津島神社
愛知県津島市神明町1

南の鳥居


交通案内
津島駅西10分 its-mo


祭神
建速須佐之男命 配祀 大穴牟遲命


摂社

居森社「須佐之男命幸御魂」

大屋津姫社「大屋津比売神」

手前から荒御魂社「須佐之男命荒御魂」
大屋津姫社「大屋津比売神」
瀧之社「弥豆麻岐神」

熊野社「伊弉冉尊」
八柱社「五男三女神」
その他多数


由緒
 欽明天皇元年(540)の鎮座と社伝にある。 弘仁元年(810)日本総社の号を得た。
 全国の天王社の総本社、分社は約3000と言う。

 当社とか京都の八坂神社は所謂式内社に列せられていない。石清水八幡宮もそうだが、仏教の匂いがつよい社、僧侶が取り仕切っている社、生ものを祭壇にささげない社は神社とは見なされず、 寺院とされたのであろう。 ただ、摂社の弥五郎社を海部郡の式内社の国玉神社の論社とする意見がある。

 居森社は最初に祭神が対馬より来臨のおりの鎮座地との伝承がある。『日本書紀』に「素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所に居いでになった。」とあるので居森社と言うとあるが、多分にこじつけ。
 尾張大国霊神社にも居森社がある。祭神は素盞鳴命。豊橋市花田町の羽田八幡宮にも居森社が鎮座、津嶋幸魂命を祭神とする。素盞嗚尊であろう。
 五十猛命の本社である紀の国伊太祁曽神社の元社を亥の森と言う。偶然ではなさそうだ。 愛媛県宇摩郡土居町鎮座の伊太祁神社の祭神を国魂飯神と言い、五十猛命であり、かつ飯族の祖神としている。飯盛山や飯盛の地名と五十猛命とも関連がありそうだが、妄想段階。

拝殿

 摂社の大屋津姫社がある。祭神は大屋津比売神である。『日本書紀』では、素盞嗚尊の御子で、抓津姫命とともに五十猛命(大屋彦神)の妹(妃か)とされる。大屋津比売神が祀られているのであるが、五十猛命、抓津姫命が祀られていないのは解せないのであるが、社務所で問い合わせても、摂社についての伝承や文書は残っていないようだし、現状の並び方が往古のままではなく、集合整理されているようだ。瀧之社「弥豆麻岐神」、大屋津姫社「大屋津比売神」、荒御魂社「須佐之男命荒御魂」と並んでおり、伊太祁曽のタキ、もしくは素盞嗚尊荒魂が五十猛命かもなどと思ってしまうがこれも妄想。

本殿

お姿
 名鉄津島駅から西にまっすぐの参道を行く。 東に向いた大きい鳥居と楼門が見えてくる。手前に神木の大銀杏。
 広い境内と大きい社殿で、社叢は結構あるのだが、朱色の社殿が目にしみる。 本殿の背後に回ると流石に人もいなく、落ち着いた神社らしい雰囲気。壮大な本殿を写す。

本殿

お祭り

 7月 第4土曜日 津島天王祭 宵祭
 7月 第4日曜日 津島天王祭 朝祭


参考 『日本の神々』『平成データ』、『神社の栞』

『平成祭礼データ』から

 津島神社のしるべ
 御神徳  
 当神社の御祭神、建速須佐之男大神は、天照大神の御弟神、又御相殿の大穴牟遅大神は建速須佐之男大神の御愛婿で、日本の黎明期(れいめいき)にあたり出雲の地にお住い遊ばされ、親子二代にわたって国土の経営、産業の開発にお力を致され民生の安定に限りないご仁慈を垂れさせられた御神徳は広大でありますが、わけても津島のお社は人の身に起る災厄と疫病(はやりやまい)とを除き給う御徳と授福の大神としてあまねく世に知られて居ります。この尊いご神徳については、極めて意義深い蘇民将来(そみんしょうらい)伝説があります。即ちその昔須佐之男大神か諸国ご巡行の道すがら、非常にご難渋の折柄を蘇民将来(そみんしょうらい)と云う貧しい民が、温くおねぎらい申上げた事をお喜びになり、礼心として悪疫防禦のまじないを授けられました。即ち「後々疫気あれば汝蘇民将来の子孫なりと云って茅輪(ちのわ)‐葭で作った輪‐を腰につけよ必ず疫神のたゝりを免れしめん」との有難い教えを受けたのであります。茲に津島のお社を、疫病除の守護神と仰ぐについて面白い一例を挙げますと、徳川時代関東地方に悪疫が流行の際はお上に乞うて「普天(ふてん)の下卒土(もとそつと)の浜(ひん)王土にあらざるなし汝疫神速かに立去るべし若し去らざるに於いては津島牛頭天王に奏して刑罰せしむべきもの也何村疫神共え」との差紙を得て、之を村の入口等へ貼ることが行はれたのであります。こゝに当神社では、こうしたご神徳を仰いで年中に疫病厄除けのお祭りを数々執り行いますが、その中でもっとも重要且つ大規模なお祭りは夏の津島川祭であります。

  由緒  
 津島神社は古くは津島牛頭天王社と申し、今日なお一般に「津島のお天王さま」と尊称されております。社伝によれば当社は欽明天皇元年(西紀540)のご鎮座で、弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇の正暦年中、天王社の号を賜はったと伝え、いはゆる諸国の天王社の本社で、全国に約三千のご分霊社があります。御鎮座以来歴代の武門、貴賤から篤く尊信されましたが、殊に戦国時代津島に隣接の勝幡城の出身である織田信長は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉を初め豊臣一門は信長に引つゞき、社領を寄進し造営を援ける等尊信しました。現在の楼門(重要文化財)は天正19年(西紀1591)の創建で秀吉の寄進と伝えられ、南門(県文化財)は慶長三年(西紀1598)秀吉の病気平癒を祈願して秀頼の寄進になったものであります。又現在のご本殿は慶長10年(西紀1605)清州城主松平忠吉(家康四男)の病弱を憂えた妻女政子の方より寄進になった建物で、桃山式建築の優秀なものとして、重要文化財に指定されて居ります。正保4年(西紀1647)尾張藩主徳川義直は、社領として津島の地千二百九十三石余を寄進し、後に将軍家綱の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続きました。幕末光格天皇以降朝延内々のお沙汰を以って、しばしば歴代主上、親王様方のご祈祷を仰付けられ、又有栖川宮家の御祈願所をも仰付けられました。明治6年県社に、大正15年国幣小社に列せられましたが、終戦後この制度は廃止され現在に及んでおります。津島天王祭  川祭は津島祭、天王祭、提灯祭、船祭等と色々に呼ばれ、当神社年中の祭儀の中で、もっとも厳重なお祭であり我国夏祭の代表的な盛儀で、当夜の盛観を拝覧のため遠近各地から参詣の人等は凡そ十数万を数え、祭場の天王川周辺は立錐の余地もない有様であります。この祭は大神のご神徳を仰いで、疫病、厄難の消除を祈るお祭で、いはゆる枉事をする疫神を祭って疫神の心を和らげ、疫神を送ると伝う祭儀で大神のお諭しのまゝに葭を「祓つ物」として執り行う、神秘な「大御饌調進の儀」と「神葭放流」を中心として十数回に亘って行う、一連の神葭神事の厳儀と併行して、有名な船祭の一連の祭事が執り行はれるもので、有名な京都八坂神社の祇園祭と同様の趣旨で、数百年前既にこのお祭を執り行った記録があります。祭日は古くから旧暦6月朔日に始まり、8月晦日に終る定めでしたが、今は新暦の7月第4土曜日の夜の提灯祭と、翌朝行う朝祭を中心に、その15日前に始まり75日後に終る事に改められました。宵祭(提灯祭) 昔の津島五ヶ村から一艘ずつ奉仕した歴史のまゝに、五艘の卷藁船は数百つづの提灯を点け、昼をあざむく燈火を川面に映して津島楽を奏しながらゆうゆうと天王川をお旅所まで漕渡し、お旅所の神輿の大前に参拝する行事で、古来豪華な燈火の祭典として名を知られております。朝祭(車楽祭)宵祭が終わるとその夜のうちに飾り替えをした津島五艘の祭船の他に、市江船(旧市江村より奉仕)一艘を加えた六艘の祭船は、宵祭とは全然趣を変え、船に積んだ屋形の上段え更に小屋台橋掛りを組み、唐破風等の屋根を載せて、能人形を飾り、中段には豪華な小袖幕を張り巡らし、下段は緋ラシャに金糸で社紋を縫取した屋台幕、錦繍目ばゆい柱巻、紅白梅花の作り花等で飾立て、悠揚迫らず古楽を奏でながら漕渡す有様は、将に王朝頃の絵巻物を見るようであります。
 以上

h24.8.14


五十猛命ホームページ
神奈備にようこそ
inserted by FC2 system