熊野大社
島根県松江市八雲町熊野2451 its-mo

熊野大社へお参り
 

 

交通案内
松江より熊野行きバス熊野大社下車

祭神
神祖熊野大神櫛御気野命

摂社
稲田神社「奇稻田姫命 配 脚摩乳命、手摩乳命、少彦名命、武御名方神」

伊邪那美神社「主 伊邪那美命 合 磐坂日子命、埴山姫命、 稚産靈命、天兒屋根命、猿田彦命、天宇受賣命、五十猛命、麓山祇命、爾保都比賣命、 山雷神、速玉之男命、天照大神、月夜見命、天熊人、保食命、事解男命、速玉之男命、 岐神、長道磐神、煩神、開囓神、道敷神、八雷神、菊利姫命、泉守道命、須佐之男命、 大山祇命、大國主命、蛭子命、足仲彦尊、氣長足姫尊、譽田別尊

五十猛命と爾保都比賣命が合祀されている。

荒神社「荒神(こうじん)、祭神不詳」

稲荷神社「宇迦之御魂神」

熊野大社拝殿

由緒
 出雲国風土記には熊野大社と杵築大社(現出雲大社)の二社のみが大社であり、熊野大社が筆頭だった。 出雲国造神賀詞でも「出雲の国の青垣山の内に、下津石根に宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて坐す伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命、国作り坐しし大穴持命、二柱の神」と先に熊野大神の名が出る。

 熊野大神は天津神、大穴持命は国津神との差が付いているようだ。出雲国造も誓約で誕生した天穂日命の後裔となっているのである。 また、意宇方面の勢力が大和・吉備の勢力と組んで、西の出雲郡方面の勢力を配下におさめたと見る歴史家もいる程である。 一方、意宇の神こそ大の神で大国主であるとの見方もあり、出雲には小さな国譲り、大きい国譲りの歴史が重なっているのであろう。

 熊野大社の祭神の櫛御食野命を素盞嗚尊とするのは紀伊熊野本宮も同様であるが、これは『先代旧事本紀』の主張で、この書では杵築大社の祭神も素盞嗚尊と主張している。 出雲大社本殿真後ろには素盞嗚尊を祭る祠が鎮座している。出雲大社の拝殿から祈る人々は本殿の大国主命を拝んでいるつもりであろうが、 大国主は本殿の中で西を向いて祀られており、素通りして素盞嗚尊を拝む事になっているのも面白い。

 出雲の熊野大社に話を戻す。本殿の向かって右に稲田神社、左に伊射那美神社が鎮座している。これらは嫁と姑を分けているのではなく、明治後期の神社合祀の賜である。熊野本宮の上宮を伊射那美神社として合祀し、ここへも近隣の小祠の神々を合わせ祀ったと言う。 神職に五十猛命は元々どの村に祀られていたかを尋ねたが、天文11年(1542)大内氏の富田城攻撃の際に社殿が全焼しました。また、明治6年(1873)の意宇川の氾濫により社地の一部が流され、文書類は消失したとの返事であった。

 さて、熊野大社の神職さんから頂いた情報である。
  現在熊野大社の摂社伊邪那美神社に合祀されている楯井神社について、調査研究を書面にする。
 楯井神社は熊野の里の太田と呼ばれる地区にあった小祀である。明治39年に政府による「一村一社制」により熊野大社でも明治41年に熊野氏子地区に多数ある境外社を合祀するに至った。
  楯井神社の御祭神は大田命であるが、以前は太田井命と呼ばれていたようである。この社は楯井(たてい)だが以前の御祭神の太田井命の名から「太」を「おお」ではなく「た」と読み神社名も「楯井(たたい)」と読んだのではないかと推測される。いつしか「太」の「、」と「井」を省くようになり大田命となったのではないだろうか。
  祭神名が出たところで、ひとつ疑問が出てくる。この大田命は『記紀』等諸神話であまり聞かない名前である。
 なにか有名な神の別名なのでは?と考えるのが一般的であろう。やはり昔の人も同じことを考え緒論があるが、
 一番有力とされているのが猿田彦命である。当社の大正時代の社史にもそのように書かれている。
 あまり一般的ではないが太田という地名から五十猛命と考えることもできる。今回はこの五十猛命説を考えてみたいと思う。まず、熊野氏子太田地区の更に奥へ行ったところに昔「イソタケ」と呼ばれた地区がある。
 しかし確かに五十猛命を祀っている小祀があるが、それは熊野氏子地区でもなければまた合祀した記録も無い。現在も残っているのである。そこで考えたのが「イソタケ」地区の人間が太田地区まで移住してきたと考えてみると自分たちの崇敬してきた神が移住先の社にない、そうすると分霊を持ってくるか元々鎮座している大田井命を五十猛命として仰いだと考えられるのではないだろうか。しかし移住してきた一部の人間であるが故に結局は大田井命はそれでしかなかったと考えられる。先住の人間には敵わないであろう。
以上

 紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。

 往古、出雲で炭焼きを業としていた有馬氏が遙か紀の国に移動したと言う。三重県の熊野市有馬が落ち着き先であったか。 ここにも伊射那美神を祭る花窟神社が鎮座する。また、途中かとも思われる御坊市には熊野(いや)神社が鎮座、由緒には、「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、当社に熊野神が一時留まりませる」とある。 「いや」と読ませて、伊射那美神であるので、揖屋神社も同じ系統かも知れないし、また阿波の祖谷(いや)の入り口にも延喜式の伊射奈美神社[イサナミ](現在の高越神社か)が鎮座している。 黄泉の国の神、根の国の伊射那美神の原郷が出雲にあったのかも知れない。

 熊野の名を持つ式内社は以下の通り。
近江国高嶋郡 熊野神社[クマノ]初め水神彌都波乃売命を勧請。
越中国婦負郡 熊野神社[クマノ]往古この地を開発した出雲民族が郷里において崇敬していた八雲の熊野大社の神を祀った
丹後国熊野郡 熊野神社[クマノ]
出雲国意宇郡 熊野坐神社[クマノ](名神大)
紀伊国牟婁郡 熊野坐神社(名神大)
 全ての熊野社に参詣した訳ではないが、平野部から離れた山間部に鎮座している。平野部の人々からは聖地として見えたのであろうが、それは山々に降る雨を蓄え、下流域を潤す水源の神でもあり、また必要な木材を供給する山々の神の坐す所と見たのであろう。 豊穣を与える神であった。
 この出雲の熊野大社の現在の社は下宮であって、数百メートル上流に熊野山(天狗山)があり、上宮が鎮座していた。 神体山である。

熊野大社本殿

お姿
 意宇川を遡った山裾に鎮座している。出雲の山中としては比較的幅のある平地が続く。 印象としては大和の宇陀のような感じであった。いかにも素朴な古代を偲ばせる景色に鎮座している。 米作以外には木材位しかないように見える。特に古代にはそうであったろう。水神、木神を祀ったものと思われる。

鑽火殿


伊邪那美神社

お祭り
☆4月13日  御櫛祭(春大祭)
☆6月30日  夏越祭(大祓)
☆10月14日 秋大祭
  八月中旬  熊野ふるさと祭

伊邪那美神社  合祀記念祭 10月15日


h13.4.30

公式熊野大社
出雲の五十猛命

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