須佐神社
和歌山県有田市千田1641

ウガ紀伊の神々 須佐之男神


交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→箕島
道路:有田湯浅線 千田 its-mo

 
祭神
素戔嗚尊

境内社 天照皇大神社、月讀尊社、伊太祁曽社(遥拝所) 他

須佐神社本殿(玄松子さん御提供)


由緒
 和銅6年、紀ノ川上流の大和国吉野郡の西川峯から遷座、当初社殿は海に面しており、 往来の船が恭順の意を示さない場合に、転覆させたりする事が多かったので、社殿を南向きに変えた所、 船は無事に航行できる様になったと言う。これは海賊行為そのものと見える。これは古代の徴税の姿であり、その権利を大和朝廷(から派遣された役人)に取って代わられた事を意味する。

 吉野山の神が紀の国の漁民の神になったのは、山の樹木神が船霊として祀られたのであろうと推測されている。 素盞嗚尊は記紀神話において海洋、船舶、紀の国の樹木神五十猛命とむすびついているのは、紀の国の沿岸の海人の奉じた神であり、海の果ての根の国から来訪するマレビト神であったからである。 「マレビト」が尊ばれたのは彼らの持つ技術、情報などだけではなく、後世の行商人、落人、修験者等もそうであったが、部族内婚を繰り返すことによる一族の血が濃くなるのを防ぎ、 新しい血を部族にいれる為にも、マレビトに土地の娘が提供され、伽を行ったのである。新しい血が貴重であったのである。

 素盞嗚尊が根の国から現れる神である事から、高天原神話では、幾多の罪穢の元凶とされ、また日の神の魂を奪う神と同一視されたものとしている。*1

 一方、素戔嗚尊を海人の頭目(海賊)とし、南紀から徐々に北上して紀ノ川から大和に入り、ここで出雲王朝を建国したとの夢のある説を唱える人もいる。

 また、松前健氏は、スサノオの原郷を出雲ではなく、紀ノ国に求めている。 これは出雲飯石郡の須佐神社の格式は小社であるのに対し、紀の国在田郡のこの神社の格式は大社とされている事に朝廷での重要性の認識に差があり、 やはり素盞嗚尊の原郷を紀の国に置いていたのものとの理解からである。

 延喜神名式による紀の国と出雲の国の主な共通する神社
出雲意宇 熊野大社  紀牟婁 熊野本宮大社
出雲大原 加多神社  紀名草 加太神社
出雲意宇 韓国伊太神社  紀名草 伊達神社
出雲意宇 速玉神社  紀牟婁 熊野早玉神社
 熊野社は同格、他は紀の国の方が格式は高いのである。両地域の共通性は神社や地名に多く残っており、古来からの関係の深さを示している。 松前氏は紀の国から出雲への流れと見るが、宮地直一氏は出雲から紀ノ国へと逆の移動の説である。

 豊臣秀吉が紀洲を攻めた際、紀ノ国の殆どの神社の社殿と古文書は焼失した。言い伝えしか残っていない。 これに加えて、かの南方熊楠翁が猛烈な反対をした神社統合の暴挙で和歌山の神社の歴史・由来は取り返しのつかないダメージを被ったのである。

 なお近くからは千田銅鐸と数十本の鉄刀が出土している。近くに出雲という小字があった。

お姿
漁村の千田の中雄山中腹に鎮座。確かに海の近くではあるが、海は見えない。海からも山影になって社は見えない。
大きい社殿であり、かつ新しく建てなおされており、檜と銅とが輝いている。南国らしい照葉樹林の杜の豊かな社叢である。


新しい社殿



伊太祁曽社遥拝所


お祭り
10月14日 千田祭  鯛投神事もしくはけんか祭と言われている。伊太祁曽神社から氏子代表が来る。翌日の伊太祁曽神社の祭にはここの氏子が赴く。

紀伊国名所図会やら


紀伊續風土記 巻之五十八 在田郡 保田荘 千田村から
○須佐神社  境内方四町四十間 禁殺生
 祀神 素盞烏尊
 末社十社
  天照大神      手力雄命
  伊弉諾尊 相殿        相殿  日本武尊社
  伊弉册尊      月讀尊 
      以上瑞籬の内にあり
  瀬織都理比賣社  多紀理比賣社  市寸島比賣社
  多紀都比賣社  宇迦御靈神 軻遇突知命 相殿 大巳牟遅名社
  猿田毘古命社
      以上社地の内所々にあり
  神楽所  宿直所  與舎
  四脚門  寶 蔵  御太刀寶蔵
  御装束間 御祈祷所 厩
  伊太祈曽神社遥拝所
 延喜式紀伊國在田郡須佐神社 名神大 月次新嘗
 本國神名帳在田郡従一位須佐大神
村の西南小名西方にあり保田荘五箇村の産土神にして劔難の神と稱す劔難除の神符を諸人に與ふるを古例とす郡中の大社なり郡中當社の外式内の神社なし 三代實録貞観元年(859年)正月二十七日甲申奉授紀伊國従五位下須佐神従五位上とあり此地古須佐郷といひ今又近郷に宮崎等の名遺れるも當社あるを以てなり詳に宮崎宮原兩荘の總論に載す 又栂[トガノ]尾明恵上人傳記建仁元年(1201年)の條に紀州保田荘中の須佐明神の使者といふ者夢中に來りて住處不浄を歎く事あり 是古より今の社地に鎭座の明證といふへし 社家の傳に和銅六年(713年)十月初亥日此地に勧請すといふ 社記曰此神舊在大和國芳野郡西川峯後移于此始祠向西海洋中往來之船不恭謹則飜覆破碎 元明天皇勅令南面今之社規是也とあり
寛永記に名草郡山東荘伊太祈曾明神神宮郷より亥森へ遷坐し給へる年月も是と同しきは故のある事なるへし當社領古は伊太祈曾神戸に接して名草郡にあり其地又當社を勧請せり 詳に名草郡山東荘口須佐村の條に辨す合せ考ふへし 天正の頃(1573年)まては毎年九月初寅の日神馬十二騎山東伊太祈曾より來りて神事を勤めしといふこれ古の遺制なりしに今皆廢せり又日高郡富安荘當社及伊太祈曾神領なりし事あり 伊太祈曾社蔵久安文書是當社伊太祈曾の父神に坐すを以てなり
天正七年(1579年)豊臣秀吉公信長公の命を受けて此地を畧せる時湯淺の地頭白樫左衛門尉實房内應をなし里民を強暴し神祠を毀壊す 社家大江氏重正といふ者神器靈寶及縁起記録等を唐櫃二具に蔵め今の神祠の後光谷といふ谷の林中に隠す 實房これを捜り出し或は火に投じ或は海水に没し亂虐殊に甚し これに因りて當社の傳記文書の類一も傳はる者なく古の事蹟詳にするによしなし 其後神殿を造營し今の姿となる 社領没収の後も祭祀古の姿を模して九月十四日神輿渡御の祭禮流鏑馬等皆一時の盛なるを極むといふ 元和年中(1615年〜)新に社領五石を寄附し給ひ 享保年中(1716年〜) 大慧公より御太刀御奉納あり 有徳大君御太刀一口御馬一匹を御寄附あり 社務を岩橋安藝守といふ大江姓にして古より代々神職なり



*1 日本の神々(松前健)中公新書
*2 和歌山県神社誌


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