大阪府の五十猛命

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河内茨田 守口市土居 守居神社 祭神 新羅明神・三井神(五十猛尊)

摂津豊島 池田市吉田町 細川神社 祭神 細川水大神、五十猛尊

摂津豊島 池田市鉢塚2丁目 五社神社 祭神 国常立尊、速素戔嗚尊、五十猛命、住吉大神、穴織大神

摂津能勢 豊能郡豊能町木代 走落神社 祭神 天照大神、建速素戔嗚命、五十猛命、水波能売神 外六神

摂津西成 大阪市浪速区元町 難波八坂神社 祭神 素戔嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子命

摂津西成 大阪市東淀川区東中島 中島惣社 末社若宮社 祭神 五十猛神、大屋津比売神 他

摂津住吉 大阪市住吉区庭井町  大依羅神社 祭神 大己貴命、月読命、垂仁天皇、五十猛神

和泉大鳥 和泉市仏並町  男乃宇刀神社 祭神 末社 五十猛神、大屋津姫命



 守居神社
大阪府守口市土居町61番地mapfan

鳥居

交通案内
京阪電鉄土居駅 北西300m


祭神
素盞嗚尊、賀茂別雷神
『社記』 天道神・太歳神・歳殺神、また素盞嗚尊・三輪明神・清瀧明神・日吉権現・新羅明神・三井神

拝殿



由緒
 祭神の一説に新羅明神・三井神とあり、近江の園城寺(三井寺)の鎮守である新羅明神をして、五十猛命としたので、当社の祭神をも五十猛命かも知れないとして参詣した。
 この近くを高瀬川(淀川)が流れていた。 『播磨国風土記』賀古の郡に、大帯日子命(景行天皇)が川摂津の国の高瀬の済(渡し)から、この川を渡ろうと思って渡し守に頼んだ。 紀伊国生まれの渡し守の小玉が「あなたの贄人(召使い)ではない。」と主張、渡し賃を取った話がでているが、 この地域即ち淀川の水運を司っていたのが紀氏の一族であったことを示している説話であろう。 紀氏の跋扈する所、紀の国魂あり、即ち五十猛命が祭神であってもおかしくはない。

本殿


お姿
 土居駅北側の商店街の一角に鎮座、参詣客が絶えない。 鳥居をくぐると右側に由緒ありそうな石が祀られている。『社記』に、西南石礫(せいなんせきれき)の渕で、「我天道神也、我を祀れと振鈴の声で告げがあった」とある神の降臨の石かも。 月例祭の日であったのでか、境内は清掃が行き届き、玉砂利をしいてある場所などへの立入禁止も守られている。 境内は広く、木々も豊かで、下町の鎮守として大切にされているようだ。


お祭り
 10月20日 例祭

磐座


『平成祭礼データ』守居神社


当社は醍醐天皇延喜十八年九月十九日(九一八年)此の地に鎮座して、素盞嗚尊・賀茂別雷神をお祀りしてあります。 社記に天道神・太歳神・歳殺神、また素盞嗚尊。三輪明神・清瀧明神・日吉権現・新羅明神・三井神とも書いてあります。いづれも淀川流域の守護神として此の地に土居を築き社殿を構えてお祀りされたのが創りで、地名を土居の庄と称し、昔は土居神社と称号されておりました。
明治五年八月に守口町大字土居字田東(現在の滝井)産土神社(祭神素盞嗚尊)を、また明治四十年十月十日に守口町字猿島(現在の桃町)大隅神社(祭神賀茂別雷神で昔は渦神社と称していた)が合祀されてより守口の総氏神として守居神社と改称されました。
当社の社記によりますと、後宇多天皇建治年間(一二七五年)釈法仍沙門、当社を以って神佛護法の道場とし、霊感によりて本地垂迹説を称へ三社の神体を奉じて祈祷修法を行い「神威の高貴なること他に異にして、親しく横難中夭の危を救い給う、諸願満足すること幾千万と云う数を知らず」と記されてあり往時より御神威の赫々たる事が伺い知られます。
後小松天皇嘉慶年間(一三八七年)此の地方にも兵乱起り疫病頻りに流行したので人々殺生五辛を禁断し僧不閑沙門当社に祈願して災厄を静め難を遁れたとされています。
次いで後花園天皇寛正四年(一四六三年)再び悪疫流行のあった時、嘉慶の例にならい悪事災難を除く為に美花を作りて祭祀を修し、鎮花の災祭を行ったとあり、現今の夏祭として今に伝えています。
天文十三年(一五四四年)に林海の記した当社の由来記、又寶暦十三年(一七六三年)圓龍の写書等によりますと、天文十三年七月九日前代未聞の大洪水があり大門鳥居流失し社殿失損寳殿流損したので地方に寄進を仰いで辛うじて其の社域を再興した。この時まで王城守護として北東向きであった神殿を南向に、寶殿を改造し営構したが昔日の結構には遥か及ばなかったという記録がみえます。
昭和九年九月二十一日の室戸台風で社域の惨状恐懼の至りと成ったので氏子崇敬者の寄進を仰いで境内地を拡張し現今の社殿に造営営繕が進められ昭和十六年十月総工事竣成し遷座奉祝祭が盛大に執り行われました。
昭和二十三年六月当社奉賛会結成発足、爾来、逐年境内整備・社務所新築・社殿屋根造替・石玉垣・社號標建立・手水舎造替・大石磨鳥居建替・狛犬燈籠奉献等諸施設竣成し、遠近の参詣者は日増しに多く、諸願満足・悪疫防除・災厄解除・開運繁栄・福徳守護の御神徳益々輝いています。



参考:『守居神社御由緒』





細川神社(ほそかわ)
池田市吉田町 ゼンリン

鳥居

交通案内

阪急池田よりバス久安寺方面木部下車西北500m

祭神

細川水大神、五十猛尊
『大阪府史蹟名勝天然記念物』では細川水神、素盞嗚尊、菅原道真公。

由緒

 摂津国豊島郡の延喜式内小社に比定されている。『摂津名所図会』には、「吉田邑慈園寺山にあり。延喜式内。今毘沙門天と称し、久安寺奧院とす。」とある。
 創建年代は天平年間(729〜748)以前と『大阪府全志』にある。
 
 池田市は古代、「秦氏」の居住地であり、井口堂の二子塚古墳(6世紀)は新羅によく見られる双円墳であり、鉢塚の鉢塚古墳も古墳時代後期の一辺40mの日本屈指の大きさの上円下方墳である。これは「秦氏」の勢力を物語る。山城の大酒神社は秦氏の祖神を祀った神社であるが、別殿に呉織・漢織の神が祀られている。それと同じように近くの伊居太(いこた)神社には穴織大明神が祀られ、呉服(くれは)神社には呉服大明神が祀られている。

 平安中期の坂上氏の一族土師氏が土着し、その伝承を持ち込むとともに、秦氏の伝承を引き継いだものであるとされる。
 秦氏や坂上氏とこの細川神社との関係は明らかではないが、坂上田村麿は蝦夷征服の道筋で五十猛命を勧請している。強いて祭神の由緒にこじつけれるか。

 鎮座地は吉田と呼ばれる池田市北部で、細郷と言われていた地域。土地が高く水はけがよいので風水害などのよる大きな被害もなく、植木の栽培・出荷を主な生業とする農村部である。植木業の歴史は戦国時代に遡る。
 『摂津名所図会』に、細川地区は「名産種樹、細河谷より出づる。京師・浪速及び諸国へ出す。都てこの辺の地理、北の方山岳多く寒さを防ぎ、南の方晴れて陽気早し。故に諸木繁生の名地まり。」とまとめている。
 細郷は日本最古の植木の産地とされている。ここに植林の神である五十猛命が祀られているのはうなずけるのである。当社の御神体は船具と言う。浮き宝の神であり、渡しの神でもある五十猛命に相応しい。
 いずれにしても五十猛命の勧請時期は植木業が繁栄して来た江戸時代のことと思われる
 また物部氏の為奈部首の斎祀った神社との説がある。*1

拝殿

お姿

 旧吉田橋を西に渡り数百メートル程すすみ、北の山の方へ行くと赤い鳥居が見え、その奥に木々に埋まった社殿が見える。 社殿の背後は山裾であり、檜などの多くの木々が密集している。 社地は広くないが、掃除が行き届き、誠に美しく保たれている神社である。
 余野川を遡れば高野山真言宗久安寺がある。朱塗りの楼門は国の重文、密教教学の曼陀羅思想の庭は四季折々の花が咲き乱れる。名刹である。

本殿

お祭り
 古代の名残である禰宣制度が伝わる。東山から11名、吉田から3名が選ばれ、年長者が神職となる。


  夏祭り 7月
  秋祭り 10月

*1 大いなる邪馬台国(鳥越憲三郎)講談社
大阪府神社史資料
大阪府の歴史散歩(山川出版社)
大阪府の地名(平凡社)


五社神社
池田市鉢塚2丁目4番28号 ゼンリン

鳥居



交通案内

 阪急宝塚線石橋より 西へ10分一乗院を北へ3分



祭神

国常立尊 相殿 速素戔嗚尊、五十猛命、住吉大神、穴織大神
「大阪府神社資料」では五十猛神ではなく八十猛神と記している。

拝殿



由緒

  奈良時代、聖武天皇の神亀元年(724)に僧行基が、この地に多羅山若王子(釈迦院)を創建し、その鎮守社として五社神社を奉祀した。 天正年間兵火にあい焼失したと言う。
池田の里は秦氏の活躍した土地柄で、機織や造船などに従事したもよう。木材の育成には今日まで産業として盛んなようで、近くの細川神社などにも五十猛命が祭られている。
 また一乗院と言う真言宗の寺院も近くにある。

 この神社から北へ2kmにある久安寺は神亀二年(西暦725年)、聖武帝勅願で行基の開創。後に久安元年(西暦1145年)近衛帝勅願賢実により中興という古刹。

 行基は堺市家原寺が本貫地で天智7〜天平勝宝元年(668〜749)の生涯で四十九もの寺社を建てた僧で、父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出自。 灌漑利水の施設を多く作り、農業生産の向上を指導したことなどで行基菩薩と呼ばれるほど、民衆の絶大な信頼を集めたので、国も東大寺大仏建立事業には、行基の力を抜きには出来なかったと言う。 その出身と事業を描いた、家原寺所蔵の「行基菩薩行状絵伝」三幅は、国の重要文化財に指定されている。



お姿

 本殿の真後ろに古墳がある。上円下方墳と言う珍しい形で、巨大な横穴式石室を持つ。6〜7世紀頃のこの地方の豪族の墓と推測されている。鎌倉時代に作られた石造の十三重塔が玄室内にあり、重要文化財に指定されている。平成13年の参拝時、社殿は再建中であり、古墳の中へ容易に行けたが、再建後は行けない。

本殿



古墳の中の奥宮

 古墳は上円下方墳という特異な墳形と巨大な横穴式石室を有する大阪府下有数の古墳である。その兆域は五社神社境内に含まれ、南西の周濠や墳丘の一部が削られている以外は累々完好な状況を保ち、周濠の形跡も明瞭である。

狛犬の顔
 



 浪速形の狛犬としては最も愛想のいい狛犬とされている。天保五年(1834)でm、体長約m、阿形の愛想がいい。砂岩。


お祭り

例祭 

大阪府神社史資料


池田警察署HP

平成17年7月23日


 走落神社(はしりおち)
豊能郡豊能町木代 ゼンリン



交通案内

 茨城余野線木代

祭神

天照皇大神、建速素盞嗚尊、少彦名命、稻倉魂神、五十猛大神、水波能賣神、白山姫神、應神天皇、天武天皇、武内宿禰命

由緒

 小玉神社の地に藤森神社の本殿を移したものである。

 社伝によるとこの神社の鎮座する木代庄は、平安時代末期、貝川三位長乗が一族三十六人を率いて、 都より来り開発の鍬を打ち込んだのが始まりと伝えられている。 そして木代、切畑、大円という三村を開発した。 この時の三ヶ荘の氏神として、木代庄大円村に延喜式内走落神社を創立したとなっている。

 かって式内社とされた走落神社は既に失われていたのであろう。再建したと理解できる。

 神社の説明によると「走落」の社名と走落神社周辺の地名等から走落神社創生当時、 その近辺に病気に効験のある冷泉か、温泉が湧出しており、湯治に集まった人等の尊崇を集めた神社ではないかと思うと解説されている。 先ず「ハシル」は、万葉集でも「岩走る垂水の」等、水の流れる形容に使われており、 この様な事から「水が流れ落ちている所にある神社」ということが考えられる。 又、走落神社が三社に分散した時の一社に「走湯天王社」があり、 この社名は“湯が迸り出ていた”と解することが出来る。とある。

 五十猛命が祀られている由緒は今となっては解らないのであるが、能勢の山中であり、 また地域の名前が「木代」であることからも、植林製材に関わる民人が奉戴したものであろう。

お姿

 鳥居から石段を30段ほど登ると三間社流造の立派な社殿がある。 大きい檜が社地内に多い。たたずまいの良い神社である。


社殿


鳥居




お祭り

例祭 10月15日



 難波八坂神社
大阪市浪速区元町2-9-19 its-mo



交通案内
難波駅 南西500m

祭神
素盞嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子命
それ以外多くの神々

由緒
 古来、難波下の宮と呼ばれていた。仁徳天皇の御宇、難波の地に悪疫流行した時に、この難波の浦の万木森々たる所の松ノ樹に牛頭天王の霊地との文字現れ、ここに社を設けて大神を祭祀したと伝えられている。 また、姫路の広峯神社より京都の八坂神社へ勧請する際、神々がこの地に到着されたのでお祀りをしているとの地元の方の説明があった。 創建年代は不詳である。元佛寺であり、七堂伽藍巍々として聳えて寺院十二坊を数えた。今の大門坊深妙寺はその一である。

 さて、五十猛命をお祀りしている神社を紹介する試みのこのページに、五十猛命もその一神である八柱御子をまとめて祭神としている神社を入れると、その数は相当に増加する。 選定基準を明確にしておく必要があるのだが、大阪、京都あたりは近場でもあり、五十猛命を祀る神社が少ない事もあるので、取り上げることとした。五十猛命の神徳より素盞嗚尊の神徳で祀られている場合の方が多いので、五十猛命を奉ずる人々の歴史を知っていくには、寄り道となる。

お姿
  大阪南の町衆が神社造りをすればこの様になると思われる典型的雰囲気の神社である。古来、綱引きや獅子舞が盛んに行われていた祭り好きの人々はついに大獅子殿を建ててしまったのである。 なやみごと、やくよけはこちらで祈願しましょうと神社のパンフレットにも書かれている。画面の左隅の人々や自動車と比べてみて下さい。


 拝殿の両側には大きい石碑があり、素盞嗚尊が神剣を獲られた事、和歌を初めて詠まれた事を称えている。
 境内には木々が多く、難波の町中に当たるが、やはり神域は落ち着いたたたずまいである。

 所で、とてつもない話がある。出所は言えませんが、この神社には実際に神々が出現するそうだ。
 とある別の神社の神職さんがこの神社の神職さんと話をしていたら、しきりに二階のほうが騒がしいので、「二階にどなたかがおられますか?先ほどから走り回っているような音が聞こえますね」と申し上げたら、 「あー、あれは式神です。遊んでいるのでしょう。所で、ご覧頂いたと思いますが、この建物には二階はありません。」

 もうひとつは目撃談です。そのよのと神職さんが本殿前の廊下を歩いていたら、白装束の一見宮司さんかと思われる方とすれ違い、脇によけて一礼をしました。 宮司さんは、本殿の奥の方へ進んでいきました。「あれ?今日は宮司様は不在と聞いていたのに」と思って、この神社の留守番の神職さんに「宮司様はお戻りになっていますよ」と申し上げたら、 「いや、今日は戻りません。」「しかし、今お目にかかりましたよ」「あ、また出られましたか。かの方はこの神社の神様です。外出からお戻りになったのでしょう」「えーえ!!」 「私などは良くお見かけします。神様の位ではさほど高い位の方ではないようです」 と、門外漢には不可解なことがあるそうです。

拝殿

お祭
例祭 7月14日 10月14日




中島惣社
大阪市東淀川区東中島4丁目9-41 ゼンリン

一の鳥居    二の鳥居
一の鳥居から三の鳥居まで、500yd程度の距離。長い参道が残っている。

 

三の鳥居



交通案内
 新大阪JR東口 東へ500m南へ300m。



祭神
字賀御魂神、受保大神、大市比売神


相殿 武甕槌神、天児屋根神、姫大神、経津主神、事代主神、菅原道真公、天照大御神、速素盞嗚神、大名牟遅神、猿田彦神、少彦名神、応神天皇


大将軍社祭神 久那斗神、八衢比古神、八衢比女神、大山津見神、罔象女神、金山彦神、於冨加牟津見神


若宮社祭神 迦具土神、足名槌神、手名槌神、天宇受売神、五十猛神、大屋津比売神、市杵島姫神、大年神、御年神、楠木正成公

拝殿



中島惣社由緒略記
 古来よりの言い伝えによれば當社の創祀は、第三十六代孝徳天皇白雄二年 (西暦六百五十一年)難波、長柄豊碕に都を遷された頃五穀豊穣を、當社に祈られ給い、田園数多く下し賜わり神領(境内地)となされたとしている。しかし、かかるL當社の、慶長の末年、大坂の乱に際し兵火に依りことごとく、焼失し、僅か本社古代の絵図面一葉及び建武二年 (西暦一千三百三十五年)奉納の 「中島惣社」と記されたる木製神額のみで創祀の年月は不詳であるが、その昔中島郷の中洲にあり、田畑もようやく開け、人家も増加するに及んで周辺地域の守護神として、字賀御魂神(稲荷大神)を祭祀されたのが初めであったと伝えられている。

 また、旧摂津国西成郡北中島村及び西中島村地域(現在の東淀川区・淀川区新大阪駅前区画整理に依り分区) 四十八箇村の各氏神様の社殿は、(本社殿及び末社殿十八社の祭神)を當社(中島惣社本殿相殿及び摂社・末社殿)に合祀奉りて、「郷社中島惣社」又、各神社の親宮として、氏子・地域住民の方々また、崇敬者の皆様方の信仰厚き神社として、古今共、崇敬の念厚い旧社と古書等にも記載されている。

 戦前社殿は、本殿のほか幣殿・拝殿・社務所・神饌所・神楽殿・神輿庫・絵馬所・手水舎・及び鳳輦等があり、また、松の大木、楠の樹木等が生い茂り、昼、尚うす暗く、荘厳な社であったが、惜しくも昭和二十年六月の戦災でことごとく焼失現在の社務所は昭和四十一年に社殿は昭和四十二年に再建、その後、昭和六十二年摂社「大将軍社」並び、末社「若宮社」の改築再建であります。

 尚、先年(昭和十四年) 社域の地中約二、三尺の処より、弥生式の土器も多数発掘されている。

本殿




お姿
 台風一過の日であったが、曇っていた一日であった。この神社の存在を知ったのは、新聞記事に須賀の森のことが出ていたからである。
 新大阪駅の東側に鎮座している。境内に神社についての説明の碑があり、それを眺めていて、摂社の祭神の中に五十猛神を発見した。これはおどろきであった。新大阪の近くに五十猛神、およそ予想外の嬉しい発見であっ。た。

 神社のおかみさんから頂いた、『中島総社境内』と云う図面には、現在の若宮社の付近は、小さい祠が並んでいた。おそらくはこの中に五十猛神と大屋津比売神が祭られていたのだろう。そのいきさつはよくわからない。この図面の神社の住所が大字山口であるのが、山の入り口を示すので、植樹の神が祀られる機会があったのかも知れない。


若宮社

若宮社の五十猛神・大屋津姫神の名札


お祭り
例祭 10月18日

大阪府西成郡西中島村大字山口
郷社中島総社境内図



大阪府神社史資料、神社参拝のしおり




平成26年10月14日




 大依羅神社(おおよさみ)
大阪市住吉区庭井町 its-mo

池側の鳥居

交通案内
大阪地下鉄御堂筋線我孫子 南東500m 阪南高校 東

祭神
大己貴命、月讀命、垂仁天皇、五十師宮(五十猛命)の四座または住吉三神、建豊波豆羅和気王 合祀 草津大歳大神、奴能太比売大神、建速須佐男大神、奇稲田媛大神、八柱御子大神、大山大神、素盞嗚尊二座

由緒
 延喜式神名帳には、大依羅神社四座とある。
 神皇皇后に、神告していわく 我荒魂は先鋒を成して兵船を導んとたくし給ふ。帰朝の後吾孫子の某をもって社を守らしむ。毘沙門の宮とも言う、と伝わる。
 祭神の建豊波豆羅別命は開化天皇と葛城垂見宿彌の女タカヒメとの間に生まれ、道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽忍海部、丹波之竹野別、依羅阿毘古等の祖であると言う。 依羅安孫氏は住吉三神の祭の神主とされている。
 依羅連は日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人素彌志夜麻美乃君より出づる、また饒速日命十二世の孫懐大連の後とあり、 さまざまな系統があったようである。

 八十島祭りにも奉仕料を受け、住吉大社に次ぐ扱いを受けていた。
 南北朝時代に依羅氏が滅亡すると共に社運は衰えたようである。
 明治になり、式内草津大歳神社、式内奴能太比売神社など五社を合併した。

 神功皇后の出兵、住吉、池、船とこの神社の周辺木材の匂いが濃厚であり、五十猛命を奉祀する人々がこの地に住んで造船などに従事していたのであろう。

神木の楠と拝殿


お姿
  南側の参道前には依網池跡の石碑が建っている。南北に山門があり、寺院風である。参道の両側には桜の木が植えられ、その向こうは阪南高校の運動場とテニスコートである。
 境内には神木の大きい楠木がある。槙、樫など木々が多く、夏休みで近所の家族連れが蝉とりをたのしんでいた。

本殿


 泉が涌いていたらしく、その井戸跡に「たたへたる清水涸れても町に名になじみてふかし庭井の泉」と神主の和歌を刻んだ石碑がある。
神社の西南の雨乞井に龍神伝説がある。
 依羅池に龍蛇神が住んでいた。ある日河内の農夫が通りかかると、美人が声を掛けた。 「私はこの池に久しく住む龍神です。先頃より鉄具が池に沈み、我が身にさわって、傷を受けています。この鉄を取り除いてほしい。」と頼んだ。 農夫は泳ぎができないと答えると、龍神は「我が力にて水辺まで打ち出す。御身はこれを取り除き、二度と池には入らない所に運んでほしい。」と言い、 にわかに天地晦瞑となり、暴風が起こり、波は池水を捲いて天を衝くようであった。たちまち鎮み、婦人が現れた。農夫は水辺の農具の萬鍬を持ち帰り、固く封をした。 以来、祈雨の効験あらたかであった。

 摂社には御祭神名が丁寧に書かれていた。

依網池の址の碑と元の神社正門

大依羅神社と依網池の字が一字異なるのは、地名を社名とする場合には文字を一字変えておくのが神に対する礼儀であったという。 社殿は、昭和44年に元の社殿が火災で焼失、南向き社殿を東向きにして昭和46年に再建されたもので、この時に正門も北側に変更されている。

お祭
例祭 4月16日 夏祭 7月12日 秋祭 10月12日

日本の神々3(東瀬博司)白水社



 男乃宇刀神社 おのうと
大阪府和泉市仏並町1740 ゼンリン

鳥居



交通案内
JR府中駅南300M、南海泉大津駅もしくは泉北高速泉中央駅より槙尾山方面行きバス「神社前」下車



祭神
彦五瀬命、神日本磐余彦尊、五十瓊敷入彦命

摂社 八坂神社 速須佐之男命、應神天皇、奇稻田姫命
  摂社 琴平社「大物主命」
  摂社 市杵嶌社「市杵嶌姫命」
末社 抓津姫命
末社 五十猛命
末社 大屋津姫命、天津彦根命
末社 三穗津姫命、少彦名命
末社 倭比賣命、天兒屋根命
末社 大山祇神
末社 菅原道眞、八重事代主命
末社 (配祀)疫神

拝殿


由緒
 式内の男乃宇刀神社は二座である。一座は当社で彦五瀬命を祀る。もう一座は下ノ宮にあり、神武天皇を祀っていたとされる。
 彦五瀬命は神武天皇の兄で、東遷の際、生駒山で長随彦との戦いで矢傷を負い、当地の豪族横山彦がここに迎え、駐輦したとの縁起により祀られていると社伝にある。  五十瓊敷入彦命はこの地を領した縁故によって元慶年間(877〜)に奉祀された。この垂仁天皇の王子は刀を1000本を鋳造し、石上神宮に奉納したと伝えられている。 ここより南の南海本線淡輪駅の近くに「宇土墓」古墳があり、命の墓とされている。
 五瀬命は神武天皇の兄であり、「兄之」は「男之」に変化したのだろうが、矢傷の痛さの雄叫びから、命に「お」の音か形容され、上陸地点を「雄の湊」と称したりしているとの解説もある。
 「男神社」が南海本線樽井駅近くにあり、やはり五瀬命と神武天皇が祀られている。
 この神社の名も恐らく五瀬命の「おの」と五十瓊敷入彦命の「うと」が重ねられたものだろう。

 五十猛命兄妹等を祀る末社が数座鎮座しているが、御神体の失われた祠、ましてや祠別の神名は不明。
 摂社としては八坂神社と厳島神社がある。

本殿




お姿

 西国三十三霊場四番札所の施福寺への道筋に鎮座。
 鳥居をくぐり急な石段77段をようやく登りきると一寸した空間に出る。その向こうに大きい拝殿が目に入る。
 更にその背後を大きく覆っている木々に圧倒される。楠、杉などである。 拝殿をくぐると祈祷殿があり、その後の本殿は風格がある。流造である。
 神主の祝詞の声が聞こえていた。

 摂社、末社は数多くある。社名、神々の名を記したものは一つもなっかた。

末社群



お祭

秋季例大祭 10月10


『平成祭礼データ』男乃宇刀神社


由緒書
 本社は延喜式神名帳に記された男乃宇刀神社二座のうち一座で、御祭神彦五瀬命は神武天皇御東遷に随従して当地に駐輦し給うた縁起により奉祀せられ、五十瓊敷入彦命もこの地を領せられた縁故によって元慶年間に奉祀された。 明治十二年の神社明細帳に「彦五瀬命、長随彦を征し給う時、官軍を横山彦出迎へ行宮を造る其時御狩し玉ひし所御狩山と言う、今のカリ山之なり此地に神興渡御所在地有之」と記され、また和泉名所図会等にも、神武天皇が長随命を征した時、皇兄五瀬命が流矢に傷つき、軍を反した時、横山彦がこれを奉迎して当地に行宮を営んだと述べられている。 当社はこのように延喜の制小社に列した由緒ある古社で、明治六年郷社に列せられ、また明治四十年一月神饌幣帛料供進社に指定された。
 男乃宇刀神社二座のことにつき、神社明細帳に、男乃は兄乃にて五瀬命を仏並に祀し奉り下之宮と称したと述べられている。
 また同明細帳に「文禄年間に神跡山脈の中央に道路を開拓せしより字切坂と称する所に横山鎮護の神として遷し奉り其後に牛頭天王を奉斎して八坂神社と称し奉りしが明治四十五年五月遷幸し奉りて八坂神社に合祀す。かかる深き縁をもって昭和二十一年九月三日下之宮座神社(八坂神社下之宮座男乃宇刀神社)を当仏並男乃宇刀神社に合祀し奉斎せり」とあるように戦後男乃宇刀神社に併合し奉って社殿拝殿は堺市方違神社に移され跡地は当初横山中学校、のち横山高校の敷地となった。
 下宮「神宮寺」の門前一角に「八坂神社旧蹟」の建碑があるのはこれである。また明治維新まで仏並男乃宇刀神社の境内にも「常願寺」という宮寺があり宇治川合戦先陣の功賞で横山荘を授けられた佐々木高綱の建立といわれ当寺を菩提所としてのち出家し住職をしたといわれている。
  以上


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