男乃宇刀神社 おのうと
大阪府和泉市仏並町1740 ゼンリン

鳥居



交通案内
JR府中駅南300M、南海泉大津駅もしくは泉北高速泉中央駅より槙尾山方面行きバス「神社前」下車



祭神
彦五瀬命、神日本磐余彦尊、五十瓊敷入彦命

摂社 八坂神社「速須佐之男命、應神天皇、奇稻田姫命」
  摂社 琴平社「大物主命」
  摂社 市杵嶌社「市杵嶌姫命」
末社 抓津姫命
末社 五十猛命
末社 大屋津姫命、天津彦根命
末社 三穗津姫命、少彦名命
末社 倭比賣命、天兒屋根命
末社 大山祇神
末社 菅原道眞、八重事代主命
末社 (配祀)疫神

拝殿


由緒
 式内の男乃宇刀神社は二座である。一座は当社で彦五瀬命を祀る。もう一座は下ノ宮にあり、神武天皇を祀っていたとされる。
 彦五瀬命は神武天皇の兄で、東遷の際、生駒山で長随彦との戦いで矢傷を負い、当地の豪族横山彦がここに迎え、駐輦したとの縁起により祀られていると社伝にある。  五十瓊敷入彦命はこの地を領した縁故によって元慶年間(877〜)に奉祀された。この垂仁天皇の王子は刀を1000本を鋳造し、石上神宮に奉納したと伝えられている。 ここより南の南海本線淡輪駅の近くに「宇土墓」古墳があり、命の墓とされている。

 「男神社」が南海本線樽井駅近くにあり、やはり五瀬命と神武天皇が祀られている。

 延喜式内社で神武天皇やましてや垂仁皇子の五十瓊敷入彦命を祭神とする神社が選録されているのだろうか。『諸陵寮』では、陵があるのは瓊々杵尊以降であり、高天原に留まっていた天忍穂耳尊以前には陵がない。神社がある。天忍穂耳尊は香春の忍骨神社の祭神である。本来の祭神は摂社・末社に祀られているのかも知れない。
 五十猛命兄妹等を祀る末社が数座鎮座しているが、御神体の失われた祠、ましてや祠別の神名は不明。
 摂社としては八坂神社と厳島神社がある。

本殿




お姿

 西国三十三霊場四番札所の施福寺への道筋に鎮座。
 鳥居をくぐり急な石段77段をようやく登りきると一寸した空間に出る。その向こうに大きい拝殿が目に入る。
 更にその背後を大きく覆っている木々に圧倒される。楠、杉などである。 拝殿をくぐると祈祷殿があり、その後の本殿は風格がある。流造である。
 神主の祝詞の声が聞こえていた。

 摂社、末社は数多くある。社名、神々の名を記したものは一つもなっかた。

末社群



お祭

秋季例大祭 10月10


『平成祭礼データ』男乃宇刀神社


由緒書
 本社は延喜式神名帳に記された男乃宇刀神社二座のうち一座で、御祭神彦五瀬命は神武天皇御東遷に随従して当地に駐輦し給うた縁起により奉祀せられ、五十瓊敷入彦命もこの地を領せられた縁故によって元慶年間に奉祀された。 明治十二年の神社明細帳に「彦五瀬命、長随彦を征し給う時、官軍を横山彦出迎へ行宮を造る其時御狩し玉ひし所御狩山と言う、今のカリ山之なり此地に神興渡御所在地有之」と記され、また和泉名所図会等にも、神武天皇が長随命を征した時、皇兄五瀬命が流矢に傷つき、軍を反した時、横山彦がこれを奉迎して当地に行宮を営んだと述べられている。 当社はこのように延喜の制小社に列した由緒ある古社で、明治六年郷社に列せられ、また明治四十年一月神饌幣帛料供進社に指定された。
 男乃宇刀神社二座のことにつき、神社明細帳に、男乃は兄乃にて五瀬命を仏並に祀し奉り下之宮と称したと述べられている。
 また同明細帳に「文禄年間に神跡山脈の中央に道路を開拓せしより字切坂と称する所に横山鎮護の神として遷し奉り其後に牛頭天王を奉斎して八坂神社と称し奉りしが明治四十五年五月遷幸し奉りて八坂神社に合祀す。かかる深き縁をもって昭和二十一年九月三日下之宮座神社(八坂神社下之宮座男乃宇刀神社)を当仏並男乃宇刀神社に合祀し奉斎せり」とあるように戦後男乃宇刀神社に併合し奉って社殿拝殿は堺市方違神社に移され跡地は当初横山中学校、のち横山高校の敷地となった。
 下宮「神宮寺」の門前一角に「八坂神社旧蹟」の建碑があるのはこれである。また明治維新まで仏並男乃宇刀神社の境内にも「常願寺」という宮寺があり宇治川合戦先陣の功賞で横山荘を授けられた佐々木高綱の建立といわれ当寺を菩提所としてのち出家し住職をしたといわれている。
  以上


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