道相神社
京都府南丹市美山町宮脇ヒノ谷43-1 google

鳥居



交通案内
南丹市営バス宮脇 南50m



祭神
神日本磐余彦命、五瀬命、軽野皇子
『京都府北桑田郡神社明細帳』神武天皇、五十猛命、軽野皇子
摂社
 左 三吉神社 天村雲命、五十猛命、熊野高倉事、須佐之男命
 右 若宮神社 天屋津姫命、抓津姫命 (注 天屋津姫命とあるが大屋津姫命であろう。)

 上 垣森宮

由緒
 宮脇を北流する原川の東方山麓に鎮座、祭神は木梨軽皇子・神武天皇・五瀬命。旧郷社。
 社伝によると允恭天皇の皇子木梨軽皇子が、故あって一〇余年間河内谷に潜居、その後軽野(現大字王内)を経て宮脇に移ってここを永住の地と定め、一社を創建して軽野神社と名付け神武天皇と五瀬命を祀ったのに始まるといい、これは武烈天皇即位の二年のことという。後に郷民が皇子の遺徳を慕い、皇子を合祀して道相神社と改名したと伝える。ちなみに木梨軽皇子は次弟穴穂皇子(のちの安康天皇)との皇位継承で争い、敗れて伊予の湯(道後温泉)に流刑、その地で没している。
 社名から推察すれば道祖神信仰との融合と考えられる。応永一五年(1408)火災にあい、社殿・古文書ことごとく焼失。文政五年(1822)に改築したのが現在の社殿である。

拝殿



  お姿
  本殿は西向き、神明造、檜皮葺、桁行梁間各三間。拝殿は草葺、間口二間・奥行三間、鏡天井。

 栢の巨木が神木のようだ。杉・樫など木々が大きい。鎮座地は美山町に神楽坂トンネルを越えてしばらく来た場所で、この辺りから道は東西に分かれている。まさに道祖神の織られる所。本殿の上に鎮座の祠(垣森宮)に道祖神が祀られているのだろう。

本殿


摂社 三吉神社


摂社 若宮神社


摂社 垣森神社


祭り
例祭   4月30日 2日間  太刀振り 5月1日には神楽が奉納され太刀振・笹ばやしの神事が行われる。
秋祭り 10月下旬の日曜日

神社本庁平成祭りデータCD

 当神社は伝承古文書によりその由来が明らかにされ近郷最古の歴史を持つとされている。又本殿破風には菊の御紋章を奉戴しその尊厳を弥が上にも崇め産土の神々を御祭神とし古代よりこの地方の総氏神として崇拝されて来た御社である。

 当神社の由来は第十代崇神天皇御宇<前九七年〜前三〇年>に四道将軍の一人としてこの丹波地方に遣わされた丹波道主命がこの地方開発のためここ宮脇の地に野々宮御所を創建されたのが起源とされている。爾来二千年、時代の変遷と共に御社名も野々宮、道主一ノ宮大明神、軽野神社そうして延長七年<九二九年>に道相神社と改名したとされている。今の社殿は文政五年、野々村三十三ケ村[大野、河谷、岩江戸、向山、樫原、小渕、萱野、肱谷、音海、小笹尾、嶌、宮脇、原、市場、和泉、棚田、板橋、下吉田、上司、沢田、中、大内、安掛、上久保、下平屋、上平屋、野添、深見、長尾、荒倉、砂木、栃原、棚、今宮、亦林]氏子の尊い寄進により再建されたのである。又一際参拝者の目を引く山門は寺院造りであり神仏混淆の時代<七〇〇年〜一八六八年>に建立され明治三十五年<一九〇二年>復元往時の名残を今に留めている。氏子たちは毎年十月九日を例際日とし秋の豊穣を祝いあって来た。とりわけ大正二年<一九一三年>には郷社昇格を祝い、昭和四十四年<一九七〇年>には軽野神社創建千五百年を記念して共に大祭を執り行って来たところである。更に本年平成四年<一九九二年>は氏子総参加の元に古代を追憶しつつ、野々宮御所創建二千年記念大々祭を執り行うべく、着々とその準備を進めている。 今、この静かな鎮守の森は先人達によって築かれた尊い長い歴史の重みを秘め丹波美山の人々の幸せを見つめつつ二十一世紀という新たな時を刻もうとしている。

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