高嶺神社
兵庫県赤穂郡上郡町山野里 its-mo高嶺神社山宮高嶺神社里宮

里宮の社殿と天王山(右側)

交通案内
山陽本線上郡駅 南側の道を西へ500m 安室川を渡るとすぐ里宮
里宮から南南東の方角に、二上山ふうの山が見える。その麓に鳥居がある。一本道で山登り。 しっかりした靴が必要。


祭神
須佐之男命 配 手名椎名、足名椎命、櫛名田比売命


摂社
山宮の摂社(西)「武甕槌命、猿田毘売命、須勢理毘売命、少毘古那命、熊野命、天葺根命、五十猛命、穴牟遅命」
山宮の摂社(東)「天津彦根命、天忍穂月命、天穂日命、活津彦根命、田心毘売命、瑞津毘売命、瓊瓊杵命」

山宮への道


社頭掲示の由緒
 人皇第六十四代円融天皇天禄三年(972年)当地の柳田の森に霊光あり 有明山に天降りし灯籠の光と相照らし輝いて里人奇異の思いを懐き毎夜群衆しけるに貴みける者は利生をを蒙り慢る者は罰を受く 而してこのこと遂に天聴に達し博士に占わせるに天竺の摩訶陀国之牛頭天王(須佐之男命)が和国の鎮守の神となり給う御告なりと奏上しければ直ちに勅命を以てこの高嶺山に勧請ありて勅願所に定めらる。人皇第六十八代後一条天皇万寿二年(1025年)三月特に勅旨を奉じて大祭典が執り行われ 人皇第七十二代白河天皇応徳二年(1085年)乙丑の年から満寿の旧儀に倣い干支の乙丑の年に御開帳の大祭典を執り行うことが当社の慣例となり現今に踏襲さる。群雄割拠の戦国時代当社は満山赤土となる悲しい災禍に逢ったが足利尊氏山名持豊池田輝政浅野長直等有名な武将の尊崇と加護篤く西播磨は勿論備前中周辺の淳良な崇敬者に支えられ農業をはじめ諸産業の守護神として御神徳高く西の天王さんと仰ぎ親しまれ明治元年牛頭天王の社号を高嶺神社と改称す。 明治六年村社に列し同十五年郷社に翌十六年県社に加列す 大正十四年本開帳に際し境内の模様替え社殿の増改築あり昭和三十年四月中開帳の祭典ありて今日に至る。高嶺神社社務所

神木


お姿
  里宮から南南西の天王山は近づくとますます優美な神奈備山の姿になる。 道の向こうに鳥居が見える。参道は比較的広い山道であり、ハイキング気分で登って行くがなかなか目的地には到着しない。途中に天満宮の小祠があるが、その付近からは岩肌がむき出しの凄ましい道になる。でこぼこの岩と峻険な登りをどんどん行く。普通の参道らしい道にであい、再び登り始めると天王山の千年杉と呼ばれる樹齢約1000年の高嶺神社の神木の向こうに建物が見えてくる。社務所であった。どうやら改築中で、なんとミニトラックが止まっていた。

 

室町の様式を残す慶安二年(1649年)造営の本殿

山宮の本殿


お祭り
 御日待祭 1月14日 黒星祭とも言う。とんど神事。
 春祭 4月第二日曜日 御田植  
 秋祭 10月第二日曜日 渡御祭
 大開帳祭  4月第二日曜日 式年祭(60年に一度)
 中開帳祭  4月第二日曜日 式年祭(30年に一度)

平成祭礼データから

当社は今を去る約一千年の昔、人皇第六十四代円融天皇の御代、全国に疫病が流行し 、死者が続出するという悲惨な状況が続いたとき、当地、山野里の柳田の森に、毎夜 、天上から霊光が射し、有明山に天下った灯籠の光と相照らし合い、里人奇異の思い を懐き夜毎に群集したが貴む心を持つ人は利益を蒙り慢る心を持つ人は罰を受けた。 という。
やがて、この事が、国司を通じて天皇の御耳に入り、直ちに陰陽博士に占わせられた ところ「天竺の摩訶詑国の牛頭天王(須佐之男命)が鎮守の神として当地の高嶺山に お鎮まりになり、癘気を払い、民草を救わんとする兆しである。」との御託宣である ことがわかり、天禄三年壬申九月二十三日勅命を以って、この高嶺山に社殿を設け、 勧請申し上げたところ忽ち疫病は退散して再び平和がよみがえり、農業をはじめ諸々 の産業が繁栄し、民草の生活が安定したのである。
そこで、このお社が勅願所に定められ、勅祭が執り行われたのであるが、人皇第六十 八代後一条天皇の万寿二年乙丑三月、特に勅旨を奉じて大祭典が執り行われたのであ る。そして「人皇第七十二代白河天皇の応徳二年乙丑、時の神官等、夢に神あり、祀 典を挙ぐべし、と、告ぐ、覚めて語るに各々皆同じ、依って、万寿の旧儀を考え、祭 祀を修め、これより以降、干支の乙丑の年、大祭典を執り行うことが、当社の慣例と なる。」と伝えられている。
また群雄割拠の戦国時代、満山赤土となる悲運にも遭ったが、足利尊氏、山名持豊、 池田輝政、浅野長直等による武将の尊崇篤く、西播磨はもとより、備前、備中周辺の 純朴なる崇敬者に支えられ、西の天王さん、と仰ぎ親しまれ昭和の御代に至る。
以上
 


神社本庁 『平成祭礼データCD』

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