加良比乃神社
三重県 津市大字藤方字森目335 ゼンリン


鳥居



交通案内
近鉄 南が丘から南東20分 または津ー小森上野経由警察学校前行きバス「藤万」下車西4分



祭神
御倉板擧神、伊豆能賣神、天照皇大御神、大山祇神、大物主大神、水波能賣神、宇迦之御魂神、建速須佐之男命
配 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳尊、天之穗日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、市杵嶋比賣命、多岐都比賣命、天兒屋根命、應神天皇



由緒
 式内社。垂仁天皇皇女倭姫命、天照大御神を奉戴しての遍歴の際、此処に神殿を設けたが、水利不便ゆえ、樋をもって通す故に、片樋宮と称した。社名の謂われである。
 四箇年後、大御神の神託あり他所に遷座したが、宮跡に御倉板擧神、伊豆能賣神の二柱をお祭りして、加良比乃神社と称した。
 明治末期に周辺の神社を合祀した。

 さて、この社が五十猛命を祀る神社の一つとしてここに登場するのは何故か?
 柳田國男が明治末期に発表した論文の『「イタカ」及び「サンカ」』が発端である。
 津軽にては婦人の神を祭る者を「イタコ」と呼べり。(中略)イタコの語原に関する自分の仮定説は左のごとし。イタコはアイヌ語のイタクに出づるなるべし。 (中略)
 さらにこれを本邦の古典に徴するに『古事記』諾尊得三貴子の条下に即御頸珠之玉緒母由良邇取由良迦志而。賜天照大御神而詔之。汝命者所知高天原矣。事依而賜也。故其御頸珠名謂御倉板挙之神とあり。 御倉は神几にて祭壇の義なるべし。 この板挙之神は古註に多那と訓めあれど義通ぜず。おそらくはイタケの神にして、姫神が神父を拝祀したもうに、この遺愛の物を用いたまいしことを意味するならん。
 また紀州の国幣中社伊太祁曽神も社伝には日前・国懸の二神斎祀の時に現れ来たまえりといえば、すなわち一種の斎の神なるべし。 この神と五十猛命と同じという現今の通説は、単に『日本書紀』の中に、五十猛命を即紀伊坐大神是也とあるに拠れるのみ。 伊太祁曽はイタキソにして、イタケソにあらざることは、『倭名鈔』の郷名に伊太杵曽郷とあるもその一証にして旁素尊御父子この国に祀られたまえりとて、ただちに伊太祁曽をもってこれに充つるあたわざるを思うべし。 伊太祁を五十猛なりとせば、曽の字すこぷる解するあたわず。 けだし五十猛は別に父御神の斎祀に与りて、この名を得たまえるなるべく、あたかも後世八幡に若宮あり、熊野に王子あると同じくこれ等のイタキ、イタケはすべて皆御子思想に胚胎せる霊巫の名称にほかならざるべし。

 御倉板擧神を五十猛命とする柳田國男氏に敬意を表してここに採録した。

本殿(神明造)



お姿
 神紋は「下り藤」。こんもりとした鎮守の森になっている。社殿は昭和26年に復興の神明造の荘重な雰囲気を出す。

拝殿



お祭
例祭 10月17日  春祭 4月16日
 
参考文献 三重県神社誌

五十猛命ホームページ
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