出雲大社
島根県出雲市大社町杵築東195

鳥居

交通案内
一畑電鉄出雲大社駅 北へ500m mapfan

祭神
大國主大神
 配祀 天之御中主神、高皇産靈神、神皇産靈神、宇麻志阿斯訶備比古遲神、天之常立神、和加布都努志命

大社風景

摂社
大神大后神社 須勢理毘賣命
神魂御子神社 多紀理毘賣命
伊能智比賣神社 蚶貝比賣命、蛤貝比賣命
門神社(東) 宇治神
門神社(西) 久多美神 寛文年間(1660年)まではアラハバキ社
素鵞社 須佐之男尊
氏社(北) 天穗日命
氏社(南) 宮向宿禰命
神魂伊能知奴志神社 神産巣日神 韓国伊太神社との説がある。
神大穴持御子神社 事代主神 配祀 御年神、高比賣命
大穴持御子玉江神社 下照比賣命
上宮 須佐之男尊 配祀 八百萬神
出雲井神社 岐神
因佐神社 建御雷神
湊社 櫛八玉神
釜社 宇迦之御魂神
十九社(東) 八百萬神
十九社(西) 八百萬神
下宮 天照大御神
大歳社 大歳神 配祀 八千矛神
祓社 瀬織津比賣神、速秋津比賣神、氣吹戸主神、速佐須良比賣神
杵那築森 大國主大神
大穴持伊那西波岐神社 稻背脛命 配祀 白兔神
阿須伎神社 阿遲須伎高比古根神
出雲森 八束水臣津奴命、事代主命 配祀 御子命百八十柱

拝殿

由緒
 『出雲国風土記』には、杵築郷として、郡家の西北二十八里六十歩なり。 八束水臣津野命の国引き給ひし後。所造天下大神の宮奉へまつらむとして、諸の皇神等宮處に参り集ひて、杵築きたまひき。故、寸付と云ふ。神亀三年に、字を杵築とあらたむ。とある。

 国引きを行った八束水臣津野命のほうがより始原の神のように思われ、この神は出雲大社では摂社の出雲森の祭神である。6月1日に行われる涼殿祭(りょうでんさい)は、本殿での祭典後、宮司や神官は本社東の出雲森に参向、椋の大樹を前に祭事を執行。帰路は御手洗井の場所まで真菰を敷くので「まこもの神事」と云われている。『日本の神々』で石塚尊俊氏は、神霊をお迎えする祭事のようだと書かれている。
 国生みに匹敵する八束水臣津野命への敬意であろうか。

 この神を主祭神とする神社は、國村神社(簸川郡湖陵町多伎久村)、富神社(簸川郡斐川町大字富村)、長浜神社(出雲市西園町)、諏訪神社(平田市別所町)の主祭神として祭られている。國村神社を別にして、他の神社は出雲國出雲郡の式内出雲神社の論社である。同時に同社韓国伊太神社の論社と言えるだろう。

素鵞社

 出雲國出雲郡出雲神社の論社としては出雲大社本殿の真後ろの素鵞社もそうである。すなわち韓国伊太神社の論社と言える。加藤義成氏校注『出雲国風土記』では、出雲神社を素鵝社とされ、御魂社を神魂伊能知奴志神社に比定されている。伊能智比賣神社の祭神が火傷から命を救った蚶貝比賣命と蛤貝比賣命の女神であることから、伊能知奴志神として、韓国伊太神即ち木の俣から根の国にお逃がした大屋彦神またの名の五十猛命とのお考えかもしれない。

本殿の後ろ姿

 素鵞社については、建立の時期が問題で、寛文造営以前(17世紀)の文献や絵には見られないようである。もっと小さい祠だったのかも知れない。八雲山から神楽殿方面へ素鵞川が流れている。素鵞社が江戸時代に出来たようには思えない。佐田の須佐大宮の側にも素鵞川が流れている。

 『島根県の歴史散歩』によれば、大社の主祭神は大国主大神であるが、これはまさに17世紀頃からで、それ以前の11世紀頃からは素盞嗚尊、さらにそれ以前は大国主命であったと云う。祭神交替のおり、素盞嗚尊を奥宮とも言えるこの場所にお遷ししたのかも知れない。
 延喜式神名帳で、出雲国出雲郡の筆頭は大穴持神社、次に杵築神社が現れる。この時期には杵築大社の祭神は素盞嗚尊だったのかも知れない。平安時代には素盞嗚尊、記紀が書かれた奈良時代には大国主命。

 『先代旧事本紀:陰陽本紀』には、速素盞嗚尊、坐出雲国熊野築杵神宮矣、と記されている。

 ここは国引きで新羅から国来国来(くにこくにこ)とやって来た土地。 日御崎から大社付近は新羅からの渡来人が居住しており、神々も渡来神である韓国伊太神が祭られていたようである。これらの形は同社神韓国と云う形の客神そのものであったようだ。同社神の名は多いのだが、国名がついているのは伊太神のみ。

 さて、大社の南側の海岸は薗の長浜であり、『日本語の悲劇』朴炳植著では、初めて(上陸した)浜の意と云う。 宮中の園神一座韓神二座の園神とは韓国伊太神、そうすると二座ある韓神とは、妹神の大屋津姫、抓津姫の事かも知れない。
 何故、五十猛命三座が宮中で祭られなければならないのか、この国土に樹種を播き、植樹を行い、緑化にあい務めた有効な神々と考えられていたから。

 出雲国造神賀詞は出雲国造が交替の際に宮中へ参内して挙げる祝詞で、国津神が天津神の後裔である王権に服属を誓う儀礼であるのだが、祝詞は天津神である天穂日命の後裔の者によって行われる身内の儀式のようでもある。
 各国にはそれぞれ国魂神(国玉神、国神)が鎮座しており、これらを代表して出雲國造が大名持神の名代として朝廷に服属を誓った。殆どのクニタマの神社は大己貴命を祭神としている。
 常陸國眞壁郡 大國玉神社
 壹岐嶋石田郡 大國玉神社
 伊勢國多氣郡 大國玉神社
 伊豆國那賀郡 國玉命神社 弟橘姫命
 和泉國日根郡 國玉神社
 能登國能登郡 能登生國玉比古神社
 遠江國磐田郡 淡海國玉神社
 山城國久世郡 水主神社十座 山脊大國魂命
 大和國山邊郡 大和坐大國魂神社三座
 對馬上縣郡 嶋大國魂神社
 尾張國中嶋郡 尾張大國靈神社
また、同義と思われる大穴(名)持神社は以下の通り。 
 大隅國囎唹郡 大穴持神社
 播磨國宍粟郡 伊和坐大名持御魂神社
 大和國吉野郡 大名持神社
 大和國葛上郡 大穴持神社
 穴・名は國の意、持は貴で玉とか魂の意、と解釈できるのだろう。

 讃岐の飯神社、筑前の筑紫神社、伊豫國の國津比古命神社などは国魂神であるが、個性的な名前。

 都合よく国魂の神が鎮座していればいいが、それらしい神社がない国については官製の国魂神社が出来たのかも。阿波の倭大國玉神大國敷神社、淡路の大和大國魂神社などは大和からの勧請と云う形で創建されたのであろう。

 さてさて、当の出雲大社即ち杵築神社は、やはり官製なのだろう。その地には先に大穴持神社が鎮座していたと思ってさしつかえはないのだろう。

瑞垣内の社殿

お姿
 早朝だったのであまり団体は見受けられず、神職・社人の方々が日課の掃除をされていた。かっては現在の社殿よりもはるかに高いとされており、見物であったろう。
 八足門前に発掘された柱跡が表示されている。雨の中、巫女さんに立ってもらっての撮影。

柱跡

それでだろうか、瑞垣の内側には木が一本植えられていない。

瑞垣内の楼門

お祭
 5月14日 例祭(勅祭)
 6月 1日 涼殿祭(真菰神事)
旧歴10月11日 神在祭 [通称]お忌祭 [神事名]天神祭
旧歴10月15日 神在祭 [通称]お忌祭 [神事名]天神祭
旧歴10月17日 神在祭 [通称]お忌祭 [神事名]天神祭
旧歴10月17日 神等去出祭
旧歴10月26日 第二神等去出祭

瑞垣内の社殿

平成二十年特別拝観 本殿の配置 天井の八雲の図



出雲大社 『平成祭礼データ』

八雲立つ出雲の国が神の国、神話の国として知られておりますのは神代の神々をまつる古い神社が今日も到る処にあるからであります。そして、その中心が「だいこくさま」をおまつりした出雲大社であります。だいこくさまは「天の下造らしし大神」とも申しますように、私達の遠い遠い親達と喜びも悲しみも共にせられて、国土を開拓され、国造り、村造りに御苦心になり、農耕・漁業をすすめて人々の生活の基礎を固めて下され、殖産の法をお教えになりましたし、医薬の道をお始めになって、人々の病苦をお救いになる等、慈愛ある御心を寄せて下さったのであります。だいこくさまは救いの親神さまであると共にすべてのものが自然の姿にあるように護って下さる親神であります。

 また、だいこくさまといえば出雲の神さま、出雲の神さまといえば縁結びの神さまと申しますが、この縁結びということは、単に男女の仲を結ぶことだけでなく、人間が立派に成長するように、社会が明るく楽しいものであるようにすべてのものが幸福であるようにと、お互いの発展のためのつながりが結ばれることであります。だいこくさまが福の神と慕われ、すべての人々から広く深く信仰をおうけになっているのも、この「むすび」の御神徳、即ちいいかえますと、我々に愛情を限りなく注いで下さる神さまであるからであります。だいこくさまは私達の家庭の親が、子供の幸福を願って教導保護するように、人間の幸福の「縁を結んで下さる」親神さまであります。

 このような御神徳をおもちになっている「だいこくさま」には多くの御別名があります。大国主神と申しあげる外に、大己貴神・大物主神・大地主神・大穴持神・八千矛神・葦原醜男神・大国魂神・顕国魂神・奇甕魂神・広矛魂神・所造天下大神・三穂津彦神・伊和大神・幽冥事知食大神等と申し上げます。これらの御神名にはそれぞれの御神徳があるわけで、大国主神の御神徳が如何に広く深いものであるかがわかり、福の神として、日本の永い歴史にあって変わらない信仰をおうけになっていることが知られるのであります。大国主神は多くの御別名がありますように、人々のために数限りない「むすび」の御霊力をおそそぎになって、住みよい日本の国土を築いて下さいました。豊葦原の瑞穂国と呼ばれるような、あらゆるものが豊かに成長する国を造り上げて下さったのです。この国造りの大業が完成すると、日本民族の大親である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国をおかえしになって隠退されました。そこで天照大神は国造りの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後は、この国の政治のことは私の子孫があたることとし、あなたは人々のために「むすび」の霊力を与えて幸福に導いて下さい。また、あなたのお住まいは天日隅宮と云って、私の住居とおなじ様式にして、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして建築しましょう。そうして、私の第二子の天穂日命をして仕へさせて末長くおまもりさせます。(日本書紀)と、申されました。そこで天照大神の御命令で諸神がおあつまりになって、宇迦山の麓に壮大なる宮殿を造営され、ここに大国主神は永久にお鎮まりになって、人々の幸福のために愛情をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をおうけになっています。そうして天穂日命の子孫は代々一系に大国主神のおまつりを司っています。この天日隅宮の外に出雲大神宮・巌神之宮・杵築大社・杵築宮・石之曽宮と称へられていますが、今は出雲大社と申します。

 本殿は大国主神の御事蹟に対して建てられた宮であり、御神徳にふさわしい比類のない日本一の大規模な木造建築であったと古事記・日本書紀という日本最古の書物にしるされています。九五〇年頃(平安時代)に出来た口遊という本によりますと、高さは東大寺の大仏殿十五丈をこえる一六丈にも達した日本最大の建物であったようであります。一二〇〇年頃(鎌倉時代)になってからは規模を小さくし、現在の本殿は高さ八丈六間四面で、一七四四年(延享元年、江戸時代)再建されたのであります。各神社の本殿中、最古の甚だ特異な様式であり「大社造」と呼ばれています。本殿の白木造りで簡素な直線的気高い姿は、今日でも壮観で圧倒的に印象を与えています。今よりも更に高大であった鎌倉時代以前の偉容は想像をこえたものであったでしょう。「雲にわけ入る千木」とか「この世のこととも覚えず」と当時の参拝者は驚異の眼をみはっています。
以上


参考 『日本の神々7』、『式内社調査報告』、『神国島根』

h15.7.1

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