京都府の五十猛命

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京都府 宮津市 岩滝町 弓ノ木408  木積神社

京都府 宮津市 畑277 有坂神社

京都府 亀岡市 宇津根町 東浦1-2 伊達(いだて)神社

京都府 亀岡市 余部町 加塚16 伊達(いだて)神社

京都市 左京区 上高野 八幡町 伊多太(いたた)神社

京都市 左京区 岡崎(平安神宮東) 岡崎神社

京都市 東山区 粟田口 鍛冶町 1 粟田神社(粟田口八大王子社)

京都市 中京区 祇園  八坂神社

京都市 伏見区 深草  伏見稲荷大社

京都府 宇治市 菟道 滋賀谷 三室戸寺新羅大明神

京都府 宇治市 菟道 東中 厳島神社摂社新羅神社

京都府 相楽郡 精華町 祝園 柞の森 1 祝園神社

京都市 右京区 嵯峨 渡月橋 大井神社

京都市 南区 久世 上久世町446 綾戸国中神社

京都府 向日市 向日北山 65 向日神社

山城愛宕 京都市 左京区 岩倉 上蔵町 上高野    石座神社

山城愛宕 京都市 左京区 修学院 宮の脇町    鷺森神社

山城愛宕 京都市 左京区 修学院 関根坊町    赤山禅院

山城愛宕 京都市 左京区 一乗寺 松原町    八大神社

山城久世 城陽市 平川 東垣外   平井神社

南丹市 美山町 宮脇    道相神社

綾部市 広瀬町 城山    伊也神社

京丹後市 網野町 木津女布谷    賣布神社

京都府 熊野郡 久美浜町 女布    賣布神社





 木積神社
京都府与謝郡与謝野町字弓ノ木408番 ゼンリン

鳥居



交通案内
北近畿タンゴ鉄道宮津線岩滝口下車 西1500m

祭神
五十猛神 配神 大物主神


由緒
 延喜式内社である。木積山王社と呼ばれた。隣の大宮町久住にも木積神社が鎮座している。ここには億計王、弘計王が祀られている。
 宮津市内に日吉神社が鎮座し、やはり山王社「大山命、大己貴命」と呼ばれていた。また日吉神社の境内摂社には杉末神社「大物主命」があり、式内社論社である。
 木積神社の南の野田川町は物部氏の祖神を祀る式内社が鎮座、また北には丹後一宮とされる籠神社が鎮座し海部の祖神の天火明命が祀られ、また浦島子や元伊勢の伝承も多く、この付近は古代史の要所と言える地域である。邪馬台国を訪問する魏使はここから大和へ陸行したのではないかと考えている。

本殿

 伴とし子氏の著作『古代丹後王国はあった』からの孫引であるが、籠神社に伝わる「海部氏勘注系図」の秘伝とされている海幸山幸神話では天火明命が弟の山幸彦であり、すなわち彦火々出見尊である。時に弟、釣り針を海中に失う。塩土老翁来たりていわく。即ち、火明命、竹籠に入り、海に沈む。豊玉姫命、その子の端正なるを聞きはなはだ憐重す。妹玉依姫命を遣わし養うは、即ち、武位起命[たけいたてのみこと]なり。とある。
 ここでは彦火明命=彦火々出見尊、その児武位起命=不合尊、その児宇豆彦命と神武天皇が対、其の児が倭宿祢命、孫が難波根子健振熊命、その児が健振熊宿祢で、丹波国造等祖となっていると読める。また彦火明命の児は天香語山命とされているが、別名が武位起命であり、すなわち五十猛命と同一神と見なされていた事がわかる。
 武位起命が祭神である神社は以下の二つが出てきている。神社庁CD。
 豊後 海部 大分県北海部郡佐賀関町大字関1812番地 椎根津彦神社「椎根津彦命 配 武位起命、稻飯命、祥持姫命、稚草根命」
 越前 丹生 福井県丹生郡朝日町佐々生30-1     佐々牟志神社「鵜茅草葺不合神、神倭磐余彦尊、椎根津彦、武位起命」
7世紀に帝紀や記紀がまとめられたが、それらはその時代以前の約1,000年の間の出来事と、その伝承が集約されたのであり、継体天皇以降の天武・持統朝の政治的立場を反映したのもであろう。 記紀のお墨付きがもらえる説でないと、なんとなく「あやしい」説に聞こえるのは、一般的な風潮であるが、やはりこれを乗り越えていき、真実にすこしでも近づきたいと思う。



 
お姿
  野田川の出口に鎮座、急な坂道を上り詰めた山裾にある。社域には木々が深く、また石段には苔がむしている、実に神々しいお社である。


社域



祭り
例祭   4月30日 2日間  太刀振り 5月1日には神楽が奉納され太刀振・笹ばやしの神事が行われる。
秋祭り 10月下旬の日曜日




 有坂神社
京都府宮津市畑277 mapfan


鳥居



交通案内
北近畿タンゴ鉄道宮津駅から伊根方面行きバス日置下車 北700m 西2000m 

祭神
大物主命、五十猛命、大宮主命、井隼權命


由緒
 不明。

お姿
  日置からは登り一辺倒の坂道である。天橋立で貸し自転車を借りたが、往きはついてあるいた。約1時間の登りである。復路は7分であった。 神社は急な坂道を上り詰めて更に階段を登り、小学校の分校の側に鎮座している。まさに神社の名の如く坂だらけの道であった。平家落人伝説の村である事がよくわかる。
 鳥居の前に小川があり、冷たい水が流れていた。手ぬぐいをすすごうとしたら、ポケットから煙草とライターが水の中に落ちた。 この社に自転車で登るのに、スタミナ切れを起こし、殆どついて歩かざるをえなかった事を、五十猛命が神意を現し禁煙をすすめたのかと思った。この神は伊豆では禁酒の神である。禁煙の神にもなるつもりだろうか。
 神社で神様に家内安全などを祈願するのだが、その前に自分が行っておくべき事があるのは当然である。
 禁煙はどうするの? 紀の国の伊太祁曽神社の奥宮司も愛煙家である。だからどうするの? ・・・。


本殿



祭り
例祭   4月23日




 伊達神社  亀岡市宇津根町東浦1-2 its-mo

鳥居と社殿



交通案内
JR山陰本線 亀岡駅 線路沿いに園部方面へ1.5km 

祭神
五十猛命

社殿 覆殿



由緒
 式内社。社頭説明板によると、延享四年(1747年)の大堰川の氾濫により、隣接の宝蔵寺とともに流失し、記録類も失われている。
 現在、隣に宝蔵寺があり、江戸時代には宝蔵寺の境内社(鎮守)となっていたようであり、 明治初頭の神仏分離に際し、現在地に遷座した。とのこと。鎮座地は宝蔵寺の私有地と言う。

 藤原秀衡の三男忠衡の娘が、平泉で義経と共に倒れた父を当社に合祀したと言う。
 神奈備は牛松山で、丁度愛宕山が隠れる位置に鎮座している。
 亀岡では、余部町の伊達神社の方が古いとされている。

本殿



お姿
 車道に位置しているものの、周辺は田園風景が残っている。あまり手が入っていない神社である。 本殿は切石積基壇の上に土台をすえて建つ小型の一間社流造。寛政年間の刻銘がある。

お祭

例祭 7月23日






 伊達神社  亀岡市余部町加塚16 its-mo


神社風景

交通案内
JR山陽本線 亀岡駅 南西の市役所方面へ15分 蘇我谷川の前川橋の側

祭神
五十猛命

由緒
 式内社の論社。亀岡ではこの社が元の社である。

お姿
 亀岡盆地内の洪積層の上に立地、鎮守の森は削られているようである。稲荷神社が同居。



神社



お祭
 例祭  7月23日



神祠




 崇道神社・伊多太神社
京都市左京区上高野西明寺山町34 its-mo


崇道神社の鳥居


交通案内
 京福電鉄八瀬行 三宅八幡下車 川を渡り東へ7分

 

祭神
 崇道神社「早良親王」

摂社 いずれも式内社に比定されている。
伊多太神社「伊多太大神」
小野神社「小野妹子冥、小野毛人命」
出雲高野神社

由緒

崇道神社


 桓武天皇の皇弟早良親王(崇道天皇の諱を追尊)を奉祀する旧高野村の産土の社で、その創建年代は貞観年間(859−877年)と伝わるが、詳かでない。
 早良親王は反桓武勢力の中心と目され、延暦4年(785年)に長岡京使藤原種継暗殺事件がおこり、親王も関係ありとされて、淡路へ配流の道中大山崎で怨念を残しつつ憤死された。屍は淡路島に葬られた。
 その後朝廷を始め、都の内外に不吉な事故と奇妙な異変が続発した。これらの怪異天災は親王の怨念の祟りがあると占に出たために、御霊神となった親王の鎮魂の行事が盛んに行われた。 桓武天皇は親王に崇道天皇の追号を送り、墓を山陵とする等した。
 崇道神社は、平安時代に都の鬼門に当たると共に北陸への要衝のこの高野の地に御霊社として登場、親王を祀ることになったのである。

伊多太神社


 出雲郷の農業神であったとされる。大正4年、崇道神社内に伊多太神社は合祀された。
伊多太神社は式内社である。「いたた」と呼ばれるが「湯立」「いだて」が訛ったものとされる。五十猛命である。

伊多太神社の元の鎮座地 大明神町



お姿

鳥居

 崇道神社は西明寺山の南にあり、木々が鬱蒼としている良い雰囲気の神社である。 伊多太神社は左側に鎮座している。崇道神社の入り口に伊多太神社の石碑が立っている。

崇道神社の御旅所 北田町

お祭
 5月5日 例祭




 粟田神社(あわた)
京都市東山区粟田口鍛治町1 its-mo



交通案内

 京阪京津線蹴上げ西300m(都ホテル西)

祭神

建速素盞嗚尊、大己貴尊、奇稻田媛神、神大市媛神、佐須良媛神、八島小奴美神
五十猛神、大屋彦神、大屋媛神、抓津媛神、須勢理媛神、大歳神、倉稻魂神

由緒 参考:神社本庁平成祭りデータCD

 往古、人皇五代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命を祖とする粟田一族がこの地で、鉱物を穿ち、粟瓜を主食として生活をし、神を祀っていた。
 中古、熱田神宮が奉祀されるや熱田の社人として一族もろともに移り、土地の名を残すのみとなった。粟田の臣の産土と云われている由縁である。

 平安朝の初め人皇第五十六代清和天皇、貞観十八年(876)は平安遷都の約八十年程過ぎ、藤原氏の摂関政治もようやく始ろうと、 藤原良房が初めて摂政の位につき、七代・基経が其の後継者としての位置を固めつつあった頃で、 華やかな時代の幕開けであるとともに、疫病、災害等は、怨霊の崇であると御霊をなだめる必要があるとして御霊会信仰が盛んとなってきた時代で、 神祇官・陰陽寮の力が盛んとなってきた。

 貞観十八年の春、秋には、疫病流行し多いに民を悩ますことが起きる。とのお告げにより、 天皇、直に勅を下し、五畿七道(全国)の諸神にお供え物をして、国家と民の安全を祈願された。
 この時、勅使が、感神院・祇園社(現八坂神社)参宮して、丹誠こめて祈願すること七日間、満願の夜、一人の老翁、興世の夢枕に立ちて 『今既に、天皇国家に災変あらんことを聴き、叡慮を痛められる事のないよう、汝すぐに、天皇につたえよ、 天皇の心を痛められること、天の神に通じ吾を祭れば、必ず国家と民は安全なり』 勅使たずねて「このように、いわれる神は如何なる神ですか」老翁答えて
『吾は、大己貴神也、今帝都の東、祇園の東北の地に清きところあり、 この地は昔に牛頭天王ゆかりある地である。京に、牛頭天王を播磨の国・広峰より向えられたとき、大阪の今宮の処に留まられた後、 京の瓜生山(現将軍塚)へ、そこから東光寺(現岡崎神社)へ、それから粟田に、最後の八坂の地にという言伝えがある。さすればこの地に吾を祭るべし』といわれて、 見えなくなりました。夢とは思えず、神意なりと、朝廷に秦上し、ただちに京都の東祇園の東北、粟田の地に社を建て、大己貴神をお祭りす。

長保三年(1001)祭礼の行列の始まりと伝えられている、承安二年(1172)六月・高倉天皇、祇園会を上覧されたとき、 獅子を始め神輿三基を祇園社に奉納された。 これより承安以前の神輿一基あり、この神輿に牛頭天王・奇稲田媛の御神霊を安置して粟田の社に鎮座された、これより当社三座となる。
 八坂神社を感神院と言うのに対し、当社を感神院新宮と称する。 

お姿

 東山三条を東に進むと南側に一の鳥居があり、参道になるが、町の路地である。これを通り過ぎると二の鳥居が見え、緩やかな登り道となる。八坂神社や知恩院のある山の北側に当たる。 中腹に庭があり、本殿や摂社が木々の中に鎮座している。本殿は流れ造りである。


二の鳥居と社殿



お祭り

例祭 10月 9日  御出祭 阿古陀鉾、地蔵鉾、子供の提灯12灯の夜渡り。
   10月10日  午後に神幸祭。柏鉾が巡行。
粟田祭10月15日  14日深夜に瓜生鉾、地蔵鉾や高さ15mの12灯を担ぎ、太鼓をならし「芋も大根も寝たらば起きよ」とはやして町を練り歩く。




 八坂神社
京都市東山区祇園町北側625 its-mo

南側の鳥居





交通案内
 阪急四条河原町、京阪電鉄四条 東へ数分 「祇園」 

祭神
 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)、神大市比賣命、佐美良比賣命、稻田宮主須賀之八耳神

拝殿



由緒

 斉明天皇二年(656)高句麗の使い、伊利之使主(いりしおみ)が来朝した時に祇園祭が始まったと伝えられている。伊利之は『新撰氏姓禄』に八坂造の祖の意利佐の名が見え、またこの付近は八坂郷と称したことから、半島からの渡来人が牛頭天王を祀ったのが創祀と言われている。
 創建の確実な根拠は、「貞観十八年(876)南都の僧円如が堂宇を建立、薬師千手等を祀ったのを、天神東山麓の祇園林に垂迹して御坐します。」とあり、この時期のようだ。

 八坂神社が素盞嗚尊を祭神とするのは、次の二つの資料によるものと、先の真弓宮司さんは説明される。
 『伊呂波字類抄』に「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神とも云う。」と記されていること。
 『備後国風土記』の逸文に「昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったが宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行った時、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災からのがれさせたが、その他のものはことごとく死に絶えた。そこで仰せられて私は速須佐雄の神である。後の世に疫病が流行ったら、蘇民将来の子孫といって、茅の輪を腰に着けた人は免れるだろう。」
 牛頭天王=武塔天神=速須佐雄の神と云うこと。

 『二十二社註式』では、姫路の広峯神社の祭神を勧請したとする。
 当社は賀茂、松尾、稲荷などと同様に6世紀半ば頃には農耕の神として八坂郷の崇敬を集めていた。素戔嗚信仰は、天神の荒御霊が雷雨をもたらす根源として神格化されたことに由来するが、それは慈雨をもたらすものとして農耕神と結びつき、さらに雷神=御霊となり、ついには災厄をもたらす疫神となるに及んで、牛頭天王がその神格となった。疫神の神牛頭天王がさらに疫病除けの神に昇華したのである。 素盞嗚尊がソシモリ(牛頭山)に赴いたとは免疫されて防疫神となったことを意味する。天然痘やオタクフ風邪を軽症ですませるには、進んで罹っておくことであり、疫神は善なる神でもある。今でもオタフク風邪が出ると子供をその家につれていく。牛の天然痘は人間には軽く、牛の血を玄関に塗って魔除けにしたのである。この牛の頭を神にささげた所から牛頭天王が大善神となり、素盞嗚尊と同一視されたのである。種痘法である。*1

本殿



お姿
 大晦日の「をけら火」は近隣府県からも多くの参詣者が集まる。人と人の間に挟まれ、身動きができない程である。 自然に本殿前まで運ばれ、そのまま吐き出された記憶がある。手を合わせるとか、お賽銭をさしあげることすらできない。
 真夏の風物詩「祇園祭」はあまりにも有名である。



祇園祭り  「祇園御霊会」と呼ばれていた。大阪の天満祭、東京の神田祭とともに日本三大祭に数えられる。 室町時代からか商工業の発展に寄与した氏子の富裕化が、この祭を華美な者にしていき、山鉾も大型化し数も増えたのである。
 祭儀 7月1日から29日 山鉾巡行は7月17日

「オケラ参り」と「道教」との関係

 オケラ参りとは八坂神社の神事で、大みそかから元旦にかけてのにぎわう。 精進潔斎にた火で、キク科のオケラを燃やす。淨火として疫病消除の効果があるとされる。火を吉兆縄につけて持ち帰り、それを火種として元旦の料理を作ったり、神棚仏壇の灯明をともすのである。

 オケラは古来薬草として知られている。『抱朴子』には「朮:うけら、おけら」として仙薬のひとつとしている。神仙になるには五穀断ちがいいのだが、それにはオケラが最適だそうだ。
 天武天皇がこれを煎じて飲んでいるようだが、その一年後に亡くなっている。

          参考 −『日本史を彩る道教の謎』から−
 



「平成祭礼データ」の由緒

 八坂神社は明治元年まで祇園社と称していたので、祇園さんの名で親しまれ信仰されている。社伝によると八坂神社は斉明天皇2年(656)高麗より来朝せる調進副使の伊利之使主(いりしおみ)が新羅国牛頭山(ごずさん)にます素戔嗚尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのに始まる。伊利之来朝の事又素戔嗚尊が御子五十猛神と共に新羅国に降り曽戸茂梨(そしもり)〈楽浪郡牛頭山〉に降られた事は日本書紀に記す所であり、新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとある記録と考え合せて、ほぼ妥当な創祀と見てよい。尚この八坂の地は、華頂山の麓に位置し、牛頭天王示現の地と伝える瓜生石も現存し、又神社の南方に八坂の塔で知られる法観寺もあり、この一帯は今も清水寺、双林、長楽、安養、知恩院あり、当時霊地として信仰の対象であった事を思えば当社創祀は斉明期以前をも想定し得る。 以上
 


 新羅大明神
宇治市大字菟道 三室戸寺入り口

鳥居


交通
京阪宇治線三室戸寺 西1km ゼンリン

祭神
新羅明神(五十猛神)

社殿

由緒
 三室戸寺は明星山の北西部の山中にあり、観音菩薩を本尊とする。平安時代に天台宗の寺院として近江の園城寺の別院として創建された。従って、園城寺の新羅善神堂を勧請したもの。
 園城寺では、新羅善神堂の新羅明神については、『神仏図絵』に、「素盞嗚尊御子なり母は稲田姫尊、五十猛尊紀州名草の社、近江国新羅大明神是なり」とあると言う。新羅明神とは、須佐之男尊の息子、五十猛命のことだという。

お姿
 三室戸寺の入口にあたる料金所の向かいに鎮座している。門神のような扱いである。

お祭り 

『寺院神社大事典山城』平凡社

H20.12.20


 厳島神社・新羅神社
宇治市大字菟道

鳥居


交通
京阪宇治線三室戸寺 北西1km ゼンリン

祭神
厳島大神
摂社 新羅神社 新羅明神(五十猛神)

社殿

由緒
 厳島神社は江戸時代には弁財天社と呼ばれ、元禄年間に現在地に遷るまでは、西方三町許の所に鎮座していた。古代の三室津の跡と推定される地に祭られた水辺の神であった。
 当地は宇治茶の主要産地であり、弁財天を祈雨の神として崇敬していた。

 三室戸寺は明星山の北西部の山中にあり、観音菩薩を本尊とする。平安時代に天台宗の寺院として近江の園城寺の別院として創建された。従って、園城寺の新羅善神堂を勧請したもの。
 十八神社が三室戸寺の鎮守として祭られていた。ここに新羅善神堂の神が勧請されていたが、明治十年、厳島神社に遷座している。新羅明神については、「素盞嗚尊御子なり母は稲田姫尊、五十猛尊紀州名草の社、近江国新羅大明神是なり」とあると言う。

お姿
 三室戸駅から北東20分程度の集落の中に南面して鎮座している。入口の鳥居をくぐると太神宮の鳥居と祠があり、さらに東へ進むと社伝は二社並び、手前が新羅神社、向こうが厳島神社。共に山裾の南側に南面して鎮座している。
 手入れが行き届いている。聞くと、地域で六社あり六年に一度地域の祭を行うが来年が当番なので・・。とのこと。

 厳島神社の社殿は流造鉄板葺で、切石を土台としている。元禄十年の棟札・灯籠。手水鉢がある。社殿は東から熊野・菅原・厳島・八幡・稲荷の五社が三間に並ぶ。

新羅神社

お祭り 

『寺院神社大事典山城』平凡社

H20.12.20


 祝園神社
相楽郡精華町祝園柞の森1 its-mo


鳥居


交通案内
 JR学園都市線 祝園駅から北東へ20分開橋手前西
 JR奈良線棚倉下車南西15分木津川の開橋渡る西

祭神
 奈良興福寺の支配下にあったので、江戸時代は春日社と称し、祭神も天児屋根命、健御雷命、経津主命とされていた。
 風土記には羽振苑社とし、大歳神、伊怒比女神、曾富理神とあり、この祭神のほうが古そうだ。

境内には「有効神社」が鎮座。五十猛命を祀る。何故存在するのかは不明。

由緒

 式内社。
 神社の南に武埴安彦破斬旧跡の石碑がある。古事記によれば「崇神天皇十年、孝元天皇と河内の青玉の女の波邇夜須毘売の間に生まれた建波邇夜須毘古が朝廷に反逆し、越の国を制圧に向かう大毘古の命の軍に敗れたとあり、 その御魂鎮めのために四十八代称徳天皇の御代に創建されたとある。

武垣安彦破斬旧跡の石碑

 社地は「柞ノ森(ははそのもり)」と呼ばれる。古くはハフソノと呼ばれた。「ハフル」の意は死体を投げ捨てる場所の説明されている。
 ハフルは一方では「祝部」をハフリベと読むことから神職を意味し、葬送を司る事も役割であったのだろう。
 安康天皇の皇子が皇位をめぐって争い、負けた兄の首を埋めたのが 祝園の「いずの森」で、胴を埋めたのが棚倉の涌出森であるとの伝説があった。この神社と涌出宮とにはこれにからむ「居籠祭」があり、天下の奇祭と言われる特殊神事がある。


 
お姿

 大きい鎮守の森で、柞ノ森(ハハソノモリ)と呼ばれる。

お祭
 特殊神事「居籠祭」 正月 (京都府無形民族文化財指定)
第一日 風呂井の儀 風呂の井と言う井戸で秘密の祝詞を奏し、玉串を納める。
第二日 大松明を祭場に運ぶ。この時神主が鈴をならせるが、村中が消灯し一切の物音を謹慎しする。
第三日 氏子が竹の輪を曳き合う行事で、神を迎え豊かな稔りもたらす予祝儀礼である。
村人が物忌みに服する所に意味があり、神は祟る神にもなる。この神社では武埴安彦「別説では長髄彦」である。




 大井神社
京都市右京区嵯峨渡月橋北東スグ ゼンリン


稲荷風鳥居と社殿


交通案内
山陰本線嵯峨嵐山駅、阪急嵐山駅 京福嵐山線京福嵐山渡月橋北東スグ



祭神
大綾津日神、大直日神、神直日神
現在は宇賀霊神



由緒
   社前の説明書によれば式内社、大堰川の守り神、また商売繁盛の神として名高いとある。延喜式には葛野郡に大井神社はなく、乙訓郡の大井神社の後裔社であろう。
 山城大堰神とも呼ばれた。秦氏の葛野大堰造営に関連を指摘している。


本殿



お姿
 渡月橋を北に渡るとすぐに木製の鳥居が見える。自転車置き場となっている参道を進むとお稲荷さんを思わせる朱の鳥居がある。 社殿は野宮神社の旧殿を利用している。
 野宮神社は嵯峨散策の出発点として、休日には若い人々を中心に賑わっている。
リンク 野宮神社 源氏物語の宮



お祭




 綾戸国中神社
京都市南区久世上久世町446 ゼンリン

交通案内
東海道本線向日駅、阪急東向日駅 北東久世橋方面1.5km 新幹線東側

祭神
綾戸宮 大綾津日神、大直日神、神直日神
國中宮 素盞嗚尊

由緒
  昔は綾戸宮と國中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に國中宮をお祀りしてある。
 大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継躰天皇十五年に綾戸大明神として三柱の神を御勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と改められ、社号の額も七十代後冷泉帝の御震筆によると伝えられている。 戦国の兵火にあい宝器、旧記は焼失してしまったが上久世の里の産土神として古より氏子が崇拝するところである。

 素戔鳴神を御祭神とする國中宮は、神代の頃、午頭天皇=素戔鳴尊が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水のとき、天から降り給い、水を切り流し國となしその中心とおぼしき所に符を遣わし給うた。 その符とは素戔鳴尊の愛馬、天幸駒の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前に尊の形見として遣わし給うたのである。この形見=馬の頭が國中宮の御神体として祀られている。

 夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(駒形稚児)乗馬で供奉する。


本殿



お姿
 社殿は昔は西向きの二社殿であったが昭和九年の室戸台風で倒壊したため約二十米北の地に南向きの一社殿・二扉として昭和十一年秋に新築。 その後、拝殿、神饌所等を増築して神社としての形態を整えてきたところ、昭和三十九年の東海道新幹線通過のためやむなく境内地、社殿等を東に移転し現在に至っている。
 久世橋にともなう道路拡張と新幹線で社域は削られたが、緑豊かで大きい木々が多い。地元の若い人々からも大切にされている。 祭りの前日の5月9日に参拝したが、数人の青年が清掃と段取りを行っていた。



鳥居




お祭
 5月 第二日曜日  例祭
 7月13日  稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭)
 7月17日  稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭)
 7月24日  稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭)





 向日神社(むこう)
京都府向日市向日北山65 its-mo



交通案内
阪急京都線 西向日下車 北西800m



祭神
向日神 配 火雷神、玉依姫命、神武天皇



由緒
 式内社の山城国乙訓郡向神社と乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ)を合祀している。 両社は向日山に鎮座していたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
 向神社の創立についての神社の説明は以下の通り。
 大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 また「日本の神々(白水社)」によれば、大歳神の子神は白日神であり、この神名を向日と(誤って)記したものであろうとの見方をしている。地名と神名の先陣争いである。
 五十猛命の別神名と推定した白日別命と大歳神の御子の白日神とは異なった神格であるとも思われるが、とりあえず五十猛命を祭る中へいれた。

寛永二年造営の拝殿と舞殿

 『向日二所社鎮座記』には、神社の裏の峰(八尋矛長尾岬)を「朝日の直刺す地、夕日の日照る地、天離る向津日山」と書いている。 (『秦氏の研究』大和岩雄)。

 火雷神社についての神社の説明は以下の通り。火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。 後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神、玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。

 その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以後下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。 上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである。

 火は日であり、向神社と火雷神社をあわせた名前の様にも読める。「向火」とすると仏教的になることもあったのではないか。



お姿
 遠くからでもよく見える向日丘陵の南端に鎮座している。石畳の参道は300m程ある。途中駐車が多くまた坂の上から音も大きくスピードを出している車が走ってくる。鳥居を越えたら下馬させるべきだろう。
 応永29年(1422年)完成の三間社流造の本殿は南面していたが、天保年間の造営の折りに東向きに変わったと言う。 神社を守る人々の使命は古来からの姿をとことん守ることである。時の浅知恵で創建の由緒を失う事は許されない。
 社宝として、延喜四年(904年)の日本書紀神代紀下巻(重文)がある。

拝殿

役行者、不動尊など



お祭り
例祭 5月第二日曜日

『平成祭礼データ』lから

 参拝のしおり
 縁起

当社は延喜式神明帳に記載された、いわゆる式内社であり、神明式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ)を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
向神社の創立は、大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。

火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神、玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以後下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである。
 以上


日本の神々 山城 白水社  平成祭礼cd




 石座神社
京都市左京区岩倉上蔵町302 ゼンリン

鳥居


交通案内
叡山電鉄岩倉駅 北1km 岩倉実相院北側

祭神

東殿(八所大明神)
石座大明神、新羅大明神、八幡大明神、山王大明神、春日大明神、住吉大明神、松尾大明神。賀茂大明神

西殿(十二所大明神)
八所大明神、伊勢大明神、平野大明神、貴船大明神、稻荷大明神

摂社 山住神社「石座大神」石座神社の元社。境内には神殿がなく自然の巨石を神石とする古代祭祀を伝える。磐座である。その前の立石は囲いの中。its-mo

山住神社の立石と磐座


摂社 一言神社「一言主神」

一言神社



摂社 福善社「猿田彦神」

福善社と西殿と砂山

由緒
 『三代実録』記載社。東社を天照大神ほか、西社を天御中主神ほかとの説明が平凡社の寺院神社大辞典京都山城にある。明治以前の石座神社は現在の御旅所とされる山住神社にあったが、社殿のある現社地を産土神としてまとめた。
 創建は天禄2年(971年)隣接する大雲寺創建のおり、石座明神を勧請して鎮守社としたのが由縁である。 以来一千年、岩倉の産土神として深く尊崇されてきた。 天文1年(1547年)兵火に社殿焼失、仝22年再興し、現社殿は四百年の風雪を経る。
 明治10年(1877年)、一言神社・福善社を併祀する。

お姿
 本殿は二宇、大正時代の再建である。敷地の高低差を巧みに利用した境内配置になっている。

拝殿

本殿

お祭

 旧九月十五日に行われていた北山石蔵明神祭は別名を尻叩き祭と言い、新婦の尻を小さい枝木で打つ受胎のまじないであったが、明治維新以後廃止された。
 例祭 十月二十三日未明の雌雄の大蛇の形をした松明神事から始まる。 拝殿の御輿二基を前に神前の燈火を雌雄の大蛇になぞらえて大松明に点ずれば中天まで燃えさかる豪壮な火祭となる。

参考文献 平凡社 寺院神社大辞典(京都山城)



 鷺森神社
京都市左京区修学院宮の脇町 ゼンリン


鳥居


交通案内
叡山電鉄修学院北東1km 修学院離宮の南

祭神
素盞嗚尊 神号は鬚咫天王(しゅだ)

由緒
 修学寺の天王とも称した。本来の祭神は牛頭天王である。
 神使の鷺がこの森に群集していたのが名前の謂われとされている。 赤山禅院の側に鎮座していたが、修学院離宮の建設にともない、現社地に遷座した。
 赤山禅院との関連がないはずがなく、赤山禅院の鎮守ではなかったか、と推測できる。園城寺の新羅善神堂からの勧請と見て、五十猛命を祭神とする区分に入れた。

社殿の風景

 「森」の文字を持つ神社は相当古いのではないかと思われる。理由は簡単である。モリとは神の坐す場所を表す言葉であり、 それが社が出来る頃まで残っていたからこそ、「森」が社の名に残ったのであろう。
 京都では、藤森神社も該当するのでは、と、思っている。

拝殿

平成祭礼デ−タの由緒
 創建貞観年間(約千百年前)御祭神素盞嗚尊・御神号鬚咫天王・御神徳家内安全・旅行安全・諸願成就例祭日5月4日・5日

 鷺森神社は最初比叡山麓、赤山明神の付近に祀られていましたが応仁の乱の兵火で罹災し、今の修学院離宮の山林中に移されましたが、離宮造営にあたり霊元帝の思召しにより現在の鷺の杜に社地を賜り、元禄2年6月御遷座になり修学院、山端の氏神社として今日に至っております。

 毎年5月5日の神幸祭には、装束に行装を整え、赤山禅院に参詣し、修学院御旅所からは、宮中から御下賜になった御神輿に供奉して氏子区域を巡幸しますが特にこの祭列には鉦や太鼓の囃につれて菅笠に紅だすきをかけた着物姿、手には扇をもった小学生3年生の男児による「サンヨレ」という掛声と所作で練り歩く姿が珍しく可憐で情緒豊かであります。

 後水尾帝、霊元帝の修学院離宮行啓のみぎり御参拝もしばしばでありました。享保9年霊元帝、離宮御幸震記の御歌日記にをりゐるも所からなるさぎのもり問はでもおのが名のるはかりに又、享保14年2月3日行幸の際にもをりゐるをみし鷺の森すきかてにわけきてけふはむかふ神垣との御製もあり、境内にはこの一首を刻んだ故文学博士吉沢義則先生執筆の記念碑もあります。

 神域六千六百坪、境内に流れる宮川にはその昔御水尾帝、霊元帝も行幸された御下賜の御幸橋もあり、荘厳な社殿とともに桜樹、楓も多く四期幽鳥の声を聞く鎮守の社であり、又、最近では森林浴や紅葉の名所としても知られるようになってきております。

本殿

お姿
 比叡山への登り道の一つである雲母坂への道筋に鎮座している。

北側の鳥居  御旅所
 

お祭

例祭  5月4日 宵宮祭、5月5日 神幸祭


参考文献 寺院神社大辞典 京都山城 平凡社




  赤山禅院 赤山明神 赤大明神
京都市左京区修学院関根坊町 mapfan


鳥居

地蔵堂


交通案内
叡山電鉄修学院北東1km 修学院離宮の北

祭神
泰山府君
末社 新羅明神「素盞嗚尊(五十猛命)とする説もあるようだ。」

本殿前の正念珠の門
願我念誦所生福 ガンガネンジュンショジョウフク
奉入本尊智恵海 ブニュウホンゾンチエカイ
平等一味同法性 ビョウドウイチミドウホッショウ
我及衆生共成仏 ガギュウシュジョウグジョウブツ

由緒
 比叡山延暦寺の別院。 創建は仁和四年(888年)。 円仁(慈覚大師)は入唐して大陸登州の赤山法華院に一時身をおいた。帰朝して日本に赤山禅院の建立を思い立ったが、果たせず、遺言で弟子の安慧が仁和四年に赤山明神(唐名で泰山府君)をこの地に勧請、比叡山東の日吉社とともに天台の鎮守とした。
 ここは京の表鬼門で方除けの神として信仰も篤かった。また陰陽道の祖神の泰山府君祭の流行もあり、疫病・災除けの神としても崇敬された。京の盆の送り火の大文字焼きはこの慈覚大師の遺徳をしのんだものとされる。

本殿
 

 近世には商売擁護の神としての信仰を集め、懸寄神(かけよせ)とも称された。俗に五日払いと云って五日を懸取日とする商慣習が始まったのは、赤山社の賽日が五日であるのにちなむ。この日に参詣して集金すればよく集まると伝わる。
 大陸から渡来した赤山明神が掛け売りの神として日本で信仰されて長い歴史を持つのだが、21世紀になっても大陸では掛け売りの風習はない。何故なら、信義の劣る連中ばかりで、まず支払わないからだ。


 末社に西宮夷・十禅師・春日・松尾・住吉・賀茂・新羅(しんら)・平野の八神が祀られている。新羅明神は延長二年(924年)に創建されたと言う。園城寺の新羅明神からの勧請である。

 登州の赤山法華院は新羅の貿易商人の張宝高が建てたようである。6世紀である。

 明神を名乗るがここは寺と言うべきである。古来紅葉寺と言われてきた。本尊は赤山大明神であり、修法として正念珠がある。
 真言密教の修法の中では最も重要な妙観であり、これを修法する行者はご本尊と互いに観応相応して一体となり、まことの心眼を開くことができるといわれております。
 その方法は種々の懸念を去り、我とご本尊は一体なりと観想しつつ、手に数珠を繰りながら一心にご本尊(赤山大明神)のご真言(オンサルバ シチケイ ビシニダラニ ソワカ)を念珠いたします。説明板がある。

弁財天  福禄寿
 

 さて、泰山府君を陰陽道の祖神と位置づけたのはかの安倍晴明である。泰山府君は冥府の神として知られ、大陸の五岳神の一つ東岳大帝と同一視されている。漢の武帝泰山にて封の祭りを太一神と同じ礼式で行ったので、太一神(北極星)と同一とも見なされていた。

 日本では、素盞嗚尊、三輪明神、牛頭天王、福禄寿等と同一視する俗説がある。

 都七福神の福禄寿神を祀る。以下、都七福神の社寺。なお、赤山禅院にも、七福神がすべて祀られている。
ゑびす神 ゑびす神社 東山区大和大路通四条下ル
大黒天  松ケ崎大黒天 左京区松ケ崎東町31
毘沙門天 東寺 南区九条町1
弁財天 六波羅蜜寺 東山区松原通大和大路東入ル2丁目
福禄寿神  赤山禅院
寿老神 革堂 中京区寺町通竹屋町上ル
布袋尊  万福寺 宇治市五ケ庄三番割

 奥に金神社があり、その末社の一つに新羅明神が祀られている。新羅明神社は延長二年(924)創建。園城寺からの勧請と見ゆ。

金神社と向かって右側の新羅明神祠等末社群

お姿
 修学院離宮の北側に鎮座、比叡の麓、緑の多い素晴らしい地域である。犬が多く飼われており、参拝者が通る度に実にうるさく吠える。 最近寂光院が放火されたが、夜中の不届き者を撃退するには打って付けではある。
 ただし、犬を連れての参拝は禁止であることに変わりはない。

鴛鴦夫婦鳥居  相生宮
 

お祭

五月五日  端午の節句 泰山府君祭

参考文献 寺院神社大辞典 京都山城 平凡社、皇城表鬼門赤山禅院由緒、都七福神まいりちらし

「赤山神」と「道教」との関係

赤山明神は泰山府君のことで、チャイナの聖なる五岳の一つである東岳の泰山にすむ東岳大帝の別名である。
 東岳大帝とは道教の神で、人の命を司ると信じられてきた。赤山の一角に紅門石という赤みがかった場所があり、その中に「財神」がいるとの伝承がある。


 五岳は五行説の現れであり、東岳は人間の貴賤高下の区別や生死の時期を司ると考えられている。東方は万物を生成する「気」があるとの関係である。
 人は死ぬとその魂は泰山に行く、その泰山の神は死後の世界を支配すると一般に信じられていたが、これは道教になじまない。


          参考 −『日本史を彩る道教の謎』から−
 



 八大神社
京都市左京区一乗寺松原町1 its-mo


鳥居

交通案内

 叡電一乗寺駅 東へ1km



祭神

素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)



由緒

 永仁二年(1294)祇園八坂神社から勧請。古来より北天王(北の祇園)と称し、皇居守護神十二社中の一。都の東北鬼門に位置し、方除、厄除、縁結び、学業の神として信仰あつく、天皇の修学院離宮行幸の際、白銀などの奉納があった。

 宮本武蔵の一乗寺下り松での決闘の前に吉岡一門に勝つことを祈願しようとしたが、「神仏を尊んで、神仏をたのまず」と悟って、祈らずに向かったと云う。開悟の社である。


拝殿

お姿

 詩仙堂の東側に二の鳥居がある。一の鳥居は何代目かにはなっている下り松の北側にある。先代の下り松が境内に祀られている。
 境内は春は桜の頃などでか、華やいでいるような明るい感じ。中村錦之助の宮本武蔵の映画の写真が貼られていた。


本殿


一乗寺下り松  一の鳥居
 



お祭り

例祭   4月 4日

平成祭礼データ 八大神社

 御祭神素さの鳴命稲田姫命八王子命(五王子三王女) 当社は永仁2年3月15日勧請(今より約700年前)(西暦1294年)祇園八坂神社と御同神に坐し古来より北天王(北の祇園)と称し皇居守護神十二社中の一にして都の東北隅表鬼門に位置し、方除、厄除、縁むすび、学業の神として世の信仰厚く、後水尾天皇、霊元天皇、光格天皇、修学院離宮行幸の砌御立寄り白銀等御奉納あり明治6年10月5日藪里牛頭天王社(永享10年11月28日勧請)同7年3月5日舞楽寺八大天王社(永享10年9月朔日勧請)を合祀す大正13年幣帛供進神社に指定せられる因に剣聖宮本武蔵が吉岡一族と決斗せし当時の“下り松”の古木は拝殿前に保存してある
以上

 



 平井神社
山城久世 城陽市平川東垣外79 its-mo



交通案内
 近鉄京都線久津川下車西側

祭神
 神速須佐之雄命、八十猛命、奇稲田比

 八十猛神については、他の祭神から五十猛神と見なしたが、地元では日本武尊との意見もある。 五十猛神を日本武尊に差し替えるのは武蔵の杉山神社などにも見ることが出来る。
 「八十」の付く神は八十禍津日神、八十瀬理比古神、八十萬神などがある。神武東征物語には忍坂の大室で、尾のある土雲八十建をだまし討ちにする話があるが、この土雲は神としては祀られていないようだ。 もしこの神社の八十猛が八十建ならここだけと言える。しかし鎮座する場所がおかしいこと、相殿の神々からもそれは想像しにくい所ではある。

由緒

 御神体は薬師如来像一基と仏像二基。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていた。
 この神社に付属した真言宗の蓮開寺があり、享保十八(1733)年には存在していた。 この寺の僧文龍は大般若経六百巻きを求め、虫干しを兼ねての輪読という独特の方式のの読経が有名である。
 この寺には頭が牛、身体が人間の抱き合った像がある。

お姿
 両側に杉や桜の植えられた長い参道をぬけると、一間社流造の本殿が鎮座、正保二年(1645)に建てられたもの。 正面の柱などに桃山時代風の彫刻がほどこされている。シイ、カシの鎮守の森もいい。
 江戸時代の明神鳥居は京都府の指定文化財。

お祭
 10月 7日 例大祭


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神奈備にようこそ

 道相神社
京都府南丹市美山町宮脇ヒノ谷43-1 地図丸

鳥居



交通案内
南丹市営バス宮脇 南50m



祭神
神日本磐余彦命、五瀬命、軽野皇子
『京都府北桑田郡神社明細帳』神武天皇、五十猛命、軽野皇子
摂社
 左 三吉神社 天村雲命、五十猛命、熊野高倉事、須佐之男命
 右 若宮神社 天屋津姫命、抓津姫命 (注 天屋津姫命とあるが大屋津姫命であろう。)

 上 垣森宮

由緒
 宮脇を北流する原川の東方山麓に鎮座、祭神は木梨軽皇子・神武天皇・五瀬命。旧郷社。
 社伝によると允恭天皇の皇子木梨軽皇子が、故あって一〇余年間河内谷に潜居、その後軽野(現大字王内)を経て宮脇に移ってここを永住の地と定め、一社を創建して軽野神社と名付け神武天皇と五瀬命を祀ったのに始まるといい、これは武烈天皇即位の二年のことという。後に郷民が皇子の遺徳を慕い、皇子を合祀して道相神社と改名したと伝える。ちなみに木梨軽皇子は次弟穴穂皇子(のちの安康天皇)との皇位継承で争い、敗れて伊予の湯(道後温泉)に流刑、その地で没している。
 社名から推察すれば道祖神信仰との融合と考えられる。応永一五年(1408)火災にあい、社殿・古文書ことごとく焼失。文政五年(1822)に改築したのが現在の社殿である。

拝殿



 
お姿
  本殿は西向き、神明造、檜皮葺、桁行梁間各三間。拝殿は草葺、間口二間・奥行三間、鏡天井。

 栢の巨木が神木のようだ。杉・樫など木々が大きい。鎮座地は美山町に神楽坂トンネルを越えてしばらく来た場所で、この辺りから道は東西に分かれている。まさに道祖神の織られる所。本殿の上に鎮座の祠(垣森宮)に道祖神が祀られているのだろう。

本殿


摂社 三吉神社


摂社 若宮神社


摂社 垣森神社


祭り
例祭   4月30日 2日間  太刀振り 5月1日には神楽が奉納され太刀振・笹ばやしの神事が行われる。
秋祭り 10月下旬の日曜日

神社本庁平成祭りデータCD

 当神社は伝承古文書によりその由来が明らかにされ近郷最古の歴史を持つとされている。又本殿破風には菊の御紋章を奉戴しその尊厳を弥が上にも崇め産土の神々を御祭神とし古代よりこの地方の総氏神として崇拝されて来た御社である。

 当神社の由来は第十代崇神天皇御宇<前九七年〜前三〇年>に四道将軍の一人としてこの丹波地方に遣わされた丹波道主命がこの地方開発のためここ宮脇の地に野々宮御所を創建されたのが起源とされている。爾来二千年、時代の変遷と共に御社名も野々宮、道主一ノ宮大明神、軽野神社そうして延長七年<九二九年>に道相神社と改名したとされている。今の社殿は文政五年、野々村三十三ケ村[大野、河谷、岩江戸、向山、樫原、小渕、萱野、肱谷、音海、小笹尾、嶌、宮脇、原、市場、和泉、棚田、板橋、下吉田、上司、沢田、中、大内、安掛、上久保、下平屋、上平屋、野添、深見、長尾、荒倉、砂木、栃原、棚、今宮、亦林]氏子の尊い寄進により再建されたのである。又一際参拝者の目を引く山門は寺院造りであり神仏混淆の時代<七〇〇年〜一八六八年>に建立され明治三十五年<一九〇二年>復元往時の名残を今に留めている。氏子たちは毎年十月九日を例際日とし秋の豊穣を祝いあって来た。とりわけ大正二年<一九一三年>には郷社昇格を祝い、昭和四十四年<一九七〇年>には軽野神社創建千五百年を記念して共に大祭を執り行って来たところである。更に本年平成四年<一九九二年>は氏子総参加の元に古代を追憶しつつ、野々宮御所創建二千年記念大々祭を執り行うべく、着々とその準備を進めている。 今、この静かな鎮守の森は先人達によって築かれた尊い長い歴史の重みを秘め丹波美山の人々の幸せを見つめつつ二十一世紀という新たな時を刻もうとしている。

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 伊也神社
京都府綾部市広瀬町城山14-3 google

鳥居



交通案内
JR山陰線山家駅 北1km 人か自転車しか渡れない橋を渡り、すぐ前の山家城跡公園の近道を登る。谷霊神社の向かいの山に鎮座する。


祭神
大日靈賣尊、月夜見尊、素盞嗚尊
『綾部市史』 大日靈賣尊、素盞嗚尊
度會氏『神名帳考證』大屋彦神


由緒
 丹波国何鹿郡の延喜式内社である。
 社伝によれば、「崇神天皇十年、道主王、丹波国何鹿郡に来、甲ヶ峰の麓に宮殿を造営し、この三神を祭り 崩御後、伊也神社を勧請し奉るとあり、文意不明としている。三神を祭るというのは後世の附会であって、丹波道主王を祭るのではないか。」としている。『日本書記』には、崇神天皇の代に丹波道主王が丹波に派遣されたとあるが、『古事記』には、その父である日子坐王が派遣されたとある。

 祭神を大屋彦神とする見解であるが、ヤヒコに大をつけると大屋彦、一方、イ+ヤヒコともできる。偉大なヤヒコ、神社名のイヤ神社とはイヤ神を祭ると言うことだから、これを重視すると大屋彦とすることは不自然ではない。

二の鳥居



 
お姿
 山家駅を降りて右手に進むと。由良川を渡る橋がある。人と二輪車のみ。渡ると山家城跡の山に突き当たる。左にふって近道と表示のある坂道がある。道なりに登ると自動車道が出てくる。左にいくと谷霊神社が正面に出てくる。その斜め向かいに鳥居があり、少し登ると鳥居と覆殿と祠が出てくる。

 杉林の中の岩場の場所を鎮座地としている。往古よりここにあったとは思えない。   


本殿


磐坐か



祭り
秋祭   10月 10日 


谷霊神社
 

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 賣布神社(メフ)
京都府京丹後市網野町木津女布谷(にょうだに)217 its-mo

鳥居



交通案内
北丹後鉄道木津温泉駅東500m

祭神
豐宇賀能当ス、素盞嗚命
摂社 八幡神社 誉田別命、久々能之命、五十猛命

由緒
 『竹野郡誌』に次の様に記載されている。
 垂仁天皇九十年春、田道間守勅を奉じて常世国に渡航し、不老不死の香菓たる橘を得、景行天皇元年無事帰国し、田神山(屋船山)に神籬を設けて礼典を挙げられしより、此の地に奉祀せしを以て創始とする。

 素盞嗚尊は正安二年(1300)疫病がjはやり、疫鎮のために京都祇園社より勧請した。

 摂社の八幡神社は、当社全体を八幡宮と称した程に大きい信仰の対象であった。

社殿 向かって左に摂社

お姿
 参詣時には豪雨であった。同時に祭礼の日で子供神輿が這々の体で帰還して来た。境内は広くはない。

お祭

 例祭  10月10日

参考
『式内社調査報告』



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 賣布神社(ヒメフ)
京都府熊野郡久美浜町女布724 its-mo

船石



交通案内
丹後神野駅から日光峠を越え南に。5.5km。

祭神
豐受姫命、大屋媛命、抓津媛命
『丹後旧事記』大賣布命

鳥居と拝殿

由緒
  姫布大明神、女布大明神と称されていた。
 『丹後一覧記』には、垂仁天皇の代、河上摩須の勧請としている。河上摩須とは『古事記』で「美知能宇志王(丹波道主)が丹波之河上摩須郎女を娶り、比婆須比売命を生んだ。」との記述がある。この様な創建譚が出来ていることは、相当な古社であることを語っている。丹後国熊野郡の式内社賣布神社である。

 鳥居の横の船石とは船を埋めた記念。ここに鎮座する以前に祭神が七ヶ村を経由して船によって女布小字船處に上陸したと言う。神社には長船大明神宮との別名があるのはこの船石伝説による。

 社頭掲示によれば、南方170mの地には布杜神社があり、当社を大宮、布杜神社を小宮と呼んでいるとある。

本殿

お姿
 境内は広くはないが遠目からでも神社の杜らしい木々が見える。

布杜神社(石燈籠には妙見社の文字)

お祭

 例祭  4月15日

参考
『式内社調査報告』

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