大和の五十猛命

Welcome to Kyoto.Sorry The Japanese Language only.



奈良市春日野町 春日大社摂社紀伊神社

北葛城郡広陵町 熊野三柱神社

北葛城郡広陵町 記三上神社

吉野郡吉野町(東吉野村) 丹生川上神社中社(蟻通神社)

宇陀市大宇陀春日 春日神社摂社伊太祁曽神社

五條市黒駒町 御霊神社・落杣神社

五條市北山町 高天岸野神社

奈良市下誓多林町八柱神社

奈良市中誓多林町 八柱神社

奈良市大平尾町 八柱神社






  紀伊神社
春日大社摂社奈良市春日野町 ゼンリン



神社風景

交通案内
奈良駅東2kmに春日大社本殿、ここから南へ500m  

祭神
五十猛命
相殿 大屋津姫命、抓津姫命


由緒
 素戔嗚尊の御子神で樹種を持って天降り日本国中に播いて林業を広く興した。
 その神徳の広大なことから古来有功(いさおし)の神と称えられる。

お姿
 三笠山の南の中腹に鎮座、春日大社の摂社らしく、鳥居、本殿は朱色である。
 本殿真後の杉の木が大きい。

本殿



お祭
旧9月15日




 熊野三柱神社
北葛城郡広陵町南郷1007

鳥居
以降の写真はそまさんご提供

交通案内
近鉄大阪線 大和高田 北へ30分 南郷 庄之垣内 its-mo

祭神
日鉾命
伊太邪曽神
日前神
もしくは 伊太祁曽神、熊野速玉神、素戔嗚命

拝殿

由緒
 創建年代は不詳。伊太邪曽神は伊太祁曽神の事、五十猛命である。
 日前神は日前国懸神宮の二神の神の一柱。また日鉾命も国懸神宮の御神体ともされるのであるが、出石神社におさまった天日矛命ともとれる。
 この三神が熊野の三神ととなえているような神社名である。神々からは紀の国の神々を指しているようだ。
 また半島との関係も強く感じられる。天日矛の新羅、五十猛命の曽尸茂梨は伝承がある。日前(桧前、桧隈)は紀氏に関わり、これは半島の騎馬民族の流れを想記せしめる。三柱は全て渡来系の神々とも言え、熊野と半島との古来よりのつながりを思わせる。
 大和の葛城方面は紀の川の上流につながり、また紀氏の一族である武内宿彌に発する蘇我氏や平群氏の居住地にも近い。

 『広陵町史』によると、江戸時代初期に「記三社」の存在が伝えられており、記三上神社もしくは当社が後裔社だろう。



お姿
 神社のある地域一帯は広々とした農業地域で、麦作も行われている。二上山がくっきりと見え、葛城金剛の山系、畝傍、耳成、三輪山等も、大和平野の霞の中にうっすらと見える。

本殿



お祭
10月16日 秋祭
 




 記三上神社(き−みかみ)
北葛城郡広陵町三吉361 ゼンリン



交通案内
近鉄田原本線 箸尾 南へ 3km 広陵中の南西、斎音寺公民館の西すぐ

祭神
大屋都姫命
伊太祁曽神
都麻都比女神

由緒
 社伝によれば、舒明天皇が百済宮に坐した時の創建と云う。祭神は五十猛命三兄妹神である。

お姿
 神社のある地域は広々とした農業地域で、東に葛城川、西に高田川が流れている。殖産の神として祀られているのだろう。 石碑があり、豊丸大明神、春永大明神、伊佐貴大明神と刻まれている。 後ろの伊佐貴大明神が伊太祁曽神とすれば、妹神の呼ばれ方として豊丸、春永と言う色っぽい雰囲気があったのだろうか。 拝殿は新しい。立木は杉、楠が神社を取り巻いているが一重であり、深くはない。また社の名前もどこにも見えない。

鳥居と本殿



お祭
7月28日 夏祭り
9月28日 秋祭り
 

BR>



 丹生川上神社中社(蟻通神社)
吉野郡吉野町(東吉野村)小[おむら] its-mo


蟻通神社鳥居



交通案内
近鉄吉野線 大和上市から新子[あたらし]経由鷲屋口 東へ4km
近鉄大阪線 榛原から莵田野町経由鷲屋口→蟻通で降りると目の前



祭神
罔象女神
摂社 丹生神社 彌都波能賣神
   木霊神社 五十猛命

木霊神社の風景


木霊神社は昭和57年近くの小川郷の木材関係組合が和歌山市伊太祁曽神社から勧請された新しい神社である。



由緒
 延喜式の丹生川上神社の論社の一つで高見川流域に鎮座する。論社は他に吉野川流域の上社、丹生川流域の下社がある。 中社は蟻通神社と呼ばれていたが式内社に比定され官幣大社に列した。同時に祭神増加として上社、下社を合一、中社が中心的存在となった。
 太政官符に「人声の聞こえぬ深山の吉野丹生川上にわが宮柱を立てていつきまつれば、天下のため甘雨を降らせ、霖雨[あしきあめ]をやめよう」との神のお告げがあったので「この社を建て、古来幣と馬を奉った。 よって四至の内に神馬を放牧して、狩猟を禁止した」とある。 祈雨、止雨の神として崇められた。後に京都の貴船神社とともに幣帛、黒馬(祈雨)、また祭料、白馬(止雨)が奉幣されたが、以後は全く衰微して、場所さえ不明となった。
 神武天皇が天神の教示で天神地祇をまつり、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。顕彰碑が摂社丹生神社の前に建立されている。
 吉野の氏族と深い由縁のあった天武天皇が、壬申の乱後、浄見原政権樹立に当たり、先の神武天皇伝承の地に当社を創祀したとされる。 

 古い祝詞の「天野吉門」の伝えによれば、神代、紀伊国伊都郡奄田村石口に天降られた丹生都比売命は紀ノ川(奈良では吉野川)沿いにこの丹生川上の地に上られ、国かかし給ひ(国見をする意)、十市、高市、宇智、紀州の幾つかの地を経て、かつらぎ町天野丹生都比売神社に鎮座とある。



お姿
 小牟漏岳の山麓、御手洗川を隔てて丹生峯に対する段丘上に鎮座する。北から三尾川、南から木津[コツ]川、東から日裏川の合流点でもある。 境内には大樹、見渡せば四方八方緑につつまれる景勝のちである。 小牟漏岳境内地にツルマンリョウ、テンダイウヤク、ツクバネなど多種の植物が自生している。
 もとは対岸の本宮山(旧地に摂社丹生神社が鎮座)に祈雨神として祀られていたと言う。
  後醍醐天皇御製 この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空


本殿


摂社丹生神社



お祭
10月16日 檀尻祭
 




 春日神社摂社伊太祁曽神社
奈良県宇陀市大宇陀春日59 its-mo

春日神社の二の鳥居と社殿



交通案内
榛原駅からバス大宇陀高校前 東へ500m

祭神
春日神社 天兒屋根命、配祀 武甕槌命、經津主命、姫大神
伊太祁曽神社 五十猛神、大屋津姫神、抓津姫神

天の沼矛石

春日神社の由緒
  当社の創立は詳らかではないが文禄3年の古図面に春日社地と記され、長さ拾壱尺弐寸、厚さ弐尺壱寸、巾弐尺九寸の加工跡のない巨石があると記され、又『宇陀旧事記』に「春日神社春日村にあり天児屋根命を祀り阿貴山の峰に神楽石、麓に天の沼矛と称する長さ拾余尺の霊石あり」と記されている。
 中古当地領主秋山右近直国が築城の際彼の霊石を以て城基とすと伝ふに至り、爾後城廓を築くこと屡々にして殆ど古跡を損し著名の影跡あるに不拘ず惜しむべきである。
 中古以来春日神社と唱え現在に至る。

春日神社の社殿

お姿
 宇陀川をはさんで阿紀神社と対峙する場所に鎮座。一の鳥居から社域まで長く、大きさを感じる神社。拝殿に上る石段の左側に天の沼矛石が置かれている。

 木々が多く、社殿の朱とよく調和している神社。

お祭

 例祭  7月18日
 秋祭 10月 8日


摂社 伊太祁曽神社


由緒
  平成五  に紀の国の伊太祁曽神社から勧請した。当地には材木業者が多く、近年の不況と輸入木材との価格競争で苦しんでいる。植樹の三神を伊太祁曽神社から勧請し、何とか事業の運営を続けられるように神頼み。
 このような事例は蟻通神社(丹生川上神社(中社))にも見られる。

伊太祁曽神社

 二本の杉の木の根元に勧請している。社殿はない。

伊太祁曽神社


伊太祁曽神社についての説明


 古市場の宇陀水分神社に勧請されたと聞いていたが、宮司さんの兼務社であるこの春日神社への勧請であったようだ。

参考
『平成祭礼データ』『神社内掲示』



 御霊神社・落杣神社摂社大屋比古神社
五條市黒駒町376 落杣神社ゼンリン


交通案内

奈良県 五條市 黒駒 大和二見駅から西に行き犬飼から紀ノ川を渡る。左側の山



祭神

井上内親王


地域の合祀された神社(地域名)
天照皇大神社(表野)祭神 天照皇大神
八幡神社(大津)祭神 譽田別尊
稲荷神社(中町)祭神 保食神
八王子神社(大打)祭神 八王子神
大屋比古神社(山陰)祭神 大屋比古神(大綾津日神)


由緒

 
御霊神社
 御祭神は光仁天皇皇后で聖武天皇皇女井上内親王である。 奈良時代、大仏建立などの大事業を進められた聖武天皇の皇女として、717年にお生れになり、721年、5歳にして伊勢皇大神宮に斎宮として出仕、任終えて後、白壁王の妃となられました。 770年、白壁王(62歳)即位、第49代光仁天皇となられ、同時に内親王(54歳)は皇后になられ、翌年、御子他戸親王(11歳)も皇太子となられました。 けれども、翌年、巫ごの罪(巫女に天皇を呪う祈祷をさせた罪)で皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。 更に翌773年、厭魅の罪(人を呪う呪いをした罪)で親子共に、流罪となり、大和国宇智郡の没官の宅の土舎に幽閉されました。 奈良時代末期の混乱と政権争いの中で、光仁天皇妃高野和新笠の御子山部親王(後の第50代桓武天皇)を擁立する、藤原朝臣百川の策謀によるものと伝えられています。
 775年4月27日、母子とも逝去されました。又、配流のこの地で、御子をお産みになったと伝えられ、若宮火雷神として御山町に祀られています。 没後、都に天変地変相次ぎ、悪疫流行したため、母子のたたりと恐れた天皇は、翌年、600人の僧に金剛般若経を読ましめ霊を慰められました。 翌777年、勅使を当地に差し向け、墳墓を改葬し御墓と称し墓守を置いて守護させました。
 その後、800年に勅使葛井王下向し、皇后の位に復し、霊安寺に御霊神社が建立されていくこととなります。『御霊信仰』の起源fです。

御霊神社の鳥居と社殿



 1238年嘉禎4年2月、吉原・牧野両豪族の論争がきっかけとなって宮分けが始まります。 御霊信仰が、盛んになり、宇智郡一円の氏神として、信仰をあつめるようになると、身近な所に御霊さんをお祭りしたいと願うようになってきた為、宮分けがすすみました。 現在五條市内に祭祀される御霊神社は20社にのぼります。 当黒駒町に鎮座する御霊神社は、1238年、最初に宮分けがおこなわれた11社の内にあります。 当地に伝わる宮分け伝説によると、「阪合部地区の氏子は、当初犬飼に分祀する予定であったが、黒駒の落杣神社のあたりまでお渡りしてくると足が動かなくなり、この地に祀るようにと言う神意であろうと考え落杣の森にお祀りすることになった。」と伝えている。

 大屋比古神社 五條市山陰町220 ゼンリン
 御霊神社の南1km程の山陰(やまかげ)に大屋比古神社と五社神社、八坂神社、宝木神社、厳島神社が合祀されていた。 それが更に御霊神社・落杣神社の摂社となった。境内には摂社が幾つかあるのだが、残念ながら神社名は消えてしまって現在判読できるのは猿田彦社のみである。

 山陰には「山陰町今昔誌研究会」による山陰史跡略地図が道端に掲示されており、上記の山陰の各神社の合祀社跡の場所が判る。 山陰町220の金剛寺に隣接した粗末な建物の中に合祀社の神殿が残っている。
 地域の人々の心にそわない御霊神社への合祀であったように思われる。
 なお大屋比古神社の祭神は大屋比古神(大綾津日神)と記されている。

山陰合祀跡とその中の神殿



お姿

 大和二見駅から西に行き犬飼から紀ノ川を渡る。富貴方面へのバス道である。このバスは一日3便である。犬飼は狩場明神に通じ、富貴もまや丹生都比売神に通じる。ここも下流に五十猛命が祀られている。
 神社は小山の頂上に鎮座、木々に埋もれている。楠、杉、檜などが目立つ。

お祭り

例祭 10月23日



 高天岸野神社
奈良県五條市北山町1289


木造四脚鳥居と石段



交通案内
JR和歌山線五條駅からバス田園一丁目から登り口まで40分、山道を40分。 奥深い山中であり、一本調子の登りで約30分。途中にいくつかの田畑がある。更に奥へ登って行くが、昔は集落があり、寺院もあったようだ。  登り口付近の地図

祭神
高天岸野神 (市杵島姫命または五十猛命かも)

由緒
 式内社。付近にそれらしい神社のないことでほぼ間違いのないところ。
 高天山とは旧葛城山(金剛山も元は葛城山)の古称で、高天はその東斜面の高地をさしている。
 地元では弁天さんと称して、岸野弁財天との注釈も古書もある。

 このように祭神については江戸時代初期には市杵島姫命とされていたが、もとより創建年代、沿革については不明。また岸の山草谷寺(高野山真言宗)の奥の宮ともされていた。
 高野山、紀の国、岸野を紀氏之と理解すれば、紀氏に縁の神社の可能性も考えられる。また宇智郡には式内舎の高天山佐太雄神社の名が見え、佐太雄神を素盞嗚尊と見ている所と、鎮座地が山の中であることから紀の国の植樹の神であり、素盞嗚尊の御子神の五十猛命を祭神としていたとも考えられる。 五十猛命には齋神の神格もあるようで、厳島神の市杵島姫命とどっかで混同したのかも知れない。

本殿 一間社春日造



お姿
 標高800mの高所の山腹の断崖上に鎮座、神紋は「下り藤」。背後の崖には大きい岩が頭を出している。山はそそり立っている。本殿鎮座の広場は古代の磐座祭祀場のように感じる。 全体がこんもりとした鎮守の森と言える。本殿は昭和26年に復興の神明造の荘重な雰囲気を出す。


磐座




お祭
例祭 12月第一日曜日(弁天さん)
 
参考文献 式内者調査報告2




 八柱神社
奈良市誓多林町1295 its-mo


遠景

交通案内

奈良交通水間行きバス日笠 北へ2km



祭神

五十猛神、大屋津比売命、抓津比売命、多岐都比売命、八島士奴美命、大年神


社殿


由緒

 誓多林町はもと上、中、下の誓多林に分かれていて、それぞれに八柱神社があったが、大正九年に中誓多林の八柱神社に合祀された。従って上と下の八柱神社は廃されたことになるが、現在も両方の神社とも境内地が残っていて社殿もある。これは下誓多林の八柱神社。
 祭神は京都の八坂神社に祭られている素盞嗚尊の御子神で、田畑の作物を守り、あるいは木種を諸国に頒布した神々など、山や田を守る霊験あらたかな神である。


社殿



お姿

 大平尾町の八柱神社と谷をはさんで鎮座している。
 村の東の高所に鎮座、石段を登っていくと昼尚暗い杜の中に南面して鎮座、隣は稲荷社。
 この神社から中誓多林の方向へ少し歩くと、金比羅大神の石碑が磐座風にたっている。


金比羅大神



お祭り

例祭 

『奈良市史 社寺編』



 八柱神社
奈良市誓多林町689 its-mo


西から

交通案内

奈良交通水間行きバス日笠 北へ2km



祭神

五十猛神、大屋津比売命、抓津比売命、多岐都比売命、八島士奴美命、大年神


社殿


由緒

 誓多林町はもと上、中、下の誓多林に分かれていて、それぞれに八柱神社があったが、大正九年にここ中誓多林の八柱神社に合祀された。従って上と下の八柱神社は廃されたことになるが、現在も両方の神社とも境内地が残っていて社殿もある。この町の人々の信仰の根深さが見える。
 祭神は京都の八坂神社に祭られている素盞嗚尊(中央)、櫛稲田姫(東)、御子神の八柱御子神達で西座に祭られている。、田畑の作物を守り、あるいは木種を諸国に頒布した神々など、山や田を守る霊験あらたかな神である。


社殿



お姿

 朱色の鳥居の背後の本殿と八坂神社、宗像神社、三十八柱神社、大国主神社が並ぶ。それぞれ朱色の祠で美しい。 当地より200m程東の境外に八坂神社が鎮座、朱色の小さい鳥居と祠がある。


境外摂社の八坂神社



お祭り

例祭 10月15日、16日



『奈良市史 社寺編』



 八柱神社
奈良市大平尾町232 its-mo


遠景

交通案内

奈良交通水間行きバス日笠 北へ1.7km



祭神

五十猛神、大屋津比売命、抓津比売命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐都比売命、八島士奴美命、大年神(奈良市史)

天忍穗耳命、天津日子根命、活津日子根命、天菩比命、熊野久須毘命、多岐理比賣命、多岐都比賣命、狹依比賣命(平成祭礼データ)


社殿


由緒

 三社殿には覆殿がある。元文三年(1738)の石燈籠がある。 神社には元和三年(1617)以来の宮座南講中の座入りを記した記録がある。 さらに古い記録があったがなくなったと言う。
 『奈良市史』の祭神は京都の八坂神社に祭られている素盞嗚尊の御子神で、田畑の作物を守り、あるいは木種を諸国に頒布した神々など、山や田を守る霊験あらたかな神である。
 『平成祭礼データ』の祭神は天照大御神と素盞嗚尊との誓約で誕生した五男三女神。


社殿



お姿

 下誓多林町の八柱神社と谷をはさんで鎮座している。
 日笠から北上の道を保険屋の所を左に下って谷に降りる寸前に左に登る道があり、登っていくと神社。 朱色のあでやかな雰囲気、本殿の隣に稲荷社と八幡社。
 山の麓と言うか中腹に鎮座、木々が多い。


本殿



お祭り

例祭 10月17日

『奈良市史 社寺編』

五十猛命ホームページ
神奈備にようこそに戻る

inserted by FC2 system