飛騨・美濃の五十猛命

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 日本の秘境「飛騨」、この地に入植し開拓に従事した紀の国の人々が奉じたのが、
樹木神・日を抱く神としての五十猛命であった。
「飛騨」は鄙、夷守の「ひな」に通じる。異族を表すと言う。
五十猛命を奉ずる人々が異族そのものであったのか、
異族を放逐もしくは融合していった和俗だったのか。

 飛騨と合掌造は切り離せないが、「飛騨匠」と呼ばれた大工がいた。平安時代には檜前杉光と言う名工がいた。




岐阜県高山市丹生川町


池の俣岩井谷 旗鉾 日面日影 白井 板殿 根方瓜田小野



岩井谷 字乗鞍岳 乗鞍本宮

池の俣 口川ばた 伊太祁曽神社

岩井谷 山越 乗鞍神社

旗鉾 大西平  天照皇大宮、伊太祁曽宮

日面 西ノ谷 伊太祁曽神社

  日影 宮ノ西 伊太祁曽神社

白井 大岩 日抱宮

板殿 宮ケ洞 伊太祁曽神社

根方 乙保木 伊太祁曽神社

瓜田 山越 伊太祁曽神社

小野 宮ノ谷 伊太祁曽神社



岐阜県吉城郡上宝村

宮原 字栗原 栗原神社


岐阜県高山市旧市街

 神田町 飛騨総社

 江名子町 荏名神社

 古川町上町 栗原神社


岐阜県不破郡垂井町

 八重垣神社


リンク 飛騨の両面宿儺(コミュニティシリーズ心の故郷ヒダさんミノさん見て歩き)


 乗鞍本宮(剣が峰と畳平)
岐阜県高山市丹生川町大字岩井谷字乗鞍岳1224番地 mapion



岐阜県県側乗鞍本宮奧宮と剣が峰


交通案内
平湯温泉から乗鞍畳平へバス そこに中宮、乗鞍山頂剣が峰の奧宮へ往復2時間半、頂上から奧院が見える。 

祭神
 五十猛大神、天照御大神、大山津見大神、於加美大神 四柱を乗鞍大神という。

由緒
 貞観の昔(9世紀央)、紫雲三度棚引云々と日本書記にもある位山とは乗鞍山とされる。隣嶺の御岳、白山、立山などとともに山岳崇拝の古霊峰である。
 養和元年(1181年)、木曽義仲の臣が飛騨国を観察のため登山した際、社殿を創建し黄金の神像を奉安したと云い伝えられる。 これが鞍ケ嶺神社である。神名をもって山名.湖名とし、権現ケ池、大丹生ケ池、亀ケ池.鶴ケ池には霊水を湛え、雨乞祈晴に霊驗があるとされた。 これらの水は、丹生川及び阿多野川の本流となり、北流して神通川、南流して飛騨川となる。
徳川時代にはかの円空上人の登拝参籠したと言う。昭和3年里宮(丹生川村大字岩井谷)の伊太祁曽神社とともに乗鞍神社と名を改め、本神社を主管とした。岩井谷の乗鞍神社は現存する。
 また丹生川村一帯には里宮として、式内槻本神社、御崎神社等の古社を初め、伊太祁曾神社が数十社祀られている。

お姿
 乗鞍山頂剣が峰の奧宮は強風のため鳥居がなくなっている。奧宮に背中合わせで朝日神社が東向きで鎮座する。長野県側である。
 奧宮から禁足地になっている奧院の嶺が西側に見える。
 畳平には中宮が鎮座する。一階は土産物屋である。 


長野県側朝日神社



乗鞍本宮奧院の山 禁足地



畳平の乗鞍本宮中宮


お祭
 5月15日 祈年祭(春祭、開山祭)
 8月15日 例大祭(本祭)
10月15日 新嘗祭(秋祭、閉山祭)

乗鞍リンク
乗鞍岳畳平付近 周遊コース
乗鞍岳の生い立ち


 天照皇大神宮、伊太祁曽宮
岐阜県大野郡丹生川村大字旗鉾字大平西


境内から鳥居、鳥居越し見ると山中に滝が見える。

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様


交通案内
高山−平湯温泉バス 寺田下車 西(高山方面)に10分 南側に大きい石碑がある。 mapion

祭神
 五十猛大神 配祀 天照皇大神

由緒
 
 創建年代は不詳。元乗鞍の恵比寿岳に鎮座されていたが、参拝するのに不便なため、南北朝時代の元中七年(1390)九月、現在の久手地区宮上田に遷し、更に明徳年間(1390〜)、旗鉾字東林に遷座し、寛永年間(1624)三度目に、現在地に奉遷した棟札がある。
 境内社の神明宮を通称「旗鉾大神宮」といい、当初より当地に鎮座していたが、創立年代は不詳だが、ここに天照皇大神宮が祀られたのは17世紀初頭とされる。伊勢皇大神が飛来したとの噂が高まり、近隣諸国から参拝者が押し寄せたと伝えられている。一日の参詣者は2000人に及び、高山との間には120軒もの臨時の茶屋が建った。西側の駄吉村の神明神社にも同様なことがあった。これは敬神勤皇家のなせる業であろうと噂された。


 このような状況を織り込んだ狂歌が作られている。
日々御神飛騨へひょっこり飛びたまい、ひだは日に日ににぎわいにけり(ひの字尽くし)
居なれたる伊勢の五十鈴にいまさずに、いかに思いで飛びたまいけむ(いの字尽くし)
夏のうちしばしすずみにここへ来て、はや秋風と伊勢に帰るな
ゆだんして又飛ばするな日の神を、抱きしめ居ませと日抱明神

社殿

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様



お姿

 当社は日抱尊宮とも呼ばれる。ここは乗鞍岳3040mを見上げる地点である。この頂上の剣ケ峰にも伊太祁曽神を祀る乗鞍神社がある。
 五十猛命がこの地域に祀られた時期は不明である。山岳信仰の勃興期頃と想定されている。

 バス道158号線の下側に鎮座している。この道は神社の上を通って作られたのである。
 158号線沿いに天照皇大神宮と彫られた大きい石碑がある。 ここから川の方に下っていくと、やはり天照皇大神宮の額を掲げた鳥居がある。伊太祁曽神社を示す神社側の印は見当たらない。

 丹生川村の無形民俗文化財としてこの神社の筒粥神事が伝えられていることを示す村の教育委員会が立てた識標、また伊太祁曽神社の大杉、神像二躯と記された識標がここが伊太祁曽神社である事を示している。

 拝殿の奥に流れ造りの二社殿があり、右が伊太祁曽宮、左が天照皇大神宮である。この右左は神様の方から見ての右左である。
 村の天然記念物にも指定されている神木の大杉や飛騨らしく朴葉の木など境内を囲むようにして林立している。

お祭
例大祭 9月16日

『破られた二千年の魔法』山本貴美子著 福来出版 から


 仲哀天皇の御代(四世紀)三韓の兵が九州へ上陸して日本占領を計画し次々と上陸するので、三韓征伐の必要があるも、失敗すれば一大事なので、神功皇后は七日七夜の鎮魂により神示を請い給われました。その時天照大神に継いで出られたのが「尾田(神奈備注:本はヒダのかたかな表示)の国吾田節の淡郡に居ます神(飛騨の国、丹生川の乗鞍の麓にいる先祖の意味)」と名乗られていますが、続きが旗鉾に口碑となって伝わっているのです。
 神功皇后は凱旋後、戦勝の報告と御礼に家来を派遣されました。家来達は多数の朱塗りの旗竿(古代は旗鉾という)に旗を吊して神前に奉納して帰りました。布の旗は朽ちて落ちましたが、旗鉾(竿)はいつまでも神前に立っていたのです。それでその地を旗鉾というようになり、後に旗鉾という地名となりました。

 三代続いた消えずの燈明事件
 年代は降って文化八年(江戸時代末)旗鉾日抱宮のさわらの神木に川からヒラヒラと龍灯が上がって、頂上に神火が現れ、天照大神の札が現れ、神楽が響き神の姿が現れて、一日千数百人が旗を押し立てて参拝し茶屋が数百軒も並び、大谷に茶屋屋敷、大鳥居跡が三ヶ所にでき、信州から馬が献上され、旗鉾へ米や塩を買う人が来る有様となり、京都から寺社奉行常陸守が調査のために派遣されて、かぎ取りの小笠原家に滞在したので、慌てて部屋を新築したのです。その頃の詳しい記録が小笠原家に保存されています。



参考 飛騨の神社 平成祭礼CD


 

 伊太祁曽神社
岐阜県高山市丹生川町池之俣口川ばた6 its-mo



交通案内
高山−平湯温泉バス 旗鉾下車 北側から橋の下の通り池の俣川沿いに南東へ2km 

祭神
 五十猛大神



由緒
 
 創立年代は不詳。往古は乗鞍大神を鎮祭し、産土神として崇敬した。古来旗鉾大神宮の奧の宮とも称して来た。例祭は九月十一日。境内には天照大神を祭神とした神明社があった。祭礼には転出した旧氏子が帰郷して神事に奉祀していた。




お姿
 
 当地は「平家物語」で知られる名馬池月・磨墨の産地と伝えられる。
 木製の鳥居、上部に苔がむしている。人里離れた林の一角に鎮座、現在は乗鞍本宮に合併されて廃社であるが、 社殿、摂社などの建物は残っており、摂社の中には石の像も放置されている。
 過疎の村の鎮守の末路であろう。


円空の男女神像




宗教法人合併公告

このたび左記のの通り宗教法人(乙)伊太祁曽神社を宗教法人(甲)乗鞍本宮に合併することになりましたので宗教法人法第三十四条第一項(及び第三十六条において準用する第二十六条第二項)の規程によって公告します。

平成二年三月二十日

岐阜県大野郡丹生川村大字岩井谷字乗鞍岳1224番地
宗教法人(甲)乗鞍本宮 代表役員宮司 ○○○○

岐阜県大野郡丹生川村大字池の俣字口川ばた五番地
宗教法人(乙)伊太祁曽神社 代表役員宮司 ○○○○


氏子崇敬者その他利害関係人各位
右の件について異議のある債権者は平成二年六月一日までにその旨を申し述べて下さい。
宗教法人法第三十四条第三項の規程によって催告します。

債権者各位

上記の内容の張り紙が残っていた。写真社殿左側の白い紙




 

 乗鞍神社
岐阜県高山市丹生川町岩井谷字山越704 watchizu


交通案内
高山−平湯温泉バス 旗鉾下車 北側から橋の下の通り沢の池上谷川沿いに南へ3km 

祭神
 五十猛大神ほか三柱の神



由緒
  創建年代は不詳。元禄検地の除地一反余。往古乗鞍大神を分祀して伊太祁曽神社と称し、宝暦二年(1763)に再建した。
 字わらび野に白峰神社が鎮座。東方乗鞍岳の威容を仰ぎ、これを崇拝して山霊を奉祀したのが始まりと伝える。古来神徳が顕著で悪疫防除などに霊験があるという。
 天明八年(1788)京都御所の焼失により、当社にあった杉の巨木を献上した。禁裡内の杉戸に用いられた。切り株跡が残っている。しかし安政五年(1858)の大火で炎上してしまった。




お姿
  乗鞍登山口と彫られた石灯籠が集落の入り口にある。道の左側に草に覆われた石段の残骸がある。これを約50段程登っていくと山道を横切れば鳥居、社殿がある。 全体的に草が生い茂っているが、石段の草はそれでも人の手で刈り取られた跡がある。 集落に残った数軒の家人の心使いであろう。

 境内の杉の木は樹齢数百年と思われる大きいものである。その落ち着いた雰囲気は古木にそなわった威厳だろうか。

 平金銅山は明治二五年に発見され、大正七年の閉山まで日本有数の鉱山であった。最盛期には1000人を越し、2万トンを生産した。




お祭
例祭 9月11日


参考 飛騨の神社 平成祭礼CD 円空と瀬織津姫


 伊太祁曽神社
岐阜県大野郡丹生川村大字日面ひよも字西の谷 mapion


鳥居と社殿

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様


交通案内
高山−平湯温泉バス 鍾乳洞下車 北西すぐ丘の上 

祭神
 五十猛大神・建速須佐之男神・大己貴大神・八衢比古神・八衢比売神・久那土神



由緒
 
 創建年代は不詳。乗鞍本宮の里宮の一。
 寛延十一年(1758)本殿を改築している。明治四十四年一月、同区字宮ノ前、字谷、字洞、久三の伊太祁曽神社を合併している。同年同月同区字コセ鎮座塞神神社、同字コセ鎮座疱瘡神社を合併している。

 太古、当地にある鍾乳洞に仮住して、皇威に反抗したとされる両面宿禰にまつわる幾多の伝承にも関係する古社。両面宿儺は仁徳天皇の時代の六十五年に出現、一体両面で四手同時に弓矢を用い、多力軽捷で、天皇側は倒すことができなかった。 そこで武振熊命を差し向けて討伐したと言う。『日本書紀』に出ている。
 地元の英雄だったのであろう。




お姿
 
 和歌山の山東の伊太祁曽神は日を抱く神としての母子信仰の片鱗が残っている。*1
和歌山の伊太祁曽神は元々現在の日前国懸神宮の地に祀られていたのであり、紀州平野の随一の神であったところから、太陽信仰とは無関係ではありえないのである。
 日影の伊太祁曽神社は西を向いている。

 日面に地名からも想像できるが、よく日が当たる地域である。ここの伊太祁曽神は東向いて鎮座している。 社殿周辺には杉の木が多く、特に社殿前の左右に対になって杉の木が植えられている。
 紀伊の伊太祁曽神社の鎮座地の字も「西谷」である。
 日影の伊太祁曽神社は西を向いている。




お祭
例大祭 9月15日



 伊太祁曽神社
岐阜県高山市丹生川町日影字宮の西30 mapion


鳥居と社殿

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様


交通案内
高山−平湯温泉バス 日影下車 南側すぐ丘の上 

祭神
 五十猛大神


由緒
 
 当神社の創建年代は不詳である。
 寛政九年(1797)九月に再建されている。  
 当区の産土神。本殿は慶応三年改築、拝殿は大正元年増築す。鳥居明治三十年改築、幣殿昭和十年改築す。

 乗鞍信仰に基づく、当地の各神社の由来と同様である。元禄検地で境内除地がある。創建はそれ以前。

お姿
  南側に高峰がそびえたっているので早く日が陰る。東の日面の伊太祁曽神が東向きならば、西1kmの日影の伊太祁曽神は西を向いて鎮座している。 境内には檜と多くの杉の木が植えられている。




お祭
例大祭 9月10日


お姿


*1 探訪神々のふるさと4「松前健」小学館  飛騨の神社


 日抱神社
岐阜県高山市丹生川町白井字大岩115 google


鳥居と社殿

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様



交通案内
高山−平湯温泉バス 白井しろい下車  

祭神
 五十猛大神

由緒
 
 創建年代は不詳。往古より乗鞍岳を「日抱尊宮」または「伊太祁曽宮」と尊称した。明治四十年、隣村の小野村の伊太祁曽神社に合祀されたが、昭和二十一年再度分祀をし、元に復した。

  紀の国名草の伊太祁曽神社は太陽信仰にまつわる母子神を祀っていた可能性があることが指摘されている。*1 植樹、開拓の神、五十猛命信仰に加えて、日を抱く母神の信仰が同時に伝えられたのか、この神社は日抱宮を名乗っている。旗鉾の伊太祁曽神社も日抱尊神社と呼ばれる事もある。

お姿

 鳥居は木製である。社殿前に日抱宮の文字の額が目立つ。南面している。境内の木々は大きく、遠くからでも杜がよく見える。





神木の大杉 村の天然記念物

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様



お祭
例大祭 9月 1日


*1 探訪神々のふるさと「松前健」小学館  飛騨の神社






伊太祁曽神社
岐阜県高山市丹生川町大字板殿字宮ケ洞327 its-mo


交通案内
高山−平湯温泉バス 琴水苑口下車 川を渡り北東30分 もしくは日影から5分西へ行き、北の山道を越えると板殿 

祭神
 五十猛大神

由緒
  五十猛大神を祀る神社は丹生川村に15社あるとされている。2座あるのが、ここ板殿(いたんど)、根方(ごんぼ)、旗鉾、日影、日面であり、久手、池の俣、瓜田、小野に1座となっている。*1
2000年の参詣。板殿の村は18軒である。最近2軒町に出ていったとの事である。この地の人に確認したが、伊太祁曽神社は1座しかないとの事である。 18軒では2座を維持できないのか、もっと山に分け入った所に鎮座しているのかも知れないが、確認できていない。

お姿

 境内の木々は彩りも豊富で、見事である。特に神木の栃の木は巨木である。丹生川村の天然記念物である。紅葉も入り口の近くにある。 本殿背後にも樫科の木が見える。 神楽殿もある。

 この集落の雰囲気はとてもいい。美しいのである。道には花が咲き、家々の農機具も整理整頓が行き届き、力を合わせての村造りが行われている様子が手に取るように分かる。



お祭
例大祭 9月22日


*1 日本の神々9「長倉三郎」白水社



 伊太祁曽神社
岐阜県高山市丹生川町根方字乙保木577番 its-mo



交通案内
高山−平湯温泉バス 中小野なかこの下車 川を北に渡る 

祭神
 五十猛大神、市杵島姫大神



由緒
 創建は第七十六代近衛天皇の久安六年(1150)と棟札にある。一説には伊太祁曽は日抱尊で、ヒダキとは厳岳の意と推定しているようだ。
  



由緒
  丹生川沿いに伊太祁曽神社が多いが、高山市方面には比較的少なく、瓜田・小野から川上の地域に点在している。 この地域の開拓は飛騨の中でも比較的後期に当たり、その頃に伊太祁曽神を奉ずる人々が入植してきたのだろう。

 岐阜市方面から高山方面の川沿いは日本海側へ抜ける幹線であり、古代から開かれていたのであるが、この幹線沿いで伊太祁曽神を祀る神社は、高山市内二座のみである。

 行き止まりに近い丹生川沿いはかってはあまり見向きもされなかった秘境であった。今でもそのような雰囲気であるが、平湯、新穂高などの温泉地帯にトンネルが通じて、行き止まりが解消されたのである。
 それまでは、女工哀史で有名な野麦峠が東へのルートであった。

 さて紀の国の人々は最近までもアメリカ等に移民として移っているが、山からすぐ海岸となる地域で耕地面積が少なく、次男三男は外に出て活路を見いだす他生きるすべはなかったのである。それは現在でもそうである。

 高山市から遙か10km以上も離れた瓜田地域当たり以東が、開拓移民が入れた地域である。
 彼らは故郷の氏神である伊太祁曽神(五十猛命)を奉じて、必死の思いでこの地に入ったのであろう。

 しかし今日、林業の衰退と共に過疎の村もできつつあり、歴史の役割を終えていく村と神社もあるのである。

お姿
  境内が児童公園と一体になっている。杉、銀杏、紅葉の木々が多い。
 東方の日面の鍾乳洞窟の水が地下を潜って湧き出るという大清水がある。水量豊かなためこれを利用して養鱒場が営まれている。
 根方岩陰遺跡は縄文早期の打製石鏃・掻器・石匙・骨器や土器の他に人骨もでている。




お祭
  9月9日







 伊太祁曽神社
岐阜県大野郡丹生川村大字小野この字宮の谷 its-mo



鳥居と社殿

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様



交通案内
高山−平湯温泉バス 小野この下車 東へ5分 

祭神
 五十猛大神、火之迦具土大神



由緒
  創建年代は不詳。里伝に乗鞍大神を分祀したとも、また山林繁茂のため、紀州伊太祁曽本社より分祀したとも伝えられる。宝暦三年(1753)と享和二年(1802)に本殿を再営し、天保元年(1830)に絵馬殿を新築した。明治十五年に幣拝殿改築。大正三年三月本殿改築。昭和十七年五月倉庫新築。



お姿
  鳥居はコンクリート製である。社殿は西向き、神木は大きい杉の木である。




お祭
  9月7日







 伊太祁曽神社
岐阜県大野郡丹生川村大字瓜田字山越 mapion



鳥居と社殿

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様



交通案内
高山−平湯温泉バス 小野この下車 北の川を渡り西へ5分、北に鳥居が見える 

祭神
 五十猛大神


由緒
第七十六代近衛天皇の時代の仁平二年(1152)に創建された。
 後村上天皇、興国年間(1340〜)越前杣山の瓜生判官の弟加賀守照当地に来て一城を構へ、この神を字神ヶ洞より現在の地に奉遷し、自ら鎮護神として崇敬した。
 寛延三年(1750)本殿再建。明治二十年鳥居を再建。明治三十年拝殿を再建。昭和十五年五月幣殿、本殿覆舎新築。

お姿
  鳥居は木製である。社殿は杉の木に囲まれている。石灯籠、古鏡が丹生川村の重要文化財である。 神楽殿もあり、往年の繁栄ぶりを窺わせる。




社殿

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様



お祭
  9月4日

参考 飛騨の神社、平成祭礼CD


 飛騨総社
岐阜県高山市神田町2丁目114番地 地図

一の鳥居


交通案内
高山駅 北北東 700m



祭神
 御歳皇神、大荒木之命、國之水分命、彌都波能賣神、大山津見神、高皇産靈神、大彦命、高魂神、大歳御祖神、五十猛神 以上式内八社
 大歳神、水波能賣大神、須佐之男命、和加宇加乃賣命、道後大神、大國主神、本母國都神、日本武尊、別雷大神、大八橋大神
 合祀 菊理姫命、伊邪那美命、伊邪那岐命 『平成祭礼CD』

 水無大神、荒城大神、槻本大神、荏名大神、大津大神、高田大神、阿多由太大神、栗原大神 以上式内八社
 大歳大神、走淵大神、四天王大神、遊幡石大神、渡瀬大神、道後大神、気多若宮大神、本母国津大神、劒緒大神、加茂若宮大神、大八椅大神
 配祀 菊理姫命、伊邪那美命、伊邪那岐命、天照皇大神、秋葉大神 『飛騨の神社』  

三の鳥居


由緒
 
 朱雀天皇の時代、承平年間(931〜)飛騨国司は国中の官社を国府の古跡神田の地に勧請し、総祭して世々祭祀を努めた。
 醍醐天皇の延長年間、国々に総社が創設されるのに準じ、国司巡拝の制を改め、恒例の祭儀もここで修めるようになった。
 文化十四年(1817)飛騨の生んだ国学者田中大秀翁はその衰頽を嘆き、『飛騨総社考』を著した。これを契機に文政三年(1820)社殿を再建した。
 明治二十二年南向きであったのを東向きとした。

拝殿



お姿

 東向きに鎮座。神明鳥居が二つ続き、一般道を越えて社域がある。社殿も直線美の神明造。

本殿



お祭
例大祭 5月 1日


『平成祭礼データ』lから

 参拝のしおり
 御由緒
 延喜式内八社国史所載十社飛騨国総鎮座飛騨総社概記           

 平安時代に国史巡拝の制度が廃れると、国府の近くに神籬を立てて国内の式内社を始め諸神を勧請し神事を行うようになったのが総社の始まりとされます。当神社の確かな創立年代は不詳ですが、朱雀天皇の御世承平元年(九三一)という言い伝えがあり、飛騨国延喜式内社八社(大野郡三座・荒城郡三座)及び六国史に記載の国史現在社十社を合祠し、国司自ら奉仕されたと言い伝えがあります。

 当初は神籬式祭礼で、十八社の各神社の神々の降神を仰いで、毎月の行事として国司巡拝の礼を省き祭場を総社としました。その後、後鳥羽天皇文治二年(一一九一)五月に初めて社殿が造営され、後深草天皇建長四年(一二五二)四月朝廷より幣白供進の令宣を賜り、後醍醐天皇建武元年(一三三四)五月神領地を定められました。時の国司は姉小路頼綱といわれ、歴代の国司は総社は篤く尊信し、飛騨国内の人々もこれに従い崇敬の誠を捧げてきました。時代の変遷と共に幾度か盛衰があり、室町時代から安土桃山時代には衰退しましたが、その中でも本殿・拝殿の再建がありました。江戸時代明正天皇の寛永五年(一六二九)八月、飛騨国守高山城主金森出雲守重頼によって総社の再計が計られ、寛文五年(一六二九)五月大改修が行われました。元禄年間頃からは、総社大菩薩宮と呼ばれ修験者や浮図によって奉仕され、天明の大飢饉(一七八一)頃より荒廃著しく、光格天皇天明二年(一七八二)八月営繕されましたが、文化元年(一八〇四)には境内地僅かに二畝十歩(二百五十u)という惨々たる状態になりました。

 この様子を嘆いた時の国学者田中大秀(本居宣長門弟)は文化三年(一八〇八)丙寅「飛騨総社考」を著して再興を願い「国の内の神坐せいつかしし昔にかへす時をこそまて」と詠んで飛騨の人々にその志を伝えて勧進に勤め、仁孝天皇文政二年(一八一九)己卯六月釿始祭を行い、棟梁古田与兵茂年、与次兵衛茂成親子に任せてん造営に着手、翌三年庚辰三月上棟竣工をなして造営を成し遂げて、境内の拡張と御祭神の考証を行い、今日の御祭神列座の因をつくりました。この時の遷座祭の斎主は、飛騨一ノ宮水無神社大宮司平君が勤め、大秀翁は祝賀して「いにしへのあとのまにまに国都神集へまつれるけふのとふとさ」と詠み、更に飛騨国中の人々に幸せを願い「御代やすく御年豊けくとこしへにみたみ恵ませおおみかみたち(境内歌碑)」と詠みました。大秀翁の志は、飛騨の人々の心を揺さぶり、神徳の高揚と社頭の興隆に現在までつながっています。弘化二年(1845)直孫弥太郎田中正民は祖翁の総社記を呈して進学を奉献、その志を継承しました。以来、本殿及び付属社等順次整い、「霊威高山より高く、神徳名田より広し」と飛騨総社の名声は益々高くなりました。

 明治十四年(一八八一)二月久邇宮朝彦親王染筆の社号を賜り、同二十年から二十三年にかけて大造営が行われ、南向きだった社殿を東向きにし、社頭七日町筋までの参道が整備されました。同四〇年五月に五日間臨時大祭斎行、昭和五年、昭和三二年、昭和六十三年に飛騨国中の三百余社の神社の神々を招請して式年大祭を斎行。現在の外拝殿及び社務所は昭和五十九年に造営したものです。
 以上

参考 飛騨の神社、式内社調査報告、平成祭礼CD


 栗原神社
岐阜県吉城郡古川町上町410番地 地図

遠景


交通案内
飛騨国府駅 西 2km



祭神
久久能智大神 配祀 五十猛大神

鳥居


由緒
 
 創建年代は不詳。往古、当地は広漠とした原野で栗林があり、年々その実を国司に捧げていたが、後更に朝廷にも献上した。 その謂われをもって、いつしかこの地を「大供御」と称し、村民相はかってここに栗原神社を斎祀した。
 後大同元年(806)栗原を伐採して水田となし、栗原神社は、嶋の宮すなわち現在地に移転したと言われている。

 祭神についての説明は『飛騨の神社』には書かれていないが、栗林があったことから木の神を祀ったとみれば、久久能智大神と五十猛大神とは頷ける。また式内社の栗原神社が上宝村に鎮座、ここからの勧請とも考えられる。

拝殿



お姿

 北東向きに鎮座している。巨石に栗原神社と掘っている石碑が社頭にある。
 広い社前内に悠々と社殿が鎮座、雄渾な雰囲気を与えている。 拝殿を眺めると合掌造に似ている気がした。

拝殿幣殿

本殿



お祭
例祭 4月 25日


参考 飛騨の神社、平成祭礼CD


 荏名神社
岐阜県高山市江名子町1290番地 地図

鳥居


交通案内
高山駅 東南東2km



祭神
 高皇産霊神、荏名大神(味鋤高日子根命と同じと言われている)『飛騨の神社』 
 大屋津姫命  『神名帳考証』


由緒
 
 延喜式内社飛騨国八社の一。
 創建年代は不詳。飛騨の生んだ国学者田中大秀翁はその荒廃を悲しみ、文化十四年(1817)社傍に「千種園賞月[木射]シャを開き、荏名翁と号し、みずから神主となって奉仕した。
 翁は里巷や古説などを手繰り、文政元年(1818)、この地が荏名神社の旧跡であることを確かめた。

 境内に巨石が存在することが神域である証拠となったと言う。

巨石と荏名文庫

拝殿



お姿

 東向きに鎮座。江子名川を渡る神橋は特殊な工法だとか。御幣橋と言う。
 平地に鎮座しているが、遠目からでも大きい木々が密集している様子がよく分かる。 本殿の背後に水が蕩々と流れている溝があり、滝のように一段低い川に落下している。

覆殿 本殿は板葺神明造



お祭
例大祭 5月 2日


参考
 飛騨の神社、式内社調査報告、平成祭礼CD


 栗原神社
岐阜県高山市上宝町宮原字栗原350番地 its-mo





交通案内
神岡大岡と栃尾温泉を接続するバスで宮原下車 目の前 

祭神
 五十猛大神、大山祇大神、宇迦之御魂神、伊邪那美命、伊邪那岐命、菊理姫命、火産靈神

由緒
 貞観7年、従五位上、延喜式飛騨八社の一。
   吉城郡には同名で五十猛命を祀る栗原神社がもう一社古川町上町410番地に鎮座する。また吉城郡には五十猛命を祀る神社は伊太祁曽神社二座を含め計六座鎮座するが、 吉城郡上宝村大字鼠餅1085番地の伊太祁曽神社については、地元の人にも確認したがご存じなかった。おそらく小字が違い、氏神としている領域はもっと山の奥の方だろう。鼠餅はバス停古橋で降りるのだが、この近辺の氏神は白山神社である。
 丹生川村一帯と同様に高原川一帯の上宝村は山と水が豊富で水力発電所も点々と設けられている。

 旅人にとっては、環境の良い素晴らしい一帯である。


お姿
 上宝村役場の近くであるので、この村の中心地に鎮座すると言える。 遠くからでも神社の木々が見える。




お祭
 2月18日 祈年祭(春祭り)
 5月 3日 例大祭
11月25日 新嘗祭(秋祭り)





五十猛命ホームページ

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