和歌山県有田市の稲荷神社
有田市糸我町中番


稲荷神社の遠景


祭神 倉稻魂神

由緒

 第27代安閑天皇(西暦531−535)の2年乙卯の春。 引きつづく凶作を憂えた郷民は、高山に登り集って供御を捧げ、神を祭って豊作を祷ること数日に及んだ。

 このとき『われは倉稲魂神にして天下の蒼生(民草)の作りなす種々の穀物は皆われの司る所なれば、その五穀の登らざる禍を祓い清めむとなれば、今教え示さんことを守るべし』とのご神託が下った。 郷民は大詔(おおみことのり)を畏まって承り、神の教えのままに励んだ処、霊験現れて百の妖災忽に除き、年穀よく稔って豊饒の本にかえった。

 翌年、宣化天皇(第28代)の元年丙辰の秋、郷民は高山の半腹に社を創って大神を祠り、稲葉根社と称した。

 第36代孝徳天皇(645−654)の白雉3年壬子の春、参詣に便なるよう社を麓に移し奉って稲生社と改めた。 時移って大神、紀伊國糸鹿に降臨されたあとの元明天皇(第43代・707−715)の和銅年間に、再び山城國三ツの峯(伏見)に降臨された。 この由を聞召された帝は、山城國鎮座の地を紀伊郡と名付けられた。

 本朝最初の称号は、大神は伏見よりも170余年先に糸鹿の郷に降臨された、との伝承を裏付けている。

 熊野地のいと高山のこなたなる、宇気の女神の森の木々に、御饗盛りなす雪野おもしろ。古歌にある宇気の女神は申すまでもなく倉稲魂神であらせられ、熊野地のいと高 山は糸高山。後世たの字が省かれ、転訛して糸鹿山に改まった。

 時代はさらに降って鳥羽天皇(第74代・1107−1123)の御宇、白河院熊野御幸の砌この辺に駐輦し、平忠盛をして奉幣せしめられたのも、神徳崇敬が故である。 またこの折のことであろうか平家物語(巻六)及び源平盛衰記に、「白河の院熊野へ御幸なる。 紀伊の國糸が坂という所に神輿を掻き据えさせ、暫時御休息ありけり。 其の時忠盛、薮に幾等もありける零餘子を袖に盛り入れ、御前に参り畏まって妹が子は這ふほどにこそ成りにけり(私の娘は這うほどに成りました)と申されたりければ、院はやがて御心得あって、忠盛とりて養育にせよとぞ下の句を附けさせ座しける」とある。 境内に立つ「御幣の岡」と馬場先に立つ「白川法皇みくるまをよせさせたまひし旧跡」。

 まだ苔むさぬこの二碑石は後世の再建か、近代の創建かは定かではないが、上記の伝承を裏付けている。 当社は舊くから除盗難、除火難、農漁繁栄、海上安全等の神符を出しているが、この御符を所持するとき、「その感応なしと云うことなし」熊野古道に沿う糸我王子社(廃社)は、当社の摂社(本社と末社の中間に位し、本社に対し縁故の深い神の祠社)であり、また往昔、鎮守さまとして糸鹿荘内の村々に祠られていた数多の神々は、いま社域に奉遷して合祠申し上げてある。

 10月12日 秋季大祭


社殿

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