玉作湯神社
松江市玉湯町玉造508 its-mo

鳥居

交通
JR玉造駅からバスで終点まで



祭神
櫛明玉神、大名持神、少毘古那神 配祀 五十猛神


拝殿

由緒
 意宇郡の式内社。風土記では玉作湯社知社と由宇社して記載されている。由宇社は同社坐韓国伊太氏神社のこと。

 風土記には、意宇郡の忌部神戸として、「忌部神戸、郡家の正西廿一里二百六十歩。國造、神吉詞を奏しに朝廷に参向する時、御沐の忌玉作る、故に忌部という即ち川辺に出湯あり、出湯の在る所、海陸に亘り男女老少、或は道路に絡繹り、或は洲に郡集いて市を成し、繽紛燕会。一濯すれば形容端正、再濯すれば万病ことごとく除く。古より今に至るまで験を得ざることなし、故に俗人神湯といえり」と記載されている。

 当社の根元は玉作神と湯神の二元信仰である。花仙山(199m)は新第三紀中新世に安山岩の溶岩が噴出、熱水を起源として碧玉と瑪瑙が安山岩中に脈状で出来た。特に碧玉の質は高く、出雲石と呼ばれる。湯と玉作とは偶然につながったのではない。
 境内には玉作部の足跡を示す遺跡が出ている。祭神の櫛明玉命は出雲国の玉作の祖と『古語拾遺』に出ている。

 神湯とは、神のおかげで湯が出ること。それ故医薬神の少毘古那神が登場し、共に国造りの大那持神も祭神として定着した。

 五十猛神は同社坐韓国伊太神社の合祀による。意宇郡に三社、当社、揖夜神社、佐久多神社、出雲郡にも三社、阿須伎神社、出雲神社、曽枳能夜神社である。


本殿 1857年造営

お姿
 西向きに鎮座。バス停終点から南へ分。境内全体が玉造遺跡。
 本殿の背後に土俵と浴槽がある。丸石があり、湯山主大神として大己貴神が祀られている。
 摂社の素鵞神社と同社坐記加羅志神社がまさに同じ社に同居している。


湯山主大神        素鵞神社・記加羅志神社
 


お祭り
 10月 10日  例祭


周辺の地図      遺跡の説明
 

『平成祭礼データ』

玉作湯神社と玉造温泉之由来

 一.玉作湯神社(内務大臣指定史蹟保存地)
御祭神、櫛明玉神(八坂瓊勾玉並に宝玉御製作の祖神)、大名持神・少彦名神(当地温泉発見、温泉守護、温泉療法、薬、秘呪の祖神)、五十猛神(同社座、韓國伊太弖社、植林・殖産・産業振興の祖神)。
玉作湯神社は、玉造温泉、玉造川東岸の小高い林の中に鎮座まします式内の古社であります。
「貞觀十三年十一月神階従四位下を授く」と三代実録に見え、現今は此の地の氏神で旧県社であります。
櫛明玉神は、天明玉、豊玉、羽明玉、玉祖神などの異称をおもちになって居て、天岩戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた八坂瓊之五百箇御統玉は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰がれ、此の地方に居住し、此の地の原石を採って宝玉の製作をお司りになったと伝え、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉命とあり)は道に出迎えて、瑞八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を御姉天照大御神に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作になったものと伝えています。
天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命之孫、御祈玉を作る。其の裔、今出雲國に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と記され、又同書に「櫛明玉命は出雲國玉作祖也」と見えています。
社宝1.上代各種玉類184点(重要文化財)2.上代玉磨砥162点(重要文化財)3.上代ガラス製造ルツボ片と上代ガラス一括(重要文化財)

二.玉造温泉
玉造温泉は少彦名命の御発見と伝えられ、JR玉造温泉駅から玉造川に沿って上ること約2キロ、玉造郷にあって玉造川の清流を挟み、要害山、花仙山の二山を負って多くの人家が相連なり渓間の一小区をなしています。
「出雲國風土記」意宇郡の条に「忌部神戸、郡家の正西廿一里二百六十歩。國造、神吉詞を奏しに朝廷に参向する時、御沐の忌玉作る、故に忌部という即ち川辺に出湯あり、出湯の在る所、海陸に亘り男女老少、或は道路に絡繹り、或は洲に郡集いて市を成し、繽紛燕会。一濯すれば形容端正、再濯すれば万病ことごとく除く。古より今に至るまで験を得ざることなし、故に俗人神湯といえり」と記されております。
以上

(注)文中のSIは、「石」偏に「止」です。

 参考 『神国島根』、『平成祭礼CD』、『式内社調査報告』


出雲石見の五十猛命
五十猛命ホームページ
神奈備にようこそ
inserted by FC2 system