能登の五十猛命

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 日本海の拠点 能登 ここでの五十猛三兄妹を祀る神社を探訪する。



鹿西町 金丸 能登生国玉比古神社(多気倉社)

七尾市 矢田町 上大森神社

七尾市 矢田町 下大森神社

七尾市 能登島向田 伊夜比神社

金沢市 寺中町 大野湊神社




 能登生国玉比古神社(多気倉社)
石川県鹿島郡鹿西町金丸セ35  mapfun

鳥居

交通案内
JR七尾線金丸駅下車北東へ15分


祭神
多氣倉長命 配祀 市杵嶋姫命

五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命(文政十二年(1829)『社号書上帳』による。)



由緒
 能登国の式内社の能登生国玉比古神社の論社の一。他の論社は七尾市所口の気多本宮、鹿西町能登部上の能登部神社の二社。

 現在では祭神は多気倉長命とされ、この神は能登の国魂神で大己貴、少彦名の二神に協力してして国土を平定、その女伊豆目比売と少彦名命との間に生まれた菅根彦命は金鋺翁と呼ばれて、金丸村村主の遠祖となったと伝える。金丸の名の元となった。近世を通じて多気倉社と呼ばれた。
 祭神を五十猛命ほかとするのは”タケ”を共有しているのか、武位起命を五十猛命としたのか、『社号書上帳』に記された祭神の根拠は推測するしかない。

拝殿


お姿
 眉丈山麓の沢の高台、仏性山に南東に面して鎮座、鬱蒼とした社叢となっている。本殿は流造、間口三尺、奥行三尺四寸。拝殿は切妻造、間口4間、奥行き三間半、境内地は三百六坪。


お祭り
  10月 第1日曜日 1日間 秋季定祭

本殿


平成祭礼データ

 祭神多食倉長命は神代の昔、能登国に巡行された大己貴命少彦名命と協力して国土の平定に神功をたてたまい、能登の国魂の神と仰がれた。
 その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。 これ金鋺翁菅根彦命で金丸村村主の遠祖である。
 神主梶井氏はその裔である。
  以上


参考:『平成祭礼データCD』、『式内社調査報告』巻十六


 上大森神社
石川県七尾市矢田町サ67丙 mapion


上大森神社と彫られた石柱

交通

JR七尾駅から南東1.5km



祭神

大物主命、事代主命、五十猛命



由緒

 創立時期は不明。言い伝えによれば出雲国の来海の惣社と申すところからの別にして国と開発の神にあらせられる。来海とは来待の意。來待神社の祭神は大物主櫛甕玉命、積羽八重事代主命、五十猛命であり、頷ける由緒である。

 大国主命の御子事代主神を祀り、天満宮矢田部の子孫大森氏が奉仕するとある。こうした因縁から古くは気多大社平国祭巡行の折り、立ち寄ったと伝えられる。

 七尾市矢田町は『和名抄』でいう、能登国能登郡八田郷の遺称地である。
 八田郷は石動山系七尾城山麓から邑知地溝帯にかけての傾斜地から臨海部に位置している。村中を大谷川支流杵田川が北流している。
 八田(矢田)の地名は大鷲が村人を害するので気多大明神が弓矢で射殺し、その矢が当地に当たったからと云う。
 近くの天満には天喜三年(1055)京都北野から天神を松尾山に勧請の際、供奉のものが住み着いた所と云う。


社殿



お姿 

 山裾の北側に鎮座、鳥居はなく、社殿がひとつあるのみ。
 社頭掲示では、「六世紀頃の矢田古墳群のうち、古称大森塚と申すところの上部を削って社殿を造営したもの。ここは七尾の一の亀の尾と申す所なり。」とある。

 

お祭り


 
 6月 第2日曜日 例祭

 


 下大森神社
石川県七尾市矢田町ホ34乙 mapion


神社入り口


交通

JR七尾駅から東1.7km



祭神

大物主命、事代主命、五十猛命



由緒

 鎮座地は『和名抄』でいう、能登国能登郡八田郷の遺称地。
 矢田古墳群の高木森古墳は全長57mの前方後円墳で、五世紀末葉前後の能登の首長が葬られていると推測される。七尾湾を拠点として日本海交易で活躍したのであろう。
 創建年代は不祥であるが、祭神は上大森神社と同じく出雲国来待神社からの分祀と思われる。
 矢田古墳群の丸山古墳は五世紀半後の大型円墳で円筒埴輪の列は見いだされている。さらに高塚、狐塚、船塚、大盛り塚などの円墳群のほか、後期前方後円墳五基からなる中瀬支群も発見されている。


社殿



お姿

 古墳の登り口を上がると社殿が鎮座、また高木森と彫った自然石がある。


高木森の石

お祭り


 
 4月 2日 春祭  10月 14日 秋祭

 


 伊夜比神社
石川県七尾市能登島向田115-26 mapion


鳥居


交通

JR七尾駅から能登島バス向田宮前下車



祭神

大屋津媛命、天照大神、豐受大神、應神天皇、神功皇后、伊弉册命、菊理媛命 配 菅原道眞



由緒

 能都郡の式内社十七座のなかの同名社に比定される。
 天平二十年(748)越中守大伴家持が出挙の視察に能登とを巡行した時、能登島を見ながら歌った旋頭歌に
 万葉集巻一七 鳥総立て 船木伐るといふ 能登の山 今日見れば 木豆繁しも 幾代神びそ
 がある。「鳥総を立てる」ということは、伐った切り株にその木の頂上の枝を挿して木の霊を祀る儀礼であるが、このような歌が歌われる所からも、能登島は船木材の産地であったことがよくわかる。

 当社の祭神は大屋津姫命である。紀州の伊太祁曽神社の五十猛命(大屋彦神)の妹神として全国に樹種を播いた神で、紀州の大屋津姫神社に鎮まっている。船木の神である。
 この大屋津姫命であるが、社名からは伊夜姫である。伊夜彦の伊は偉大などの敬称と見れば、弥彦と同じこと、即ち大屋の大も敬称である。おすずみ祭はまさに伊夜姫神が越後の男神である弥彦神を呼び寄せて、年に一回の逢瀬を楽しむ祭事である。


拝殿(三間二面の流造、軒唐破風)



お姿

 能登島は袋島とか蝦夷島とも呼ばれていた。東西14km、南北7kmの島である。神社は通称八幡山の麓に鎮座、当初は現地より南東1kmのヤミないしはイヤミと呼ばれる山中にあったという。


東面する本殿(覆屋内、一間社流造)


準備されている山車

お祭り
 
 7月 最後の土曜日 おすずみ祭

 あらかじめ神社の東方500mの崎山の干場に高さ30mの巨大な柱松明を立てて火を放つもので、その火焔は10km離れた所からも見えると云う。越後の男神を呼ぶのであるが、佐渡の神という古老もいるという・度津神社の五十猛命であり、弥彦神社と同じ神であろう。


おすずみ祭の松明が準備されている。


おすずみ祭の神事
山車が松明の周りを廻る。21時頃


おすずみ祭の神事  神火を遷す  21時半頃


おすずみ祭の神事  若者数十人が火を持って乱舞する。


燃え上がる松明 21時45分から10分間程度で倒壊。


翌朝の消火作業 夜中の0時でも燃えていた。

 

 大野湊神社
金沢市寺中町ハ163

神門

交通案内
 金沢駅 北西2km 地図

祭神
護國八幡大神、天照坐皇大御神、猿田彦大神 配祀 鎭魂八神、瀬織津姫神 『平成祭礼CD』

大野湊神社 猿田彦大神 瀬織津姫神 応神天皇 別宮 天照皇大御神、地主護國八幡大神、春日四柱大神、西宮大神、荒魂大己貴命

鎮魂八神社 神産霊神、高産霊神、玉積産霊神、生産霊神、足産霊神、大宮比盗_
加武劒社 素盞嗚尊
武猛社 五十猛命
御食津社 宇迦之御魂神
三熊社 武三熊大人 以上は『神社明細帳』

猿田彦大神 承応年間(1394〜)の『式内等舊社記』

摂社
 白山社「白山比盗_ 配祀 少彦名神、天滿宮」
 天磐杼樟船社「鳥之磐楠船神、蛭子神」
 西宮社「蛭兒神」
 菅原社「菅原道眞」
 秋葉社「火産靈神、罔象女神、埴山姫神」

鳥居

由緒
 聖武天皇神亀四年(727)猿田彦大神を、既に鎮座していた神明社の傍らに勧請したのを創祀とする。
 場所は佐良嶽の麓に大野湊があり、ここに鎮座していたが、佐良嶽が崩れて海中へ没頭した。社号に湊を有するのみ。建長四年(1252)、古大野から寺中町の離宮八幡宮に奉遷している。

 別名は佐良嶽明神・佐那武明神である。加賀郡の式内社。佐羅皇子とは、下白山の女体后が近江の志賀の都で唐崎明神に見そめられ、妊娠して加賀に帰る途中、愛発山で誕生したのが佐羅王子。佐良は沙羅であり、伐折羅(Vajra)の転じたもの。伐折羅大将は薬師十二神将の一つで、七億の夜叉を率いる王であり、金剛と訳される。
 なお、唐崎明神は所謂穢多を祭神とする唯一の神社であり、関東東北のその部落には白山神社(しろやま)が氏神として祀られている所が多いと云われる。

拝殿

お姿
 広い境内には木々が密集している。神域として大切に保存されて来た原始林のようだ。欅の大木は樹齢数百年。所々に摂社の祠が鎮座、社名は書かれていない。 残念な事。

本殿

摂社

お祭り

 5月 15日 例祭、 8月 2日 近い金曜日 3日間 夏季例祭

『平成祭礼データ』

大野湊神社の由緒

 当社の起源は、聖武天皇神亀四年(七二七)猿田彦大神を、既に鎮座されていた神明社(祭神・天照大神)の傍に勧請したのが始まりといわれている。

 この神明社の創設は不詳であるが、あらたに猿田彦大神を天照大神と合祀されてより、この社を大野郷(旧宮腰・現金石町)の湊の守護神として、大野湊神社と称されるようになった。

 後深草天皇建長四年(一二五二)社殿炎上により、東八丁をへだてた離宮八幡宮(現在地)に奉遷され今日に至る。

 歴代朝廷、武将の尊崇篤く、特に加賀藩主前田利家公は任国の際、本陣となった当社の荒廃を憂い、宮腰をはじめ十五ケ村にその総社として祭資を供進させて社殿を再興。

 二代前田利長公は毎年の神事能興行の例をつくり、また三代前田利常公は、寛永十六年(一六三九)社殿を造営し、氏子村を増加させるなど、歴代藩主の崇敬きわめて篤く加賀藩五社の筆頭の位置にあった。

 明治十八年県社に、昭和四十一年神社本庁別表神社に指定された。

 寺中の森として有名な社叢は、昭和五十二年金沢市文化財に、寛永十六年に造営された本殿三棟は、昭和五十七年石川県文化財に指定されている。

 毎年八月一日より三日間執り行われる大祭は、五百二十五年間大野郷に鎮座されていた当時を偲び、海岸の仮殿に神輿を奉遷して行なわれるもので、金石の夏祭りとして有名である。

 なお、慶長九年に創始された神事能は、現在も金沢能楽会関係者により五月十五日に奉納されている。
以上

参考 『式内社調査報告』、『平成祭礼データ』

h19.10.10


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