 そしてまた面白いことに、石棺の中に導水施設が現れた同時期に、群馬県三ツ寺遺跡に於いては、実際に導水施設が造られ、そこで水の祭祀が行われていたということです。

古墳時代後期には、導水施設、また木樋形土製品は見られなくなるようですので、このような祭祀の形態は無くなったのか、または他の形に変えて継承された、という可能性もあります。

纏向遺跡の導水施設からは木片の燃えさしが大量に見つかっています。  他の遺跡の木製品にも焼け焦げが見られることから、水の祭祀には火が伴い、従って祭祀は夜に行われたとも考えられるそうです。

火と水の祭祀には、厳かな雰囲気を感じますね。

写真掲示板に、西ノ辻遺跡の導水施設の復元の写真を紹介させていただきます。  覆屋の中の木樋は、南郷遺跡のものに、大変良く似た形をしています。

--------------------------------------------------------------------------------
鶏籠山山頂 絶景! 投稿者:MADOKA 投稿日:10月29日(日)21時19分20秒   引用
うがねっと遠足
私の神奈備さんインカ顔説に一同ウケウケ! 目的地のギヤラリーで待ち受けていたのは、インカ顔のモチーフの現代美術!皆、神奈備さんきてるじゃないか!神奈備さんが一杯!御参加されてたようですね!

鶏籠山山頂(野見宿禰墓からみた眺望。)ここは 山に囲まれていながら川で室津の海に近く 海の幸山の幸に恵まれたところ 古代人には最高なところですよ!

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 龍野神社の力士像 投稿者:神奈備 投稿日:10月29日(日)12時07分44秒   引用
> 鶏籠山山頂 絶景!
龍野に行かれたのですね。楽しそうでよかったですね。

--------------------------------------------------------------------------------
龍野神社の力士像 投稿者:MADOKA 投稿日:10月29日(日)01時12分26秒   引用
龍野神社内 力士像



野見宿禰の墓(神社)
紋は出雲大社 千家の紋
鶏籠山山頂 絶景!

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 西都原探訪 投稿者:nick 投稿日:10月28日(土)09時42分5秒   引用
> > 三宅神社
> こんな所にも秦氏の影?ということでしょうか。
この三宅神社は玄松子さんも既に参拝されています。
ここは昔の「屯倉」の地とか聞いていますが仔細は。
西都原古墳祭りのセレモニーの大半はここの伝統芸能を 継承しているとのことでした。
また、都万(萬)神社の宮司さんはここの在です。
今度ゆっくりお話を伺おうと考えています。
木花神社は木花咲夜姫、鹿野田神社は山幸彦で鹿児島神宮との繋がりが。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 西都原探訪 投稿者:神奈備 投稿日:10月27日(金)14時22分2秒   引用
nickさん、こんにちは。
> 25日父と出かけました。
親孝行、頭が下がります。
> 三宅神社
こんな所にも秦氏の影?ということでしょうか。

--------------------------------------------------------------------------------
西都原探訪 投稿者:nick 投稿日:10月27日(金)13時44分43秒   引用
25日父と出かけました。
この春は日南海岸線を、この日は陸地を。
西都原はコスモスが満開でした。
来月は古墳祭りで4万の人出とか。

木花神社と三宅神社、
それに鹿児島神宮と縁のある「潮神社」

--------------------------------------------------------------------------------
火の見やぐら 投稿者:神奈備 投稿日:10月26日(木)07時14分4秒   引用
> 奥谷さんは存じ上げませんが、小山さんは一度お目にかかったことがあります。
> 小山さんは自然農法を推進しておられる方だと思います。  イワクラにも大変詳しい方ですね。

山添村イワクラ文化研究会の会長が奥谷さんで村会議員さんです。おだやかな人格者です。
小山さんは情熱家ですね。一所懸命の姿には頭が下がります。


> 神奈備さんに教えていただいて、私も菅生の三つの巨石が見たくなりました。

とりあえずアップ。
www.kamnavi.jp/as/atago.htm

--------------------------------------------------------------------------------
菅生の里 投稿者:姫 投稿日:10月24日(火)21時52分31秒   引用
神奈備さま、

> 今日は四人で山添村に行ってきました。奥谷会長や小山さん等の村の方や同じく見学に来られた方々と合流して各地を案内して頂きました。
> 三つの巨石が突き出している、山添村菅生の十二社神社の道の反対側にやはり巨石から三つの石が突き出している岩を御神体にしている愛宕神社がありました。

山添に来られたのですか。
奥谷さんは存じ上げませんが、小山さんは一度お目にかかったことがあります。
小山さんは自然農法を推進しておられる方だと思います。  イワクラにも大変詳しい方ですね。
菅生は一度も行ったことがありませんけれども、山添村室津の奥中繁氏が自費出版された本がありまして、その本は菅生の里に興った中坊氏という、地方の豪族について書かれていました。
特に「中坊英裕」という戦国時代を生きた人物は、筒井氏の家老にまでなった人のようです。
菅生の里は古くから東大寺の荘園だったので、その関係からか、山添村は筒井氏に仕えたようです。
山添村と都祁村は隣接していますのに、戦国時代も中坊氏に加勢して戦いに加わったような話は伝わっていません。 これは、山添村が東大寺の荘園であり、山添に接する都祁村の北部は、興福寺の荘園であったことが、まったく別の行動を取っていた、大きな原因なのかもしれませんね。

神奈備さんに教えていただいて、私も菅生の三つの巨石が見たくなりました。
また訪れてみようと思います。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 天乃石立神社 投稿者:神奈備 投稿日:10月23日(月)21時44分51秒   引用
> 由緒によりますと、田力雄命が高天原で天の岩戸を開けたとき、勢い余って、扉石がここまで飛んできたと言うことです!

面白いですね。
信州の戸隠神社にも同じ伝承があるようです。

今日は四人で山添村に行ってきました。奥谷会長や小山さん等の村の方や同じく見学に来られた方々と合流して各地を案内して頂きました。

三つの巨石が突き出している、山添村菅生の十二社神社の道の反対側にやはり巨石から三つの石が突き出している岩を御神体にしている愛宕神社がありました。

--------------------------------------------------------------------------------
天乃石立神社 投稿者:姫 投稿日:10月22日(日)22時57分24秒   引用
昨日は、大和高原の公民館五つが主催している講座で、柳生の正木坂の道場へ、柳生新陰流剣術の演武を見学に行きました。
道場の東、約700m位のところに、一刀石と、天乃石立神社があると標識に出ていましたので、神社にお参りしようと立ち寄りました。
一刀石の方は、石舟斉が巨岩を一刀の下に打ち割った、という伝承がありますので知っていましたが、神社については聞いたこともなかったので、一刀石にあやかって造られた神社ではあるまいかなどと考えていましたが、とんでもない、延喜式に小社として式内社に数えられている由緒ある神社でした。
ご神体は三つの巨石です。
一つは大きな丸いままの巨岩で、後の二つはどうも加工されているのではないかと思われる形をしています。
 その内の一つは平たい長方形の巨石で、少し傾いで土に突き刺さっていて、てっぺんの部分には人工のものと思われる切込みが見られました。 高さが6m、幅が7,3m、厚みは1,2mあるそうです。
由緒によりますと、田力雄命が高天原で天の岩戸を開けたとき、勢い余って、扉石がここまで飛んできたと言うことです!
狭い谷のため、石が大きすぎてその全景を上手く撮れませんでしたが、ご紹介します。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 都介野岳 投稿者:タイシ 投稿日:10月19日(木)23時49分50秒   引用
姫さま 情報ありがとうございます。

嶽登りや雨乞いについては、二上山や富田林のかんぽの宿のある「嶽山」の龍泉寺にも空海の雨乞いの伝説が残っていますね。
都祁村の吐山の「太鼓踊り」も雨乞い祈願や祈願成就がルーツかも知れませんね。

> 吐山の下部神社のお写真も載せていただきましたね。
> ありがとうございました。

下部神社の旧鎮座地を参拝されましたら是非裏山の探索もお忘れなく(笑)
写真は、裏山の巨石群の一部です。
山頂からキャンプ場方面へ下った所にも崩れていますが巨石があります。

それから、南之庄では、1月8日国津神社で初祈祷を行い、藁で蛇体を作り、村の西外れの小字大般若の山の神の祠まで運ぶ祭事が行われていたようです。

国津神社の近くの各大字でも明治になって合祀されるまで、国津神社があったようですね。
大字、来迎寺 国津神社 明治40年 都祁水分神社に合祀
大字、友田  国津神社 明治40年 都祁水分神社に合祀
大字、相河  国津神社 明治41年 都祁水分神社に合祀

おそらくこれらの国津神社は、南之庄の国津神社から分祀された神社だとおもいます。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 柏峰 投稿者:姫 投稿日:10月19日(木)22時38分56秒   引用
神奈備さま、
> 『大和の原像』の測量では、方状になっているようです。

なるほど、確かにこのお写真のようでした!
柏峰の頂上には、ぱらぱらと不規則に石が散らばっていましたので形がよくわかりませんでした。
お写真をありがとうございました。

>  河内国高安郡に天照大神高座神社が鎮座、ここの由緒に、祭神は伊勢津彦命で、伊賀の安志の社に坐す神で、昔、石を持って城を造りここに住んだ。阿部志彦神が来襲したが勝てずに還り去った。とあります。
> 阿部や石が出てきます。呼応しているようにも感じます。

やはり、伊賀と高安は何らかの繋がりがあったのですね。
同じ一族が住んでいたのでしょうか。
実は、三重県の青山と、山添村にも何やら強い関係があったように思っています。
神野山のイワクラの石渓は青山の天狗が投げた石で出来たものだと言うことになっていますし、桝型に作られている、岩屋寺の寺宝は、青山の滝仙寺に移されていることが、最近、判明しました。
今ではさほど交流もない村と村に、かつては何らかの強い連携があったようで、神奈備さんが教えてくださった伊賀と高安のこともあり、興味が湧きます。

添付の写真は柏峰から見た都介野岳です。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 都介野岳 投稿者:姫 投稿日:10月19日(木)21時41分56秒   引用
タイシさま、
> 都介野岳の山頂にも竜王社があるそうですね。
> 村人の話によると、昔は、山頂で太鼓を叩いて雨乞いをしたそうです。

都介野岳は、単に「ダケ」と呼ばれていまして、「ダケ」と言うのは雨を恵んでくれる山の 総称です。
ですから、都介野岳も「ダケ」なら、「貝那木山」も「ダケ」というわけなのですよ。

そういえば、雨の降らないときには、神野山にも雨乞いのため太鼓を叩いて登り、焚き火をしたという話を聞きました。

天理市福住町には、「塔の森」という遺跡があります。
ここに井戸があって、常時蓋をしてあるそうです。
蓋を取れば必ず雨が降ると言う言い伝えがありますので、極く最近のこと、ある人が試してやろうと、こっそり行って蓋を取ったそうです。
行った時は晴れていたのに、途中まで帰って来ると一天俄かに掻き曇り、大雨になったのだそうですよ。
霊験あらたかな井戸があるのですね!


> 写真は、三陵墓西古墳からの都介野岳です。

三陵墓の背後に、綺麗に写されていますね!
多分南東の方角でしょうか!?   あまり自信はありませんけど・・・・
吐山の下部神社のお写真も載せていただきましたね。
ありがとうございました。
それに菅生のイワクラのお写真もご紹介いただきました。

また見学に出かけることにします。

添付の写真は貝那木山から西の山々を撮ったものです。
右端が都介野岳、左へ縦割山、貝ヶ平山、そして映っていませんが、鳥見山へと続きます。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 貝那木山 投稿者:神奈備 投稿日:10月19日(木)10時36分22秒   引用
> 柏峰
> またイワクラも円状になっているかどうか、よくわかりませんでした。

『大和の原像』の測量では、方状になっているようです。


> 阿閉から河内の高安へご神体を運ぶ途中、南之庄で動かなくなったという伝承ですが

 河内国高安郡に天照大神高座神社が鎮座、ここの由緒に、祭神は伊勢津彦命で、伊賀の安志の社に坐す神で、昔、石を持って城を造りここに住んだ。阿部志彦神が来襲したが勝てずに還り去った。とあります。

阿部や石が出てきます。呼応しているようにも感じます。


> 間違えて城山(貝那木山)へ登ってしまいました。
> 山頂近くには井戸が二つもあって、滾々と美しい水があふれ出しています。
> 白石の人たちのこの山に寄せる思いはたいへんなもので、各家々から交替で山に出て、絶えず登山道を整備し、また頂上まで街燈を引いてあります。


大発見は間違いからと言う場合がままあります。
タイシさんも書かれておられますが、山頂で太鼓を叩いたり、たき火をしたりしたそうです。おそらくは雷の類感儀礼だったのでしょう。
大和には「岳まいり」と言う祈雨の行事のようですね。それぞれの集落が自分たちの水を恵む山に登るそうですが、今でもその風習が残っているようですね。

--------------------------------------------------------------------------------
都介野岳 投稿者:タイシ 投稿日:10月19日(木)00時13分44秒   引用
都介野岳の山頂にも竜王社があるそうですね。
村人の話によると、昔は、山頂で太鼓を叩いて雨乞いをしたそうです。
写真は、三陵墓西古墳からの都介野岳です。

--------------------------------------------------------------------------------
貝那木山 投稿者:姫 投稿日:10月18日(水)23時21分40秒   引用
神奈備さま、

> > また、阿閉から河内の高安へご神体を運ぶ途中、南之庄で動かなくなったという伝承ですが、地元ではどうも違う話が伝わっているようです。
> > その話とは、白石の6人の人たちが、南之庄からご神体を白石の国津神社へ運び、お祀りをしていたそうです。
> 神社で語られるのと地元での伝承の差、これは何でしょうか。不思議ですね。

白石の人たちが、南之庄の国津神社から石を移した背景には、水争いがあるのではないかと思います。
何時の時代にご神体が南之庄から白石に遷されたのか不明ですが、これが江戸時代だとすると、ちょっと頷ける理由があります。
この高原地帯は、岩盤のため、まったく水がありません。
南之庄は幕府直轄地で、白石は藤堂藩の領地でした。
川上に位置する南之庄は幕府の威光を頼んで、しばしば川の水を堰き止め、白石に流さなかったそうです。 
南之庄の神社のご神体を白石に遷せば、その関係で水を流してくれると思ったのかなとも思いますけど、どうなのでしょうね。

昨日は、ドジなことに、都介野岳へ登る心算が、間違えて城山(貝那木山)へ登ってしまいました。
遠くから見ると、まるで山の形が違いますのに、都介野岳は白石にあると思い込んでいましたので、間違えてしまいました。
ところが、この登山はムダではありませんでした。
貝那木山は多田氏が出城を築いた山ですが、築城の理由のひとつには水が豊富に湧き出すということだったと思います。
山頂近くには井戸が二つもあって、滾々と美しい水があふれ出しています。
水の乏しい白石では、貝那木山から流れ出た水を二つの大きな池に溜め、全ての田んぼをこの水で養っているのだそうです。
白石の人たちのこの山に寄せる思いはたいへんなもので、各家々から交替で山に出て、絶えず登山道を整備し、また頂上まで街燈を引いてあります。
これは、神社を建てるという形式よりも、明らかに水を恵んでくれる山に対する敬虔な感謝の気持の表われだと思いました。

頂上には多田氏の供養塔が建てられ、竜王が祀ってありましたが、この竜王は昔から祀られているものではなく、新興宗教の修験者が建てたもののようです。

添付の写真は、貝那木山から西側の麓を見下ろしたものです。  都祁直のものと言われている三陵墓古墳が見えます。

--------------------------------------------------------------------------------
式内 下部神社址 投稿者:タイシ 投稿日:10月18日(水)21時08分40秒   引用
都祁村大字吐山小字オリエの下部神社の旧社地です。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 柏峰 投稿者:神奈備 投稿日:10月18日(水)16時10分40秒   引用
> 良いお天気に誘われて、昨日一日掛けて南之庄の国津神社、柏峰へお参りしました。
凄い行動力ですね。

> また、阿閉から河内の高安へご神体を運ぶ途中、南之庄で動かなくなったという伝承ですが、地元ではどうも違う話が伝わっているようです。
> その話とは、白石の6人の人たちが、南之庄からご神体を白石の国津神社へ運び、お祀りをしていたそうです。
神社で語られるのと地元での伝承の差、これは何でしょうか。不思議ですね。

--------------------------------------------------------------------------------
柏峰 投稿者:姫 投稿日:10月18日(水)11時48分0秒   引用
神奈備さま、ZOUさま、
こんにちは。
良いお天気に誘われて、昨日一日掛けて南之庄の国津神社、柏峰へお参りしました。
南之庄の狛犬は、本殿脇の一対が非常に古くて有名らしいのですが、拝殿前の狛犬もまたユニークで、古い形を留めていると思われます。
ZOUさんの教えてくださったように、柏峰へは途中に建つ、歓楽寺を経て登りました。
山頂手前では、目の前に都介野岳が綺麗に姿を見せていますが、山頂からは木の茂みに隠れて見ることが出来ませんでした。
またイワクラも円状になっているかどうか、よくわかりませんでした。
ZOUさんが書いておられた蛇の祭祀ですが、国津神社では藁で蛇体を作り、大般若というところにある、山の神の祠までそれを運んでお祀りする慣わしがあったとのことです。
現在も行われているかどうか、南之庄で尋ねてみます。
それから、私が書きました、南之庄と白石の国津神社の婚姻のことですが、どうやらこれは私の勘違いで、婚姻関係は、白石の国津神社と雄賀神社の間のことだったようです。 
 どうもすみません。
また、阿閉から河内の高安へご神体を運ぶ途中、南之庄で動かなくなったという伝承ですが、地元ではどうも違う話が伝わっているようです。
その話とは、白石の6人の人たちが、南之庄からご神体を白石の国津神社へ運び、お祀りをしていたそうです。 
 南の庄へ返そうとしたところ、石がどうしても持ち上がらなくなったため、白石で祀ることになったとのことで、この時の6人の家系は今も白石にちゃんと残っているそうです。
確かに、昔から南之庄と白石の間で、ご神体を移動させたことについての紛争はありません。
石自らの意思で、白石に留まると決めたので、とった、とられたという争いにはならなかったのだと思います。
もしかしたら、白石の人が、もともとの石の言い伝えを知っていて、それをなぞって、石が動かなくなったと言ったのかもしれません。
若しくは実際に石が動かなくなったのでしょうか!!
それにしてもこのご神体の白い石は鎮座の場所を転々としているのですね。

添付させていただいた写真には、左に国津神社があり、右手に小高い柏峰が映っています。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 柏峰その2 投稿者:ZOU 投稿日:10月17日(火)19時50分17秒   引用
☆神奈備さん、どもお世話になってます。

> 最近、タイシさんのご案内で、山添村磐座を探訪しています。吉備津神社の磐座にも遭遇しました。

「日本の神々4」やイワクラサミット関係でもあれこれと紹介されていますね。
星座を投影したとなるとちょっと眉唾っぽい気がしますが、
ともあれ、あのあたり面白そうなところが多いみたいですね。
行きたい気分がちょっと盛り上がってるところです。

☆姫さんこんにちは。

南之庄の神様が女性だとか。興味深いお話です。二つの国津神社は関係が深いんですね。

>早速神社とイワクラにお参りしようと思います。

柏峰へは神社から直接登るのではなくて、
背後の住宅の方の小道から入られると分かりやすいかと思います。

奈良盆地では蛇綱祭りが相当数伝えられていて、この南之庄国津神社にも残っているとか。
複数のサイトで紹介されているのを見たことがあります。
http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fphoto.www.infoseek.co.jp%2FAlbumPage.asp%3Fkey%3D898676%26un%3D103101%26m%3D2%26s%3D0
蛇綱祭りに興味がある私としてはぜひここの蛇綱祭りも見てみたいです。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 額井山 投稿者:神奈備 投稿日:10月17日(火)07時19分7秒   引用
> 和泉にも葛城山があるのですね。
> きっと親戚なのでしょう。

大阪府岸和田市と和歌山県きのかわ市那賀町の境界の和泉山脈にあります。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 柏峰その2 投稿者:タイシ 投稿日:10月17日(火)00時16分25秒   引用
> 最近、タイシさんのご案内で、山添村磐座を探訪しています。吉備津神社の磐座にも遭遇しました。

いつもお世話になっています。
続、山添村磐座探訪楽しみにしています。

先日、山添村の菅生のバス停の前で変わった磐がありました。
磐の横には、祠があり地元の方が大切にされている印象を受けました。
いつものように、地元の方に伺うと、「あれは、愛宕さんと言って火の神様を祀っている」とのことでした。
写真では、解り難いですが、磐が重なり合って不思議な感じでした。

隣の鉄塔は、火災時村内に知らせる放送設備でしょうか。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 柏峰その1 投稿者:姫 投稿日:10月16日(月)22時35分20秒   引用
ZOUさん、 はじめまして。

> 青草掲示板“[2542] 都介野岳”神奈備さんのご発言から。
> 都祁南之庄の国津神社と背後の柏峰。

ご紹介いただきましてありがとうございます。
私はまだ南庄の国津神社には参ったことがありませんけれども、早速神社とイワクラにお参りしようと思います。

南之庄国津神社については、神奈備さんがHPで詳しく書いていらっしゃいますね。
いつもながら本当によく調べていらっしゃるので、驚いてしまいます。
伊賀国阿閉から河内国高安へご神体を運ぶ途中、南之庄で石が動かなくなったため、この地に祀るようになったそうで、このご神体が白い石でした。
現在この白い石は白石の国津神社に鎮座していますが、確か大分前に聞いた話では、南之庄の神様は女性で、白石の神社へ嫁入りしたのだ、とか言う内容だったと思います。
ちょっとうろ覚えですので、ちゃんと聞いてご紹介します。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 額井山 投稿者:姫 投稿日:10月16日(月)22時02分5秒   引用
くずさん、
ありがとうございます。
> 葛城山の南、金剛山から見た額井山。夏至の日の出です。(カシミール3D)

お写真を拝見しました。
夏至の日の出を、金剛山の頂上から眺めていた古代の人がいたかもしれませんね。
先日宇陀を訪れたとき、しみじみ感じたのは宇陀盆地の人たちが、美しい円錐形の額井山に大変な親愛の情を持っていると言うことでした。
皆さんは、額井山と言わずに、大和富士と呼んでいましたよ。

都祁の方面からは額井山は見ることが出来ません。
西峠へ下る、香酔峠からやっと視界に入ってきますが、それまでは都介野岳や城山に遮られてしまっています。

> 大和の葛城山から見た冬至の日の入りは和泉の葛城山へ。

これは大変面白い符合ですね。
和泉にも葛城山があるのですね。
きっと親戚なのでしょう。
先日和泉の池上曽根遺跡を訪れましたが、あの辺りにあるのでしょうか。  遺跡の周りは大都会で、建ち並ぶ建物群に邪魔されて、周囲の山はまったく見えませんでした。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: もうひとつ 投稿者:神奈備 投稿日:10月16日(月)08時18分36秒   引用
> 大和の葛城山から見た冬至の日の入りは和泉の葛城山へ。

これは面白い符合ですね。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 柏峰その2 投稿者:神奈備 投稿日:10月16日(月)08時15分10秒   引用
> 柏峰山頂の石は一抱えほどの大きさのものがほとんどです。
> 中央には「秋葉大権現」の碑。方形を成しているとのことですが、
>
> 都祁から山添にかけての岩座のある神社を巡ってみたい気がしています。

ZOUさん、流石に探索されていたのですね。

最近、タイシさんのご案内で、山添村磐座を探訪しています。吉備津神社の磐座にも遭遇しました。

--------------------------------------------------------------------------------
柏峰その2 投稿者:ZOU 投稿日:10月16日(月)00時20分21秒   引用
柏峰山頂の石は一抱えほどの大きさのものがほとんどです。
中央には「秋葉大権現」の碑。方形を成しているとのことですが、 訪れたとき(2年ほど前)は笹や藪に覆われていて並び方は良く分かりませんでした。
都介野岳への見通しも気づきませんでした。木が繁っていたせいかなあ。

都祁から山添にかけての岩座のある神社を巡ってみたい気がしています。

http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww1.kcn.ne.jp%2F%7Eganes-z%2Fimage%2F

--------------------------------------------------------------------------------
柏峰その1 投稿者:ZOU 投稿日:10月16日(月)00時17分55秒   引用
青草掲示板“[2542] 都介野岳”神奈備さんのご発言から。
都祁南之庄の国津神社と背後の柏峰。
小さな丘です。国津神社から背後にまわって10〜15分で山頂です。


http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww1.kcn.ne.jp%2F%7Eganes-z%2Fimage%2F

--------------------------------------------------------------------------------
もうひとつ 投稿者:くず 投稿日:10月15日(日)23時34分49秒   引用
大和の葛城山から見た冬至の日の入りは和泉の葛城山へ。

--------------------------------------------------------------------------------
額井山 投稿者:くず 投稿日:10月15日(日)23時33分25秒
葛城山の南、金剛山から見た額井山。夏至の日の出です。(カシミール3D)

--------------------------------------------------------------------------------
須田郡司氏 投稿者:神奈備 投稿日:10月13日(金)20時40分17秒   引用
バランシングストーン ジンバブエ
ゆるぎ石 岡山県赤磐市

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 葛城山頂から 投稿者:MADOKA 投稿日:10月13日(金)20時30分34秒   引用
> これが額井山です。
> 両側に少し低い山を従えて、すっきりと立っています。

すごいやーーーん!
これは確かに重要な山っぽい!

ぺトログラフ関係者なら この山にぺトログラフを刻んだ岩がある!ていうと思う。 目立つ△ノ山には必ずあるらしい。。。。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 葛城山頂から 投稿者:姫 投稿日:10月13日(金)18時20分43秒   引用
これが額井山です。
両側に少し低い山を従えて、すっきりと立っています。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 葛城山頂から 投稿者:姫 投稿日:10月13日(金)18時17分54秒   引用
くずさん、
> カシミール3Dで葛城山頂から見た夏至の日の出です。
> 葛城と都祁、なんらかの関係があるのではないかと思うわけ。

凄いですね!
日の出がぴったり都祁から昇りますね!
神奈備さんのお話では、小川光三さんが邪馬台国は都祁と柘植の間と書いておられるそうです。  夢が膨らみます。

ところで、宇陀の稲佐山の麓辺りから、北を眺めた写真をご紹介します。
稲佐山から墨坂峠に向かって走っていましたら、広い盆地に立ち塞がるように聳える、大和高原の山々に圧倒される思いがしました。
もし、神武が吉野から宇陀に来ていたとしたら、きっとこの光景を見て、あの山頂に立ちたい、と思ったに違いないと思いました。
宇陀から見た場合、左側の山が鳥見山、一つ置いて貝ヶ平山、そして右端の尖がった山が通称、大和富士で、額井山(ぬかい)と言います。  額井山の少し北に都介野岳がありますが、都介野岳は姿は美しいものの、非常に低い山ですので、この額井山こそ、古代においては重要な山だったのかもしれないと思いました。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 葛城山頂から 投稿者:神奈備 投稿日:10月12日(木)08時35分57秒   引用
> カシミール3Dで葛城山頂から見た夏至の日の出です。
> 葛城と都祁、なんらかの関係があるのではないかと思うわけ。

 都祁と柘植との間付近に邪馬台国があり、葛城付近に狗奴国があったとの説は、『大和の原像』小川光二著)に出てきます。
 葛城を狗奴国と見るのは鳥越憲三郎氏などもそうです。

 都祁と葛城は共に日神を信仰していたのかも。

--------------------------------------------------------------------------------
葛城山頂から 投稿者:くず 投稿日:10月12日(木)07時09分37秒   引用
カシミール3Dで葛城山頂から見た夏至の日の出です。
葛城と都祁、なんらかの関係があるのではないかと思うわけ。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 九頭神社 投稿者:タイシ 投稿日:10月11日(水)23時45分32秒   引用
姫さま、神野山情報ありがとうございます。

> 桐山の戸隠神社も、元は九頭大明神と称していたのが、いつの頃からか戸隠神社に変ったようです。

確かに戸隠神社本殿前の左側の燈籠には「九頭」が確認できますね。
本殿下の岩は磐座でしょうか?(笑)

> 昨日早速探訪に出かけましたら、戸隠神社の拝殿前からは、丁度目の前に神野山が望めました。

北野の北野天神社からも神野山が綺麗に見えますね。

--------------------------------------------------------------------------------
九頭神社 投稿者:姫 投稿日:10月11日(水)22時49分3秒   引用
神奈備さま、タイシさま、

下笠間の九頭神社の由緒書をありがとうございました。
応永年間に建立されたとありますね。  桐山の戸隠神社の神宮寺である徳竜寺にも什宝として大般若経が伝わっていて、この奥書に応永三年(1424)山城国岩田西宝院で開板したもの、とあるそうですから、桐山の九頭神社も下笠間の九頭神社も同じころに成立したのでしょうか。

桐山の戸隠神社も、元は九頭大明神と称していたのが、いつの頃からか戸隠神社に変ったようです。  この辺のことは、神奈備さんのサイトに書かれていて、詳しくお調べになっているのには、驚いてしまいました。

昨日早速探訪に出かけましたら、戸隠神社の拝殿前からは、丁度目の前に神野山が望めました。 イワクラ学会の資料によりますと、神野山はハンレイ岩という石で形成され、この石からは砂鉄が採れるのだそうです。
またチタンも検出されるそうです。   チタンが採れるのは、神野山と、名張の滝之原だけだとのことですから、草薙の剣は神野山で造られたのではないだろうか、と書いてありました。 山添村は縄文時代(12000年前)の住居跡が数箇所見つかっていますので、早くから発達していたようですが、石からチタンを取り出す技術があったかどうか、それがちょっと疑問だなと思っています。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: m(__)m 投稿者:神奈備 投稿日:10月11日(水)14時39分46秒   引用
> 写真は、宇陀市室生区下笠間の九頭神社の由緒書です。

タイシさん、宇陀の九頭神社の写真ありがとうございます。
応永年間の鎮座とありますね。九頭神社で鎮座の年が判っているのは珍しいですね。

--------------------------------------------------------------------------------
伊勢外宮からの夏至の日の出 投稿者:くず 投稿日:10月11日(水)01時08分43秒   引用
例によってカシミール3Dを使ったシュミレーションで地図をマッピングしています。
伊勢外宮から中望遠のレンズ(100o)を使って見た富士の山と夏至の日の出。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: m(__)m 投稿者:タイシ 投稿日:10月10日(火)20時24分42秒   引用
九頭神社の本殿です。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: m(__)m 投稿者:タイシ 投稿日:10月10日(火)20時23分25秒   引用
> タイシさん、ご無沙汰。お元気でいらっしゃいましたか?
ボチボチやってます。
写真は、宇陀市室生区下笠間の九頭神社の由緒書です。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 戸隠山八方睨から 投稿者:姫 投稿日:10月10日(火)16時36分32秒   引用
みなさま、 ありがとうございます。
タイシさん、ZOUさんもお写真をありがとうございました。

そうなのですよ。  休ん場も、山も、建物に邪魔されて見通すことが出来ません。
建物の裏から、雄賀山と雌賀山を撮った写真がありますので、添付します。

神奈備さんのサイトには国津神社、雄賀神社のことが、余さず紹介されていて、素晴らしいですね。

白石の地名の由来は、境内にある白い石が元になっているのではありません。
国津神社の本殿の地面には穴が掘ってあって、穴の底にご神体である白い石が鎮座しているのです。
私の知り合いの人が、遷宮のとき、こっそり見たんだそうです!
このご神体の白い石が、由来の元だと思います。
ところが、この白い石は、大昔には、やはり都祁の、南之庄と言う大字にある、国津神社にあったものだそうです。  南之庄の国津神社も祭神大国魂命のほかに、九頭竜神が祀られています。

それから雄賀神社の裏山に聳える雄賀山には、かなり大きな岩があって、洞窟があるそうです。  洞窟には「黒い蛇」が棲んでいると言い伝えられています。  この蛇を見ると病気になるのだとか・・・・!  ですから誰も洞窟に入ったことはありませんが、あるとき、犬がこの洞窟に入り込んだそうです。  中の方で盛んに鳴く声が聞こえたそうですけど、どうしたわけか、出てこなかったそうです。

伝承は面白いですね。

--------------------------------------------------------------------------------
m(__)m 投稿者:ZOU 投稿日:10月10日(火)11時10分4秒   引用
> 神菜備さん → ×
神奈備さん → ○

お名前の表記を間違えていたようです。失礼しました。
タイシさん、ご無沙汰。お元気でいらっしゃいましたか?

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 戸隠山八方睨から 投稿者:神奈備 投稿日:10月10日(火)10時46分33秒   引用
> > この石でしょうね。
> 裏からもう一枚。

皆さん、ありがとうございます。

字名は白石、神社名は白石大明神、昔はもっと大きい石だったのかも。

http://kamnavi.jp/as/uda/tugeogami.htm

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 戸隠山八方睨から 投稿者:タイシ 投稿日:10月 9日(月)23時41分30秒   引用
> この石でしょうね。
裏からもう一枚。

 

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 戸隠山八方睨から 投稿者:タイシ 投稿日:10月 9日(月)23時39分53秒   引用
ZOUさん、お久し振りです。

> > 国津神社の白石とは参道の右側にあったような記憶ですが、その石のことでしょうか。
> 国津神社境内の白石は画像の石のことかと思います。

この石でしょうね。

 

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 戸隠山八方睨から 投稿者:ZOU 投稿日:10月 9日(月)22時06分29秒   引用
姫さん、お邪魔いたします。
神菜備さん、お帰りなさい。お疲れ様でした。

> 国津神社の白石とは参道の右側にあったような記憶ですが、その石のことでしょうか。

国津神社境内の白石は画像の石のことかと思います。
確かに国津神社から野々上岳までの間には「休ん場:やすんば」が東西に並んで見えますが、国津神社境内に建てられているトイレのせいで白石から野々上岳の見通しができにくくなっていたかと記憶しています。ちょっと残念な気がします。

 

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 戸隠山八方睨から 投稿者:くず 投稿日:10月 9日(月)14時01分7秒   引用
> お写真を拝見しますと、手前に真っ直ぐ伸びているのが、参道なのですね?
そうです^^

> 白い石と夏至の日の出。
都祁は朝鮮の三国遺事の延烏朗・細烏女にまつわる太陽信仰地、都祁野との繋がりを思いますし、 白い石は日本書紀、の都怒我阿羅斯等の話に出てくる石を連想します。
(古事記、天之日矛は赤い石)角がある、牛にまつわる話となると牛頭天王、素戔嗚尊習合ともなにやら関係ありそうな気配も感じます。

伊勢の内宮の上空から夏至の日の出を見たシュミレーション(カシミール3Dを使用)をのせます。(地上からはけして見れませんが)

倭姫命にこの地を案内した猿田彦神の裔太田命、宇治土公の祖とされますがこの点も興味深いと思っています。

 

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 戸隠山八方睨から 投稿者:神奈備 投稿日:10月 8日(日)19時40分14秒   引用
姫さん、イワクラ学会の講演会にお越しかと思っていましたが・・・

> またローカルなことですみませんが、白石の国津神社(もと九頭神社)の境内には白い石が置かれています。

ローカルな話題の方が遙かに面白いですね。
国津神社の白石とは参道の右側にあったような記憶ですが、その石のことでしょうか。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: 戸隠山八方睨から 投稿者:姫 投稿日:10月 6日(金)23時40分3秒   引用
くずさん、
> カシミール3Dを使いまして、戸隠山八方睨から冬至日の出方向を見ています。中央部が奥社参道になります。

お写真を拝見しますと、手前に真っ直ぐ伸びているのが、参道なのですね?  その先から冬至の日が昇るのですね。 素晴らしいですね〜!
ところで、八方睨とは、四方八方が見渡せるから名づけられたのでしょうが、何とも歌舞伎のような粋な名前ですね!

またローカルなことですみませんが、白石の国津神社(もと九頭神社)の境内には白い石が置かれています。  ここから見る夏至の日の出は、東にある雄賀神社(雄神神社)の背後に聳える、雄岳、雌岳の真ん中から昇るのだそうです。 地元の子供達は夏至の早朝になると、朝陽を迎えるために国津神社に揃って参拝するそうですよ。
因みに、休ん場は、この二つの神社の間に設けられています。

--------------------------------------------------------------------------------
イワクラサミット 岩と星の対応 投稿者:姫 投稿日:10月 6日(金)23時23分53秒   引用
昨年開かれたイワクラサミットで、配布された資料にあった絵図です。

  << 前へ 次へ >>

--------------------------------------------------------------------------------
戸隠山八方睨から 投稿者:くず 投稿日:10月 6日(金)06時59分29秒   引用
カシミール3Dを使いまして、戸隠山八方睨から冬至日の出方向を見ています。中央部が奥社参道になります。
神奈備さん、おかえりなさい^^

--------------------------------------------------------------------------------
インカの道祖神 投稿者:神奈備 投稿日:10月 5日(木)23時58分37秒   引用
姫さん、投稿ありがとうございます。留守をしていまして応答失礼をいたしております。
この写真はペルー土産の一つです。
ペルー国二番目の都市クスコはかってはインカ帝国の首都でした。
 インカ帝国は鎌倉時代から室町時代に栄えた国でした。奈良時代にはコリャ文化、次ぎにプレインカ文化の時代を経てインカにつながっています。

 スペイン人による黄金の奪略を免れた黄金器を盗掘者などからも買い集めて作られた黄金博物館があります。各国の各種の武器も併設展示されており、中には明治天皇が寄贈した日本の武具も多く展示されていました。

 この庭に、石神さんが鎮座、見た目にはこんなに古いものとも思えませんが、さしずめ路傍の道祖神の雰囲気がでています。しかしなんとなく日本のものとは違う感じもうけました。

--------------------------------------------------------------------------------
桝型 投稿者:姫 投稿日:10月 3日(火)14時03分44秒   引用
大和高原の一角にある山添村牛ヶ峯の山上に所在する巨石です。
全体像が撮れませんので、石の前に建っている小さな堂と、石の一部分です。
堂の上に小さな四角い蓋が見えると思いますが、これが桝型の名前の由来となった厨子の所在地です。  
ちょっと中央から右寄りで、下から10mほどの場所です。

--------------------------------------------------------------------------------
題目立の舞台設営 投稿者:姫 投稿日:10月 1日(日)21時10分33秒   引用
上映されたビデオを写真に撮りましたので、ぼんやりした写真です。
これは「厳島」の舞台です。
神社本殿のある小山の裾の石垣の前に、竹で編んだ小さな屋形が置かれ、その中に、弁財天が座ります。  
真ん中の床板を囲んで左右に三人づつ、弁財天の正面に清盛が立ちます。
床板の上で薙刀の授受が行われ、喜びの舞が舞われます。

--------------------------------------------------------------------------------

「神奈備にようこそ」
inserted by FC2 system