湖国・近江の五十猛命

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 4〜500万年前、伊賀地方にあった湖が北に移動して琵琶湖となった。 古琵琶湖層群から竜骨が発見されている。野洲川原からはアシカゾウの足跡が出ている。 縄文前期の人骨や土器も出ている。
 地名が「鋳物師」の大屋彦、木地師の里に近い「杉」の樹木神大屋彦、仏法守護の園城寺の五十猛、八千鉾、悪王子の武神五十猛、さまざまに出現する姿が湖国には見える。



蒲生郡日野町杉  大屋神社

蒲生郡日野町中之郷  長寸神社

蒲生郡日野町三十坪  八千鉾神社

蒲生郡蒲生町鋳物師  竹田神社

八日市市糠塚町  巽之神社

湖東郡湖東町南清水  神明宮

草津市下笠町  老杉神社

大津市園城寺町  新羅善神堂(園城寺、三井寺)

野洲郡中主町  兵主大社 摂社悪王子社三座


蒲生野




 大屋神社
蒲生郡日野町杉228 mapion

鳥居と参道

交通案内
八日市駅よりバス原行き終点下車 佐久良川右岸 竜王山北西



祭神
五十猛神
末社 奥津神社 大屋比
末社 若宮神社 大屋彦命


由緒
 旧村社。式内社。当地が「大石荘佐久良谷社」の供祭料地となった天応元年(781)に右大臣中臣清麿によって勧請された。 杉杣郷の鎮守で、「杉杣郷大宮大梵天」と記される。
 この社の宮座の制度、茅の輪神事、竜王御神木、鳥とのかかわりは、古代の息吹を伝えている。
 鎌倉末期の宝篋印搭一基現存する。



お姿
  杉の集落の南東隅に堂々と鎮座、長い参道である。豊富な木々に囲まれている。


拝殿


本殿





お祭
 例祭日    4月16日 3日間
 茅の輪祭り     7月31日



山の神祭り(吉野祐子『山の神』から)
 一月三日午前八時、日野ゴルフクラブの東に当たる杉の大屋神社へゆく。立派な門松を飾った入口か ら参道を進むと、石段上に拝殿があり、さらに数段上に彫刻の見事な本殿がある。左右に末社が並ぶ 。
 拝殿をとりまいて杉、杣、川原三ケ字の戸主が総出で苞(ツト)と大注連縄を作っている。三地区 合わせて一五〇名位が奉仕する。二把の稲束を四遍返しにして川原の玉石を入れて手さげつきの球形 の竜を作り、フクラソウの青葉をそえる。一ケは山の神に捧げ、一ケは自宅へ持ち帰り柿の木などに さげる。豊穣を願うシンボルにあたる。山の神の苞は約五米の葉を払ったカナ木(地元でコウカンボ ーという)の枝に結んで他区(仙と川原)の人たちは帰宅する。大縄が出来上がると年寄りの一人が 縄を両手で測り−一尋(ヒロ)・三尋…十二尋・十三尋、ワセ・ナカ・オクテ豊年でございますと大 声で呼ばう。
 やがて榊を持つ神主を先頭に、朴の木の双体神(約30cm長)を三宝にのせて運ぶ社守、山の神 餅(楕円の白餅)を運ぶ氏子総代のあと八米ほどの大注連縄をかつぐ人々、朴の木をひく人々の行列 が、参道から外へ出て道を東に二百米ほど進んだ山の神の森へ向かう。道路から二米ほど左へ入った 森の中にある二本の神木の根に大注連縄を二回めぐらし、朴の木は横に置く。村人は路上に横一列に 並び、神主が祝詞をあげ、社守・総代らが参拝する。社守が三宝の餅を持って森の北東のアキの方角 の田の畔(森より30米位)へゆき、神主はひとり神社の鳥居まで帰る。やがて社守が叫び、村人が応 唱する。神主も叫び、村人の唱和が左のようにつづく。
 社守「かかりよった」
 村人「エンヤラヤ」
 神主「ワセ・ナカ・オクテ」
 村人「エンヤラヤ」
 神主「今年の作り物皆よかれ」
 村人「エンヤラヤ」
と三角三方で発声する。かかりよったとは烏が山の神の餅をくわえたことを意味し、他所の烏喰みを 示す。神主の声は森からの神託のように聞こえる。能のシテとワキとハヤシのような応唱がこの山の神神事の終りを迫力ある印象深いものにしていた。


 長寸神社
滋賀県蒲生郡日野町中之郷1565 nifty

鳥居

交通案内
近江鉄道桜川駅から近江バス原行き中の郷下車目の前



祭神
事代主命 配祀 天照大神荒魂神

摂社
 八坂神社「素盞嗚尊」
 天満天神社「菅原道眞」
 藤切大屋神社「藤切大神と五十猛神」
 賀川諸木神社「瀬織津姫命と諸木大神」

境内

由緒
 延喜式近江国蒲生郡に長寸神社の名がある。享徳三年(1454)の『社記』によれば、「人皇四十九代光仁帝馭宇天応元年(781)右大臣中臣清麿が勧請したとし、天積羽八重事代主命、天照荒魂神、素盞嗚尊の三座を祀り、大和国春日社の別宮とし摂社を境内地に置く。」とある。社頭の掲示では創建は宝亀三年(772)としている。
 当社は、佐久良ノ庄三社の中の一社で、日野町大字杉の大屋神社(式内)、同じく大字安部居の賀川神社と当社を指し、共に日野川支流佐久良川沿岸に鎮座されている。『社伝』によると、この三社は共にその勧請が同じとして、古くより祭礼日を同日として御輿渡御を行っている。
 当社は佐久良山の南の端に祀られているので、山崎宮とも称したが、「長寸下之社」とも呼ばれている。大屋神社は「上長寸社」といわれる。

拝殿

お姿 
 杉の木々が多い神社。流造の本殿に向かって右側に二祠一体の摂社とこちらを向いた摂社、左側にも二祠一体の摂社と、本殿策外に摂社一社。藤切大屋神社は二祠一体の社であろうが、どちらの社であるのかは不明。

 

本殿

左側の祠
 

右側の祠
 


お祭
 例祭日    4月17日


 八千鉾神社
蒲生郡日野町三十坪813 its-mo



交通案内
近江鉄道朝日野下車南1km

祭神
大屋彦神(大綾津日神)、八千鉾神
配 大屋姫神、抓津姫神
大綾津日神は大禍津日神とか大枉津日神とも記される。
大綾津日神を祀る神社一覧参照

由緒
 八森大明神と呼ばれた。 隣接する増田(村)の鎮守である。
 朝日野駅は蒲生町鋳物師にある。竹田神社が近い。竹田神社の南に鎮座、更に南に行くと別所に高師小僧がある。これはスズであり褐鉄鉱が菅や蒲の根本に水酸化鉄が沈殿したものである*1。はるか古代の金属採取・加工に関連のある地名がある。

 南隣の神崎郡の永源寺町にも大己貴命を祭神とする八千戈神社が鎮座している。三十坪[みそつ]の八千鉾神は大己貴命であろうか。


鳥居



お姿
  日野川と支流の出雲川との合流点に鎮座。参道は長く、奥に行くほど木々・竹の密度が増す。 大きい本殿である。


本殿


別所の高師小僧の碑



お祭
 例祭日    8月1日 1日間

*1 古代の鉄と神々(真弓常忠)学生社


 竹田神社
滋賀県蒲生郡蒲生町鋳物師1020 nifty

一の鳥居          二の鳥居
 


交通案内
近江鉄道 朝日野下車東100m、近江バス近江八幡から北畑行き鋳物師下車東300m



祭神
天津彦根命、天目一箇命、石凝姥命、大屋毘古命(五十猛命)

摂社
 杼原神社(とちはら)「猿田彦命、天宇受賣命」
 小姫神社「呉姫」
 伊沙雄志神社「護國の英靈」有功をイサオシと云う。五十猛神の形容でもある。
 石原神社「速須佐之男命」
 田村神社「坂上田村麿」

境内 手前は能舞台

由緒
 古くは菅田神社と称していたが、この地に遷座して地名をとり竹田神社と改めた。近江八幡には現在も菅田神社があり、共に、式内社の菅田神社を主張している。

『由緒略記』
  当社は、人皇第十代崇神天皇の七年(西暦紀元前91年)、水穂真若王を奉じて御創建遊ばされた二千年の古社にして、延喜式内社の菅田神社は当社である。(創建の地を明神の森と云うとあるが、崇神期に明神の概念があったかは疑問。)
 成務天皇五年十月(135年)蒲生稲置管掌の地は東北の境は愛知川及伊勢地方、西 は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったと伝わったと云う。三麿は稲置中興の祖であり、智勇兼備、その徳近江に洽く、欽明天皇六年(545年)、綿向神社 の祠宇を造営し、推古天皇十五年二月百七才にて帰幽す。生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。
 天智天皇七年五月(666年)天皇当社に太刀打神事を行わしめ給ひ、幣帛を奉り給 ふ。当社からは祖神の造り給いし剣一口、並に伝来の矛一本を献上せり。又藤原鎌足公の命により朝日山より日蔭蔓を採り朝廷に献ず、これより御即位の大嘗会ある毎に献納するを例となす。
 桓武天皇の延暦十六年(797)坂上田村麿、当社に武運長久を祈り本殿を再建す。
 以下略

 伊勢の多度神社と交流があったと云う。
 祭神の天目一箇命は製鉄の神として敬われているが、この地も「鋳物師」と呼ばれており、小字に「菅田」がある。西は日野である。
 石凝姥命も鍛冶に関連する神である。天照大神が天の磐戸にかくれた時、その姿を模した鏡を作成した神として古事記に記されている。
 大屋毘古命は五十猛命の別名であり、この神は木々を国中に植えた神として名高い。また素戔嗚尊の子神として製鉄の神ともされる。

拝殿

お姿


 
西明寺時頼入道この社に籠り、「近江なる檜物の里に蒲桜折る人もなき秋のくれかな」と詠ったと鋳物師の古い記録「稲寸古記」に記されている。
 東側に社域があり、その西側から南へ参道がある。一の鳥居、二の鳥居を通って境内に入る。ここからは北向きに進むことになる。美しい能舞台と拝殿、その向こうに山王造の大きい本殿が聳える。

本殿


お祭
 例祭日    4月15日
 稲置の神事     9月 1日 村中の人が初穂を神饌とし拍子木を叩きながらお百度を踏む。この時「神火鋳徳 霊金鍛威」なる幟を立てた。
 伊沙雄志祭 11月 4日  いさおしは有功と書き、五十猛神を称える表現である。

『平成祭礼データ』lから

 由緒
 人皇代十代崇神天皇の七年(皇、570 西前、91)水穂真若王が勅を奉じて御創建遊ばされた二千年の古社にして、延喜式内の菅田神社は当社である。
 成務天皇五年十月(皇、795 西、135)蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったと云ふ。三磨は蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、其の徳近江に く、欽明天皇(皇、1205 西、545)綿向神社の祠宇を造営し、推古天皇十五年二月百七才にて帰幽す。生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。
 天智天皇七年五月(皇、1326 西、666)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給ひ、幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし剣一口、並に伝来の矛一本を献上せり。又藤原鎌足公の命により朝日山より日陰蔓を採り朝廷に献ず、これより御即位の大甞会ある毎に献納するを例となす。
 以上


 巽之神社
滋賀県東近江市糠塚町68 ゼンリン


鳥居



交通案内
近江鉄道八日市線市辺駅 北東700m

祭神
五十猛命



由緒
 糠塚の産土神である。
 村の北部は小脇郷より導いた駒井川、南は蛇砂川の流末を引いている。



お姿
  田園風景の中の鎮守の森である。北に小さいが形の良い神体山がある。紅粕山と言う。狛の長者の娘の紅が積もり積もったと云う伝承がある。。東に太郎坊宮が見える。これは阿賀神社であり、巨石群や磐座であり、特に夫婦岩は有名である。
 巽之神社の北の神体山紅粕山のまだ北に金柱宮跡があり、高麗からの渡来人である「狛の長者」が斎祀った神社跡とも言われている。
 天智天皇は近江に都をおいたが、この蒲生郡は、額田王の相聞歌で有名な蒲生野である。
 茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る この歌は船岡山の磐座に刻み込まれていると言う。
 返歌は 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆをゑにわれ恋ひめやも である。


拝殿


本殿


紅粕山





お祭
 例祭日    3月27日 2日間
 御田祭     6月28日


 神明宮
愛知郡湖東町南清水174 ゼンリン

鳥居



交通案内
近江鉄道八日市駅下車北1,200m



祭神
天照大神、國常立尊 配 豐受氣比女命、大屋姫命



由緒
 大屋姫神は大屋毘古命の妹神で、兄や妹の抓津比賣命とともに国中に木々を植えた神である。

 近江は穀倉地帯で、現在でも麦も栽培される。天智天皇の近江への遷都は、白村江の敗戦の後であり、近江の平原は馬を養う目的もあった。そのような緊張の中でも蒲生野で相聞歌を交わすゆとりがあった。



お姿
  社域に鐘楼がある。お寺と見間違う。 愛知川の東側に鎮座している。

社殿





お祭
 例祭日    4月20日に近い日曜日


 老杉神社(おいすぎ)
草津市下笠町1194 ゼンリン



交通案内
 草津駅北西3km 守山行きバス下出下車。

祭神
素盞嗚命、稻田姫命、八王子命(五十猛命など)
摂社 稲荷神社、良侍社「根裂神」、大侍社「岩裂神」、貴船社「罔象女神」

由緒
 社伝によれば704年(慶雲元年)4月、明神が平の森の大杉の本に降臨し、そこに社殿を建てたのが創始であるとされている。

 湖国では、竹田神社に大屋彦命の名で五十猛命が祀られている。

お姿
 遠くに近江の神奈備山である三上山も見える平地に鎮座している。周囲は一面田圃であり、その中に大きく社叢が見える。 杉、槙、樫などが多い。
 本殿は1452年(宝徳4年)の建築で三間社流れ造り檜皮葺である。朱色あざやかな極彩色の欄間には桐、椿、笹、魚などの彫刻が透かし彫りされている。蟇股には三つ重ねの玉二連の椿の花が大きく浮き彫りになっている。
 和歌山の那賀郡の三船神社も美しいが、ここも室町時代の神社建築の美しさを今に伝えている。


鳥居と社殿


本殿



お祭り

 「おこない」開始 2月10日   
 「おこない」当日 2月15日(宮座組織)


 新羅善神堂(園城寺、三井寺)
滋賀県大津市園城寺町246 ゼンリン

神域





交通案内
京阪石山坂本線別所駅 西へ5分、弘文天皇陵横



祭神
新羅明神(ひょっとして五十猛命)



由緒
 園城寺開祖の智証大師円珍が唐から帰朝の時、船中にあらわれた新羅の国神を祀ったと言う。
 後に源頼義の新羅明神への祈願から、源氏と園城寺の深い関係ができた。頼義が東北の安倍頼時を攻めるに当たって、新羅明神に詣でて戦勝を祈ったとの記録がある。 その子義光も新羅明神の前で元服し、新羅三郎義光と名乗った。
 新羅三郎義光は後に関東に下り、甲斐源氏の祖となり、武田につながる。五十猛命は東北征伐の時、坂上田村麻呂によって祀られている。頼義もこれに習ったのであろう。
 なお宮中に祀られていた園神韓神の園神の一字がこの園城寺の名のゆわれとの説がある。通説では園神は大物主神とされているが。

 神仏図絵には「素盞嗚尊皇子なり母は稲田姫尊、五十猛尊紀州名草の社、近江国新羅大明神是なり。」と記されている。



お姿
 園城寺の境内神社であるが現在はつながっていない。従って拝観料はいらない。 貞観2年(806年)に作られたとされる檜の一本造の新羅明神坐像は国宝である。




 
新羅善神堂の建物は貞和年間(1345−50)に足利尊氏が寄進したとされ、三間流造で檜皮葺の国宝である。

本殿


 兵主神社
滋賀県野洲郡中主町五條566 ゼンリン


兵主神社 鳥居と本殿
 



交通案内
野洲駅よりバス吉川行き兵主大社下車 北東に見える杜



祭神
八千矛神 配 手名椎神、足名椎神
境外摂社二十二社の内
吉地神社(悪王子社)祭神 五十猛命
木部神社(悪王子社)祭神 素盞嗚尊
二ノ宮神社摂社比利多神社(悪王子社)五十猛命


由緒


 慶長九年(160年)の兵主神社縁起の創祀の謂われは以下のようなものである。
 養老2年(718年)金色の異光が兵主十八郷の人々を驚愕させた。特に、五条資朝は、いかなる神の影向であろうかと思い、八崎浦におもむき、この地で夢の中で「われは不動明王である。百二十年前に衿迦羅童子を薬師如来に、制多迦童子を愛染明王に現じて天降らせた。 いま我も降臨して兵主大明神とならん」と告げたと云う。
 延喜式では野洲郡では御上神社とともに名神大社に列せられている。
 式内社の兵主神は、合計二十一座(十九社)にのぼるが、名神大社は大和国の穴師坐兵主神社と壱岐島壱岐郡兵主神社とこの兵主神社であり、この近江の社の格式が最も高い。

 兵主神は天日槍との関連が深いとされる。特に近江は天日槍の後裔とされる息長氏の拠点でもある。

 大和の古代の勢力圏は東の磯城と西の葛城との対立共立で見ていく史観がある。
 磯城ー山城ー近江ー越・若狭ー出雲ー新羅の系列と葛城ー難波ー吉備ー筑紫ー百済の系列の関係史から見ていく史観である。
 近江は大和の東の都祁ー近江の南の柘植のとつながりから若狭方面へつながり、春日・磯城系の重要な拠点であった。


兵主神社



五十猛命が祀られている神社について
 兵主神社は古くより旧「兵主十八郷」と呼ぶ周辺地域の総氏神とされていた。 この郷に大社を含め兵主二十一社が鎮座している。その中に五十猛命が祭神と伝わる悪王子が見える。
野洲郡中主町木部 木部神社
野洲郡中主町吉地 吉地神社
野洲郡中主町西河原 二ノ宮比利多神社 の三座である。木部神社の隣は錦織寺(浄土真宗)木辺派の本山である。

 兵主神社が坂本の地から当地へ遷座していると伝わっているが、兵主二十一社もまた、日吉大社の神社群からの勧請であろうと推定される。 日吉大社には実は五十猛命が見いだせない。



お姿
  広大な社域に木々が美しく、その中の朱塗りの楼門を越えて行くと威厳のある拝殿に息を呑む。 その背後に本殿が静かに鎮座している。
 現在兵主神社の庭園が発掘調査されている。地方の文化と歴史の流れを保存し伝えていくのは神社の大きい役割である。


悪王子(吉地神社)




悪王子(木部神社)





お祭
 5月 3日 4日間 例大祭(兵主祭)
11月 日 1日間 八崎神事(おこりかき)
木部神社例祭 4月 第2日曜日
二ノ宮神社 例祭 4月 第2日曜日
二ノ宮神社摂社比利多神社 御田湯祭 6月 第2日曜日

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