林田八幡神社
姫路市林田町八幡 mapfan

鳥居

交通案内
神姫バス 林田経由山崎行き 六九谷下車 東へ800m


祭神
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后 配 五十猛命


摂社
高良神社「武内宿禰 配 吉備津彦神」
松尾神社「大山咋命、木花開姫命 配 市杵嶋命、蛭兒命」

神域


社頭掲示の由緒
 社伝によれば、寛平五年(893年(林田庄内八ヶ村の有志三十六名が山城石清水八幡宮より神体を勧請したという。三十六名の子孫で町内に在住している人々は小烏帽子とよばれ、年二回遥拝式を行うなど当社の神事に深く係わってきた。
 江戸時代の藩主建部氏は十代二百五十年にわたり当社を産土神・祈願所として崇敬し、政宇、政賢、政醇らが石灯籠や絵画などを奉納している。
姫路市教育委員会


由緒
 『播磨国風土記』の揖保郡の条に林田の里が出ている。
 もとの名は談奈志(いはなし)。談奈志と称するわけは、伊和大神が国を占めなされたとき、御志(みしるし:めじるしの棒)をここに突き立てられた。それからついに楡(いはなし)の樹が生えた。だからこの里を談奈志と称する。

 『風土記』地名説話集でもあるが、『播磨風土記』では伊和大神と品太天皇の話が多い。国津神と天津神とが交叉して地名説話に登場しているのであるが、この林田の八幡神社の祭神もいわゆる八幡関係の三神に武内宿禰を配した天津神系と五十猛命、大山咋命の国津神系が配されている。所が前に紹介した姫路市教育委員会の社頭掲示には祭神の名には主祭神ではない五十猛命は記されていない。これでは只の八幡宮と思われてしまう。 その昔の開拓神を配しているのがこの神社の値打ちだと思うので、是非五十猛命の名を入れてほしいものだ。

 祭礼に中臣印達祭がある。いわれは承知していないが、中臣印達神社の印達神とは五十猛命とみなされており、配祀祭神の五十猛命とこの祭礼とは無関係ではないと思われる。

本殿


お姿
  姫路駅からのバスで山崎方面に乗ったのだが、バス道からはほとんど神社らしい神社はお目にかからなかった。バス道は川沿いの道であり、山裾を走っていないからかも知れないが、他の地方とは違う印象であった。その分、神社それぞれは氏子地域も広いのだろうが、大きい神社があるようだ。
 林田八幡神社については理由のない勝手な想像だったが、小さい神社を予想していた。所がそうとうな規模の神社であり、山門、社殿、摂社、立派な様子だった。南側に神奈備山らしい優美な山があり、北側の山との間に鎮座しているように見える。境内はそれらの山も含まれるのだろうか、多くの種類の鳥が来るそうである。


お祭り
 厄除け祭  2月19日(高良神社)
 中臣印達祭  4月15日
 例大祭   10月 9、10日

社殿 上段には摂社が並ぶ


平成祭礼データから

八幡神社
御由緒
その創立は宇多天皇の寛平五年(八百九十三年)五月林田庄内(現在の林田町)であ る六九谷、口佐見、奥佐見、林谷、林構、松山、山田、大堤の八ケ部落の雄姿三十六 名国土安穏、子孫繁栄の為神祇を祈る思が強かった。その時今の鎮座地の中の峯に鈴 の鳴る音が頻に聞え、東の峯に鉾が立ち、西の峯に白羽の矢が立った。ここに有志の 評議が一決し、山城国石清水八幡宮の分霊を勧請し奉るために此の社地より南十町の 所に湧出する泉(塩阜)に沐浴潔斎して山城国男山に上り八幡宮の分霊を勧請供奉し て還った。
時に寛平五年八月十五日である。同月二十八日社地を定め幣物を捧げ、再び九月二日 三村左近藤原兼久以下三十五人列座して神酒を捧げ、同月八日仮殿を設けて遷し奉る 。是が当社の創立である。
以上

 


 『風土記』吉野裕訳 平凡社

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