竹田神社
滋賀県蒲生郡蒲生町鋳物師1020 nifty

一の鳥居          二の鳥居
 


交通案内
近江鉄道 朝日野下車東100m、近江バス近江八幡から北畑行き鋳物師下車東300m



祭神
天津彦根命、天目一箇命、石凝姥命、大屋毘古命(五十猛命)

摂社
 杼原神社(とちはら)「猿田彦命、天宇受賣命」
 小姫神社「呉姫」
 伊沙雄志神社「護國の英靈」有功をイサオシと云う。五十猛神の形容でもある。
 石原神社「速須佐之男命」
 田村神社「坂上田村麿」

境内 手前は能舞台

由緒
 古くは菅田神社と称していたが、この地に遷座して地名をとり竹田神社と改めた。近江八幡には現在も菅田神社があり、共に、式内社の菅田神社を主張している。

『由緒略記』
  当社は、人皇第十代崇神天皇の七年(西暦紀元前91年)、水穂真若王を奉じて御創建遊ばされた二千年の古社にして、延喜式内社の菅田神社は当社である。(創建の地を明神の森と云うとあるが、崇神期に明神の概念があったかは疑問。)
 成務天皇五年十月(135年)蒲生稲置管掌の地は東北の境は愛知川及伊勢地方、西 は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったと伝わったと云う。三麿は稲置中興の祖であり、智勇兼備、その徳近江に洽く、欽明天皇六年(545年)、綿向神社 の祠宇を造営し、推古天皇十五年二月百七才にて帰幽す。生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。
 天智天皇七年五月(666年)天皇当社に太刀打神事を行わしめ給ひ、幣帛を奉り給 ふ。当社からは祖神の造り給いし剣一口、並に伝来の矛一本を献上せり。又藤原鎌足公の命により朝日山より日蔭蔓を採り朝廷に献ず、これより御即位の大嘗会ある毎に献納するを例となす。
 桓武天皇の延暦十六年(797)坂上田村麿、当社に武運長久を祈り本殿を再建す。
 以下略

 伊勢の多度神社と交流があったと云う。
 祭神の天目一箇命は製鉄の神として敬われているが、この地も「鋳物師」と呼ばれており、小字に「菅田」がある。西は日野である。
 石凝姥命も鍛冶に関連する神である。天照大神が天の磐戸にかくれた時、その姿を模した鏡を作成した神として古事記に記されている。
 大屋毘古命は五十猛命の別名であり、この神は木々を国中に植えた神として名高い。また素戔嗚尊の子神として製鉄の神ともされる。

拝殿

お姿


 西明寺時頼入道この社に籠り、「近江なる檜物の里に蒲桜折る人もなき秋のくれかな」と詠ったと鋳物師の古い記録「稲寸古記」に記されている。
 東側に社域があり、その西側から南へ参道がある。一の鳥居、二の鳥居を通って境内に入る。ここからは北向きに進むことになる。美しい能舞台と拝殿、その向こうに山王造の大きい本殿が聳える。

本殿


お祭
 例祭日    4月15日
 稲置の神事     9月 1日 村中の人が初穂を神饌とし拍子木を叩きながらお百度を踏む。この時「神火鋳徳 霊金鍛威」なる幟を立てた。
 伊沙雄志祭 11月 4日  いさおしは有功と書き、五十猛神を称える表現である。

『平成祭礼データ』lから

 由緒
 人皇代十代崇神天皇の七年(皇、570 西前、91)水穂真若王が勅を奉じて御創建遊ばされた二千年の古社にして、延喜式内の菅田神社は当社である。
 成務天皇五年十月(皇、795 西、135)蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったと云ふ。三磨は蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、其の徳近江に く、欽明天皇(皇、1205 西、545)綿向神社の祠宇を造営し、推古天皇十五年二月百七才にて帰幽す。生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。
 天智天皇七年五月(皇、1326 西、666)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給ひ、幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし剣一口、並に伝来の矛一本を献上せり。又藤原鎌足公の命により朝日山より日陰蔓を採り朝廷に献ず、これより御即位の大甞会ある毎に献納するを例となす。
 以上

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