伊達神社
宮城県加美郡色麻町四竃字町3 its-mo


鳥居と古墳



  
交通案内
東北新幹線 古川駅より 西10km 陸羽本線西古川駅から西4km
仙台駅から中新田方面行きのバスが便利。



祭神
五十猛命、經津主命、武甕槌命、大日靈命、火産靈神



由緒 
 東北の式内社には勧請された中央神が多い。五十猛命が祀られていたところへ更に坂上田村麿が蝦夷追討の際、香取、鹿島の両社を勧請したという。江戸時代には領主の伊達家に気を使って香取様[かんどりさま]と呼ばれた。この頃は神仏習合で良泉院と言う寺と一体であった。現在も鐘楼がある。
 明治5年伊達神社と復称された。
 古墳の上に鎮座している。縄文や弥生の土器が出土している。往古からの聖地であり、蝦夷の神を祀っていたと思われる。
 五十猛命が祭神になっているのは、播磨国飾磨伊達郷の射楯神社からの勧請である。射楯兵主神社を奉祭していた人々が移り住んだ。従ってここの地名も色麻郡の四釜郷である。
 関東では日本武尊が東国征伐時に五十猛命を祀っていると伝わる。
 時代が下がり、坂上田村麿になるとこんどは日本武尊や五十猛命を武神として祀り、蝦夷への攻撃の先頭にたてた。射楯神、五十猛命は諸軍神の頭領神と見なされていた。
 紀の川沿いの五条市方面の出の坂上田村麿は、紀の国で五十猛命を祀ったとされる小倉神社がある。



お姿
 巨木の銀杏が神木である。社殿は永禄時代の建物である。宮司家は現在44代との事である。



神木


  
拝殿



お祭
春期例大祭   5月 1日
獣魂祭     9月20日
秋季例大祭  10月27日

  

式内社調査報告 第十四巻 陸奥國色麻郡 伊達神社


【社名】 武田本・九條家本ともに「イタチノ」と訓む。『大日本史神祇志』に「伊達神社今在加美郡四竃村旧舊與播摩 國飾磨郡射楯神同神也、播摩風土記延喜式、按播磨射楯神社五十猛命、飾磨與色麻、射楯與伊達並立訓相通、其為神同神 矣 而為香取明神云」『封内風土記』「中古以来香取社と稱し明治五年伊達神址と復稱」『封内名蹟志』『觀蹟聞老志』 共曰「古昔寺號香取山竃良寺」『風土記書上』は「香取大明神」と云ふ。『日本勝地誌』「舊香取神杜」と稱するも、維 新の際式内伊達神杜を合祀して伊達神址となる。通稱俗に香取様と云ふ。

【所在】 加美郡色麻村四竃字町三番地。「最寄驛」陸奥東線西古川驛六キロメートル。「道路」羽後街道沿ひ(仙 臺より陸奥街道を北上すること三〇キロメートルにして大和町吉岡につく、ここで分れて羽後街道に道を進め北上し約一 〇キロメートルの地で四竃につく)王城寺原扇状地の最南端にあたり、船形山に源を發する鳴瀬川の支流、花川を社前に みる。中古以来の宿驛四竃郷宿部落。

【祭神】 五十猛命、経津主命、武碧槌命の三柱。古墳時代中期の圓墳の上に建つ。この圓墳の上に中世の經塚があ る。

【由緒】 『封内風土記』によると「香取社坂上田村麿東征之時所勧請也」とあるが、『大日本史神祇志』は「坂上 田村暦所創祀是亦可疑。田村麿或修造也今並不取」としてゐる。『奥羽観蹟聞老志』『封内名蹟志』共に平城帝大同年 中香取山竃良寺を建立とある.『宮城縣圖書館調』は、射楯神(古風土記に伊大神)の氏人の遷住により、古 くこの地に創祀されたものであらうとしてゐる.吉田東伍氏は『大日本地名辭書』の中で色麻氏の氏神であるとしてゐる 。『安永八年六月別當良泉院書上』に伊建政宗が國守となるに及び、伊建の二字を憚り、経津主、武甕槌二神を祀り香取 神社鹽釜神社と稱したとあり、又、俗に鹽釜神社とするは四釜から訛つたものである。『封内風土記』に「四代藩主青山 公(網村)献黄金一枚、以永克修造之料」とある。其後も歴代の藩主が度々参詣せられた.古昔阿部一族の先祖である遠 祖・波々伯部刀祢卜部清水なるもの社家であつたので政務を司る。後陽成帝の文禄年中その裔孫波々伯部刀祢将監修験と なる。速祖延暦年間坂上田村麿に従ひ下る。鹽釜宮を加美郡に勧請し司宮となり、波々伯部と改める。萬治三年(一六六 〇)院迹迩出火のため灰燼に帰す。その後直ちに再建する.明治六年四月村社に列せられ、同三十九年供進社に指定され た。同三十八年九月字邊町の鹽釜社・田村社の両社と字上郷鎮守の田中社の三社を、同四十一年十月今熊野社、八坂社を 、四十二年四月字大下本町北國の熊野社、上本町の坂社の二杜を合祀した。

 【神職】 高崎秀氏(兼職)世襲四十三代目、鎮座當初の神職は前述の汲々伯部刀祢。

 【祭祀】 蝦夷酋長大基公阿氏利為盤貝公母禮の降伏した日(延暦二十年四月十五日)、舊四月十五日、この日を 往古は祭日としたが、現在は春五月一日。秋は延暦二十年九月二十七日、田村麿将軍が夷を平定した日。舊九月二十七日 を往古は祭日としたが、現在は十月二十八日。
 特殊神事として、次の二つがある。一つは「稚児献膳」。この祭は毎年五月一日に行はれてゐる氏子区域の各部落 から約七〇人の女児が山菜を三方に盛り、稚児装束を身にまとひ、十名の総代は袴を着用。男児十名は狩衣姿で旗を持ち 、大鼓を打つて町を練って神社に至り、供物を奉納して祭典を行ふ。他の一つは「湯立行事」。これは毎年十月二十七日 夜、行はれてきた古神事で、氏子は釜を持ち来り、一釜ごとに奉献の費用を負擔して釜を据ゑ薪を焚き、湯を沸騰させる 。神官は祈祷呪文を唱へながら手にした笹竹で熱湯をかぶり体を躍らせ卜占する。奉献者は神官の告げごとを聞きとり年 間の厄日をうけ、恙なきを願ふ。これは恐らく修験の行事を伝承したものであらう。

 【氏子】 舊四竃村、舊大村 五三〇戸。

 【境内地】 現在八〇四坪、往古は東西一〇〇間、南北六○間。『日本勝地誌』によると、三、〇〇〇坪。

 【社殿施設】 『宮城県神社名鑑』によると、本殿妻造 二・三坪。幣殿七・五坪。拝殿六・ニ坪。
                    (松田文人)


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