八坂神社
京都市東山区祇園町北側625 its-mo

東山四条の西向きの楼門

南側の鳥居





交通案内
 阪急四条河原町、京阪電鉄四条 東へ数分 「祇園」 

祭神
 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)、神大市比賣命、佐美良比賣命、稻田宮主須賀之八耳神

拝殿



由緒

 斉明天皇二年(656)高句麗の使い、伊利之使主(いりしおみ)が来朝した時に祇園祭が始まったと伝えられている。伊利之は『新撰氏姓禄』に八坂造の祖の意利佐の名が見え、またこの付近は八坂郷と称したことから、半島からの渡来人が牛頭天王を祀ったのが創祀と言われている。
 創建の確実な根拠は、「貞観十八年(876)南都の僧円如が堂宇を建立、薬師千手等を祀ったのを、天神東山麓の祇園林に垂迹して御坐します。」とあり、この時期のようだ。

 八坂神社が素盞嗚尊を祭神とするのは、次の二つの資料によるものと、先の真弓宮司さんは説明される。
 『伊呂波字類抄』に「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神とも云う。」と記されていること。
 『備後国風土記』の逸文に「昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったが宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行った時、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災からのがれさせたが、その他のものはことごとく死に絶えた。そこで仰せられて私は速須佐雄の神である。後の世に疫病が流行ったら、蘇民将来の子孫といって、茅の輪を腰に着けた人は免れるだろう。」
 牛頭天王=武塔天神=速須佐雄の神と云うこと。

 『二十二社註式』では、姫路の広峯神社の祭神を勧請したとする。
 当社は賀茂、松尾、稲荷などと同様に6世紀半ば頃には農耕の神として八坂郷の崇敬を集めていた。素戔嗚信仰は、天神の荒御霊が雷雨をもたらす根源として神格化されたことに由来するが、それは慈雨をもたらすものとして農耕神と結びつき、さらに雷神=御霊となり、ついには災厄をもたらす疫神となるに及んで、牛頭天王がその神格となった。疫神の神牛頭天王がさらに疫病除けの神に昇華したのである。 素盞嗚尊がソシモリ(牛頭山)に赴いたとは免疫されて防疫神となったことを意味する。天然痘やオタクフ風邪を軽症ですませるには、進んで罹っておくことであり、疫神は善なる神でもある。今でもオタフク風邪が出ると子供をその家につれていく。牛の天然痘は人間には軽く、牛の血を玄関に塗って魔除けにしたのである。この牛の頭を神にささげた所から牛頭天王が大善神となり、素盞嗚尊と同一視されたのである。種痘法である。*1

本殿



お姿
 大晦日の「をけら火」は近隣府県からも多くの参詣者が集まる。人と人の間に挟まれ、身動きができない程である。 自然に本殿前まで運ばれ、そのまま吐き出された記憶がある。手を合わせるとか、お賽銭をさしあげることすらできない。
 真夏の風物詩「祇園祭」はあまりにも有名である。



祇園祭り  「祇園御霊会」と呼ばれていた。大阪の天満祭、東京の神田祭とともに日本三大祭に数えられる。 室町時代からか商工業の発展に寄与した氏子の富裕化が、この祭を華美な者にしていき、山鉾も大型化し数も増えたのである。
 祭儀 7月1日から29日 山鉾巡行は7月17日

疫神社
祭神 蘇民将来
 むかし祖神が諸国を巡っては日暮れに宿を請うたところ巨旦将来は富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来は貧しかったけれども粟穀で座をしいて粟の粥で手厚くもてなしましたので、「われはハヤスサノヲの神なfり」といい、後年疫病が流行っても茅の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば、災厄から免れしめると約束され、巨旦将来の子孫は皆絶えてしまいましたが、蘇民将来の子孫は今に栄えています。
 例祭 1月19日 夏越祭 7月三十一日

大田社・白髭社
祭神 猿田彦神、天鈿女命
 猿田彦神は天孫降臨に際して日神の使として先導の役割を果たした導きの神とされています。
 天鈿女命は天照大神の天岩戸隠れに際し、岩戸の前で神楽を舞った神であり、天孫降臨にお供をして猿田彦神と対面してともに導き、宮廷神楽を奉仕した猿女君の遠つ祖であり、芸能の神とされています。

北向蛭子社
祭神 事代主神
 俗にエベッサンと称され、福の神、商売繁盛の神として崇敬されています。事代主神は大国主の御子神ですから素盞嗚尊の孫神にあたります。
 記録によると中古以来「西楼門内、北向きに立つ」とあり、古くから現在地にありました。
 現社殿は正保三年(1646)の建造で国の重要文化財に指定されていまして、平成十年六月屋根(柿葺)葺替、塗替行いました。
 1月9・10日、初えびすのお祭りは商売繁盛のご祈願で賑わいます。

大国主社
祭神 大国主命、事代主命、少彦名命
 大国主神は、大己貴命、八千矛神その他多くの名を持ち本社の祭神素盞嗚尊の御子とも六代の孫とも伝えます。
 出雲の神さまで俗に「大黒さん」といわれる福の神であり、縁結びの神とされています。
 事代主命はその御子、少彦名命は医薬の神で大国主命とともに国造りに励まれました。

大神宮社

 伊勢の神宮の天照大御神(内宮)と豊受大神(外宮)をお祀りしています。天照大御神は皇室の祖神で素盞嗚尊の姉神であり、豊受大神は天照大御神の食事を司る神です。
 春季祭 4月17日  秋季祭 10月17日

 

悪王子社
祭神 素盞嗚尊の荒魂
 悪王子の「悪」とは「強力」の意であり、荒魂は、現実に姿を顕わす、霊験あらかたな神の意であります。
 諸願成就の御神徳で聞こえております。元は東洞院四条下ル元悪王子町にありましたが、天正年中(1573〜92)烏丸通万寿寺下ル悪王子町に還り、慶長元年(1596)四条京極にさらに明治十年(1877)本社境内に移築したものです。

美御前社
祭神 市杵島比売神、多岐理比売神、多岐津比売神
 美御前という名の通り、美を象徴する神として祭られています。本社の祭神、素盞嗚尊が天照大神と誓約(うけい)をされたとき、素盞嗚尊の持っておられた十拳剣を振りすすいで生まれた女神で、宗像三女神といい、清浄、潔白の証しとなった神々で、俗に弁天さんといわれるのもこの市杵島姫の神です。古くから祇園の芸妓さん舞妓さんをはじめ美しくなりたい願文の女性はもとより、美容理容・化粧品業者の崇敬を集めています。

十社
多賀社、熊野社、白山社、愛宕社、金峰社、春日社、香取社、諏訪社、松尾社、阿蘇社

日吉社
祭神 大山咋神、大物主神
 大山咋神は素盞嗚尊の三世の孫であり、大物主神は七世の孫で大国主神の分魂です。
 京都の鬼門(北東)を守るため方位除けの神として崇敬されています。
 日吉社祭 四月初申日

厳島社
祭神 市杵島比売命
 市杵島比売命は素盞嗚尊が持つ剣から産まれた三女神(美御前社祭神)の一神。 容姿端麗で舞を踊ることから舞踊・謡曲の神として崇敬されています。
厳島社祭 3月15日

五社(八幡神、疫神、竈神、天神、水神)、刃物社(刃物発祥地)

 

「オケラ参り」と「道教」との関係

 オケラ参りとは八坂神社の神事で、大みそかから元旦にかけてのにぎわう。 精進潔斎にた火で、キク科のオケラを燃やす。淨火として疫病消除の効果があるとされる。火を吉兆縄につけて持ち帰り、それを火種として元旦の料理を作ったり、神棚仏壇の灯明をともすのである。

 オケラは古来薬草として知られている。『抱朴子』には「朮:うけら、おけら」として仙薬のひとつとしている。神仙になるには五穀断ちがいいのだが、それにはオケラが最適だそうだ。
 天武天皇がこれを煎じて飲んでいるようだが、その一年後に亡くなっている。

          参考 −『日本史を彩る道教の謎』から−
 



「平成祭礼データ」の由緒

 八坂神社は明治元年まで祇園社と称していたので、祇園さんの名で親しまれ信仰されている。社伝によると八坂神社は斉明天皇2年(656)高麗より来朝せる調進副使の伊利之使主(いりしおみ)が新羅国牛頭山(ごずさん)にます素戔嗚尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのに始まる。伊利之来朝の事又素戔嗚尊が御子五十猛神と共に新羅国に降り曽戸茂梨(そしもり)〈楽浪郡牛頭山〉に降られた事は日本書紀に記す所であり、新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとある記録と考え合せて、ほぼ妥当な創祀と見てよい。尚この八坂の地は、華頂山の麓に位置し、牛頭天王示現の地と伝える瓜生石も現存し、又神社の南方に八坂の塔で知られる法観寺もあり、この一帯は今も清水寺、双林、長楽、安養、知恩院あり、当時霊地として信仰の対象であった事を思えば当社創祀は斉明期以前をも想定し得る。 以上
 

*1 日本の神々と建国神話(志賀剛)雄山閣、祇園信仰(真弓常忠)朱鷺書房、日本の神々5 白水社


公式八坂神社
五十猛命ホームページ

暢気なタオさん
神奈備にようこそ
inserted by FC2 system