古代史と大屋毘古神、五十猛命の原風景


洪水伝承と降臨
 神々の降臨はノアの箱船の場合のように山頂や中腹に行われる。 船が山の高きところに着くのは大洪水の場合や、後に着岸地がせりあがる海退時の場合である。
 降臨神話とは太古より繰り返されてきた大洪水や海進海退の記憶が反映したものと考える事ができる。
 今より1万年程前に大洪水があり大陸の沈没と云う異変が起こったと伝わる。大西洋のアトランチス、インド洋のレムリア大陸である。高度な文明の消滅であった。
 大陸沈没から生き残った知識階級の一部は、エジプトの神官やインドのバラモンとなり、独占した知識を世襲的に継承し、権力の基盤とした。

牛頭天王、神農黄帝、素盞嗚尊
 バラモンの守護神はインドラ神であり牛頭天王であった。この神を奉じてバラモンの一部はチャイナ大陸に赴いた。民人が遅々として進歩せず、簡単に死んでいくのを憐れんで、薬草、農業を民人に教えたのである。ここにインドラ牛頭天王は炎帝神農大帝として出現した。 民人はマレビト神として崇め祀った。

古朝鮮建邦、桓雄・檀君神話の誕生
 盤古王またの名は桓雄の御子が太伯山の山頂の神檀樹の下に天降った。はじめて国を朝鮮と号した檀君である。韓神と呼ばれた伊檀君曽である。後世、日本で伊太祁曽神、五十猛命、伊達神また射達神、更に後世では韓国伊太神と呼ばれる神となった。

殷の崩壊、箕氏と神農信仰の半島入り
 チャイナの殷王朝は紀元前1,024年に周に滅ぼされる。殷王族の忠臣箕氏は人徳高く、敵であった周王朝から半島に封じられることになった。檀君建国後1,500年のことである。箕氏が封じられると檀君は隠れ、山神となった。 
 箕氏は神農を奉じていた。神農は古朝鮮語では「すさのを」に転じ、後に箕氏そのものが神農と同一視され、更に桓雄信仰が重なっていき、後に日本で素盞嗚尊と呼ばれる神となった。

日本列島の太古、旧石器、縄文時代
 10万〜20万年前、列島には原人が住んでいた。6万年前、旧石器文化に属していた東南アジア人が列島に渡来、プレ縄文時代の幕開けとなった。
 2万年前は寒冷海退の時期であり、樺太から北海道、半島から九州、また西南列島も長い陸橋が出来ていた。この陸橋を幾多の人々が列島に渡来、原日本人が形成されていった。我々の遠祖の縄文人である。 縄文文化が栄えたのは主に東日本であった。落葉広葉樹林の木の実と鮭が生活を支えた。木の実や穀類の食生活になっていくには土器による貯蔵、煮炊きが不可欠であり、ここに縄文土器が発展してきた。
 縄文人は冒険をして列島に漂着した人々の子孫であり、従ってパイオニア精神に満ちていた。彼らの水上の移動は独木船であった。伊豆の神津島や隠岐の島の黒曜石が本土で用いられている。相当な長距離移動を行っている。若く活力に満ちていた民族であった。

縄文海進、照葉樹林文化の渡来
 紀元前 8,000年ウルシ等の照葉樹林文化が渡来、続いて焼き畑文化が西日本、ナラ林文化が東日本に伝来した。高床式住居、死体化生型神話、洪水神話、歌垣、山上他界、来訪神などの照葉樹林独特の観念が入ってきた。

縄文の祈り
 縄文人は清水の湧き出る泉に祈り、雪のいただく山に、祖霊の鎮まる木々の鬱蒼とした山に、磐座に、天に聳える高木に、遠くの島に、川の渦に、野に森に祈った。アニミズム(精霊崇拝)である。 また空飛ぶ白鳥に、鷹に、日の出に、火を吹く山に祈った。トーテミズム(霊魂信仰)である。
 蛇への祈りはその力強い生命力と、その毒による死の前の恍惚感からである。縄文とは蛇をかたどったものであり、注連縄となり現在まで連綿と続いている。

祖霊崇拝、紀の国での大屋毘古神、須佐の男の出現
 人々が群れると自然とリーダーが出てくる。同一トーテムを祀る群れは氏族となり、リーダーは世襲となり、その祖先を共通の祖霊として氏族の氏神となっていき、やがてリーダーは神の子孫と見なされ確固たる支配者となっていく。 現在残っている各地の古い神社の多くは、そのような祖霊を祀った聖地であったと見ていい。
 高木の神(この神は後に高皇産霊神と習合する)を祀るタカ族やカモ族、月を神として奉じるウサ氏、白鳥(後に日本武尊と習合する)を祀るシナ族等が形成されていった。
 弥彦神大屋毘古神(後に五十猛命と習合する)は樹木神・家屋の神とされ、高床式住居と共に持ち込まれ、紀州など照樹林文化の色濃いところでは人々に深く浸透した。
 また南紀や中紀への来訪神は須佐の地を本拠とする海人に祀られ、須佐の男や熊野坐神として豊饒神や樹木神・舟の神として崇敬された。後に神農と習合していく。
 大屋毘古は須佐の男の子神と位置づけられていくが、南紀の熊野本宮大社等ではこの神々の役割があいまいになっている。
 また大屋毘古神の妹神とされる大屋都姫命、抓津姫命も同様の神徳の神として祀られている。妹ではなく后妃であろうか。

須佐の男と五十猛命(右) 歌川国芳筆「神編藻塩草」


出雲族の渡来
 出雲大国主命の家系を継いできた富氏の語りによれば、原出雲族は紀元前2,500年頃大祖先であるクナトの神に引き連れられて出雲の地に着いた。原住民に鉄、製布、農耕等を教えた。出雲の地の王となった。大移動途中、信濃に建御名方命、大和に登美族などの出雲族の分家が出来ていった。 それぞれが土着の民人と融合し、地方の支配者となっていった。各地の大国主命の誕生である。

稲作文化の伝来 天孫族と鉄 
 紀元前1,000年頃、鉄利器と稲作文化が九州へ上陸し、急速度で西日本へ広がりを見せた。太陽を女神として奉ずる女系族である揚子江近辺の倭族であった天孫族が南九州へ新文化を持ち込んだ。その中の丹生都比売神を奉ずる水銀採取集団はいちはやく中央構造線沿いに紀の国にまで到達した。

稲作文化の伝来 物部氏と青銅、物部氏の東遷
   また高皇産霊神を祖神とする男系族である物部氏が北九州へ半島を経由して同様の文化を持ち込んだ。
 天孫族は九州全域で勢力を拡張し、主に遠賀川流域を拠点としていた物部氏を圧迫し、物部氏の一部は東遷を開始、このうち饒速日命を遠祖とする氏族は大和の登美族と合体して畿内を中心にする大勢力に成長した。同族の天火明命を遠祖とする海部氏は丹後地方、尾張地方で勢力を拡大した。物部氏海部氏は紀の国や出雲とも親好を結び、銅鐸文明が花咲いていった。

紀の国の海人の半島往復と神々の習合
 紀州の須佐之男尊、大屋毘古神を奉じる海人は、その造船と航海技術を駆使し、九州や出雲やさらに半島との海人も行き来があった。鉄を入手する交易と先進文化の吸収が目的である。
 出雲から半島へは対馬を経由して向かっている。豊の浦の嶋頭神社が行宮跡と伝えられている。日本書紀の一書では父神素盞嗚尊と共に、木種を持って曽尸茂梨に天降り、この地は金銀は多いが云々とある。
 半島の建邦神である桓雄が神農スサノヲと見なされており、この神を自らの祖神須佐の男と同一視したのである。同じく子神とされていた大屋毘古神を檀君即ち伊檀君曽神とし五十猛神と同一神とした。親子関係の伝承を丸ごと受け入れたと言うことである。

神農信仰の部族の襲来と天孫族との争い
 素盞嗚尊(桓雄)、五十猛命(檀君)を奉じる半島の倭人は紀の国の海人と共にしばしば九州へ襲来し、天孫族の支配する筑紫を手に入れ、この地を白日別と呼んだ。この襲来と争いは素盞嗚尊と天照大神との争いとして伝承された。
 半島からは先ず対馬の豊の浦(曾根崎神社)に上陸し、壱岐の郷の里(国津意加美神社)に着岸し、ここを経由して有明(稲佐神社)に上陸している。
 荒穂神社の伝承では五十猛命は基山に陣取り、植林・木工の指導を行い最初に木を植え始めた土地との伝えが残っている。「筑紫風土記」に、優れた指導者で地域住民のあこがれと尊敬の的となり、神としてあがめられた。仕事の疲れで田の畔に腰をかけて休んだ所、その眠りは7日7夜に及んだ。その間の5月1日〜7日を田の忌日として祭るようになったとされる。*6
 また基山で石に腰をかけていて、小川で洗濯するきれいな娘を見初め、結婚したと伝えられている。*1 この娘は丹生都比売命ではなかったかと勝手に想像している。これは紀の国へ丹生都比売を受け入れている事、丹生都比売の子息の嫁である名草比売は五十猛命を奉じていたと思われる事、川上に丹生都比売命川下に五十猛命が祀られている河川が各地に見られる事から、金属採取と製錬等の役割分担があったのではないかとの推測からである。
 五十猛命は島原、鹿児島等各地で技術指導を行った。熊襲等にも五十猛は受け入れられたのである。この時期、下の妹の抓津姫は結婚し佐賀で指導を行っている。

素盞嗚尊・五十猛命の日本海側展開 
 この争いは鉄器の技術に勝る天孫族が押し返し、素盞嗚尊軍団の主力は半島や日本海側に出、隠岐の島から石見出雲へ展開していく。
 出雲では素盞嗚尊軍団と出雲族との争いがあり、大蛇退治の物語として記録された。石見の五十猛神社等に上陸伝承が残っている。 また出雲の伊賀多気神社では、五十猛命は素盞嗚尊とともに大蛇退治を行った神と説明されている。別には素盞嗚尊と五十猛命は島上峰(船通山)に降りたとの伝えもある。
 出雲風土記には素盞嗚尊の大蛇退治の説話は出ていない。出雲にはなかった説話である。出雲でのこの伝承は16世紀頃でも僅かで、18世紀になると増えてくると言う。 記紀神話の逆流である。伝承地が作り上げられていったようである。
 神社の由緒の説明も記紀神話から取られたと思われるものが多いが、要するに伝承が途絶えているからである。葛城の古社中には、鳥越憲三郎先生の著書から由緒を説明している所もある。 基本的には、途絶えてしまい、また自社の神が重要な役割を担っている説を取り入れる人間心理が働いていると言うことだ。

 妹神とされる大屋姫、抓津姫命もそれぞれ隠岐や石見出雲で指導を行い、人々から感謝された。
 出雲では素盞嗚軍団は優勢ではあったが、結局の所、原住民の出雲族の中に埋没していったのは地元の娘と婚姻するしかない外来人のたどる一般的な運命である。
 五十猛軍団は北上しつつ、地方地方に定着していった。時として素盞嗚尊として、また五十猛命として奉じられ祀られた。丹後では武位起命とされ、天火明命の御子神とされている。珍彦(椎根津彦)の父神である。五十猛命軍団は更に丹後から但馬、能登から、越前越中、佐渡から越後へと展開していった。

五十猛命の太平洋側展開
 紀の国へは一言主命天香山命と共に降臨していると射矢止神社に伝わっている。同じ神の呼び方が鎮座した土地でそれぞれ変わったのか、地元の祖神と習合していったのであろう。同一神と考えていい。
 熊野では天香山命すなわち高倉下命として鎮座、この事が越後の伊夜比古神を天香山命と考証させた。
 また紀の国の名草での五十猛命は、名草の猛と呼ばれ、神武天皇の父神天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の「波限建」取り入れられた。

円と三貴子と大物主
 天上の円物体は神聖視された。日は天照大神、月は月読神、台風の目が素盞嗚尊であり、三貴子とされた。列島全体で勢力がの強い神々であった。 また、虹もまた円るく、これは蛇神であり、大和の三輪の大物主神とされた。
 素盞嗚尊を台風の擬人化された神、五十猛命を猛烈な台風の神と見なす説がある。*2 平成8年の台風12号のコース

記紀に現れた大屋毘古神、五十猛命
 古事記からの記事を拾うと以下の如くである。
  伊耶那岐命と伊耶那美命 島々の生成 筑紫の島の筑紫国を白日別と言う。
  伊耶那岐命と伊耶那美命 神々の生成 大屋毘古神を生む。
  伊耶那岐命 禊ぎ・すすぎ時に成る神の名は八十禍津日神と大禍津日神
 時の朝廷は素盞嗚尊、大屋毘古神(五十猛命)の勢いの盛んである事を不気味に感じていた。大国主命の勢いの場合も同様であった。半島新羅系の素盞嗚尊、五十猛命には災禍の神の役割を持たせ、出雲系の大国主命、事代主命や建御名方命には国譲りの物語で屈辱を与え、勢いを削ごうとしている。

 日本書紀の一書(第五)の伝えに、素盞嗚尊(須佐之男の命)が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。 用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売の三柱の神がよく木種を播いた。
 国の初めての正史である日本書紀の中に「わが子の治める国」とあるのは重大である。わが子とは五十猛命、国とは大八洲である。 天孫族が渡来する以前であろうが、この国の王とも言うべき存在であったとする有力な伝承が日本書紀の編集時には残っていた事を示している。これを記さざるをえなかった勢いであったと言うことである。
 素盞嗚尊と五十猛命は共に、木種を持って新羅の国に天降り曽尸茂梨に行ったとある。その後出雲にやってきて、簸川上流で八俣の大蛇を退治する説話につながる。
 大国主と木の国  八十神の難を避けるべく木の国の大屋毘古神の元に逃がされている。この説話が大屋毘古神と五十猛命とを同一神と見なす由縁である。

出雲に現れた韓国伊太
 列島が国として形成されていない時期、半島からは多くの氏族が祖神を奉じて渡来してきた。しかし国家の形と意識ができあがって以降の渡来は列島の神を奉ずる形(中臣須牟地神社)になっていった。しかし檀君を奉じる氏族はやはり氏神とともに出雲に渡来してきた。 韓神の冠をつけた韓国伊太神である。この神は出雲各地で居候神として祀られていた。天保四年に千家俊信の「出雲国式社考」で、この神を素盞嗚尊の御子の五十猛命と考証している。後の印達神射楯神伊達神となっていった。
 半島とのつながりでは、韓神曽保利神と呼ばれた。「伊猛命、韓神・曾保利神ト号ス」(太宗秘府略記)、「韓神者素戔嗚尊子也」(内待所御神楽式)と半島とのつながりを示す所伝が少なくない。また播磨風土記には「御船前伊太神」の名で渡しの神・武勇神として神功皇后が祀ったと記されている。

大家毘古神、五十猛神を奉ずる人々の移動、祭祀
 五十猛命は伊豆半島に出現、酒を愛し、民を栄えさせた。
 酔っぱらって寝込んだ間に、周辺が火事になり、鳥が水を巻いて助けられる話が伝わっている。山々に木種を播くのはまさに鳥の業である。
 これに懲りて酒を断ったと言う。禁酒の神となっている。

 素盞嗚尊の韓錆剱、五十猛命の植林伝承は、鉄採取、鋳造との関わりを示し、五十猛命は鋳物師の崇敬を受けている。また樹木神としては木地師の崇敬を受けた。
 後世、五十猛命は社会のアウトロー的な神、体制に組み込まれていない神と認識され、また半島の特に新羅系の神の匂いが強過ぎる事があった。この神を祀る神社の幾つかは生き残り策として祭神を差し替えてしまい、今日までその名が残っていない神社があるものと推測している。逆に言えば今日まで五十猛命を祭神としている神社の存在は貴重である。

 神奈川県の鶴見川雉子川等をさかのぼり、開拓・植林をおこなった。日本武尊に替わっている神社もあるようだ。

 岐阜県の飛騨から乗鞍方面に移住し、開拓をおこなった。紀の国名草郡の伊太祁曽神社所蔵の中世作の「日本紀伊国伊太祈曽明神御縁起事」には日出貴(ひだき)大明神、居懐貴孫(いだきそ)大明神と呼び、日輪を抱く母子神の伝承も伝わっている。*6 尤もこの話は続紀伊風土記では、妄作の神名抱腹に堪えざる事と一笑に付されている。江戸時代には神社をハヤラス為に、伊勢信仰へ結びつける事がなされたのである。日抱が飛騨であり木曽と合わせて伊太祁曽となる。これも抱腹物の語呂合わせとしておく。

 群馬県に移住した半島からの渡来した人々に敬われた。滋賀の園城寺の新羅大明神は五十猛命との説が神仏図絵にある。

 愛媛県や栃木県では豊饒をもたらす神として崇敬されている。

 武勇の神 大分県の本耶馬渓町に鎮座する貴船神社の祭神の「勇猛神」は五十猛命の事とされている。また東国征圧に活躍した日本武尊や坂上田村麿も五十猛命を祀っているが、この神は征伐軍の先頭に立った武勇神であったと伝えられている。*11

 修験道とのつながり 出羽三山の出羽神社、月山神社の摂社に五十猛命兄妹神がまつられている。また紀州志略によると五十猛命を「大峰釈迦嶽科戸明神」と記しており、熊野から吉野の山々との繋がりを示している。新宮の神倉神社の磐座は蛙に似ていることからコトビキイワと呼ばれるが、一方磐楯(イワタテ)とも称される。ここにイダテの語源を感じるのである。 対馬の上対馬町大字河内字藤内ケ内に岩楯(いわたて)神社があり、祭神を素盞嗚命、五十猛命、蛭子命としている。高倉下と五十猛命とをつなぐ。 大和葛城山も修験道のメッカであり、ここの神は一言主神である。射矢止神社の伝えはあるいは修験道との関連であろうか。


参考文献
*1白鳥伝説(谷川健一)小学館
*2 銅鐸への挑戦(原田大六氏)六興出版社
*3 神代文字の謎(藤芳義男氏)桃源社
*4 日本の中の朝鮮文化8(金達寿氏)講談社
*5 地名の話(谷川健一、尾崎喜左雄)平凡社
*6 探訪神々のふる里4(小学館)
*7 古代文学の周辺(西田長男)
*8 日本の神々1 和多都美神社(谷川健一:永留久恵)白水社
*9 西丹波秘境の旅(澤潔)かもがわ出版 丹波風土記からの引用
*10日本古代史とアイヌ語(大三元氏)リンクページ参照
*11消された覇王(小椋一葉)河出書房新社
*12神社庁平成祭礼CD
*13失われた文明(Aゴルボフスキー)講談社
*14日本文化の基層を探る(佐々木高明)NHK
*15日本超古代王朝とシュメールの謎(岩田明)日本文芸社


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